[#表紙(表紙.jpg)] 銀行 男たちの挑戦 山田智彦 目 次  銃 弾 事 件  異 常 事 態  罠《わな》 の 存《あり》 在《か》  別 天 地 へ  波《は》 瀾《らん》 含 み  複雑な仕掛け  錯綜《さくそう》する思惑《おもわく》  明日の仕事   あ と が き [#改ページ]  銃 弾 事 件      1  三洋銀行名古屋《さんようぎんこうなごや》支店は、栄《さかえ》の表通りにあった。ここは市内の中心部と言ってもよく、周辺は賑《にぎ》やかな商店街になっている。  デパート、銀行、証券会社、損保や生保の支社、新聞社やテレビ局、ホテル、さまざまな飲食店等が集まっている。街の雰囲気も良い。洗練されていて、田舎くさいところがない。中部地方を代表する大都市名古屋の華やかな表の顔と言えよう。  当然、地価も高いがそれだけの価値がある。東京や大阪に本社を持つ銀行や証券会社やメーカー等も、名古屋に進出した以上、この界隈《かいわい》に支社や支店を出せなければ一流とは言えないかも知れぬ。むろん、そんなことを誰かが決めるわけではなかった。が、暗黙のうちにそういうムードが漂っている。  逆に言うと、名古屋に関する限り、ここに進出していれば業務推進上有利であると言ってもよい。  そのせいかどうか、いや、それだけではなかろう。歴代の支店長や行員たちの地道な努力の積み重ねで、三洋銀行名古屋支店は順調に業績を伸ばしてきた。  もちろん、バブル経済崩壊の痛手も受けた。不良債権が大幅に増えた。支店長以下の行員たちが回収に神経をすり減らしているのも事実だ。  目下、どの銀行も貸出金利の低下と不良債権の増加で収益を圧迫され、リストラを余儀なくされていた。「銀行冬の時代」ではなく「銀行氷河時代」であるとも言われ始めている。  三洋銀行とてけっして例外ではなく、債権回収をめぐるトラブルも次々と発生していた。  こうした状況下で、ある朝、銀行の正面大扉に拳銃の弾丸が二発撃ち込まれているのが発見された。  銀行のシャッターは毎朝九時に開けられ、午後三時に閉まる。このシャッターに撃ち込まれたため、内側の分厚いガラス扉に被害はなかった。近くに薬莢《やつきよう》は落ちていない。どうやら、犯人が弾丸を発射した後、回収したものと思われる。  当然大騒ぎになった。警察の現場検証チームも到着した。  ほどなく、庶務係の女子行員が表に「支店長殿」と書かれていて、裏に何の署名もない封筒が郵便物の中に交じっているのを発見した。郵便局のスタンプはない。  通常、郵便物は午前九時三十分に配達されるので、彼女は九時四十分を過ぎると、裏手の行員通用口の脇にある郵便受けのボックスまで出向いて行く。その後すぐ、彼女は自分の机に坐って郵便物の整理をした。  そして、奇妙な封書を見付けたのだ。スタンプがないので配達されたものではない。誰かの手によって郵便受けに放り込まれたものである。  実際、こういうことはよくあった。商店街の売り出しの広告ちらしや不動産物件紹介や開店披露のパンフレットなど、雑多な書類や封筒類がたくさん交じっている。大半は不要なものだが、判断は係長が下す。彼女は単なる取次ぎ役だ。 「こんなものがありました」  と教えた。 「あ、そう」  返事だけはしたものの、係長は殆《ほとん》ど関心を示さない。  無理もなかった。支店長宛の差出人不明の封筒はたいてい苦情だ。たちのわるい厭がらせもある。取るに足らぬというか、愚にもつかないたぐいの走り書きが多く、大半は支店長の眼に触れず、庶務係長が自分の判断で処分してしまう。  この日はとくに銃弾事件があった。めったにあることではないが、起こってしまった以上、仕方がない。事後処理に気を配る。警察との対応や接待は彼の管轄だ。忙殺《ぼうさつ》され、あたふたした。こういう事情もあって、正面の大扉が閉まる午後三時まで、例の封書は開封されないまま庶務係長の机上に置かれていた。放置されて省《かえり》みられなかったといってよい。  もちろん、銀行の事務にも優先順位がある。とくに支店は店頭業務を抱えているため、来店客数が増えれば事務処理に追われ、時間に追われる。差出人の署名もない、何者が出したのかもわからぬ封書など無視されて当然であろう。  とはいえ、正面のシャッターが下りると、店内にはほっとした空気が流れる。実は、本格的な事務処理はこれからなのに、一段落《いちだんらく》着いたという印象が強い。同じ事務処理でも、顧客を眼前にしているのといないのとでは気分が違う。気が散らないし、マイペースが保てる。その結果、皮肉なことに、逆に仕事が早くなる。  三時十五分過ぎに、庶務係長は自席に戻ってきた。封書に気付くと、舌打ちはしなかったが、かなり投げやりな手つきで開封した。便箋に記されたワープロの大きな黒い文字が眼を射た。  ──二発は表の扉に発射した。だが、三発目は人間が標的になる。せいぜい用心することだな。  庶務係長はものも言わず、とび上がるようにして席を立ち、一階フロアーの一番奥にある支店長室のドアをノックした。  彼は返事も待たずに突進する。慌てふためいた顔付きのままだ。 「どうしたんだね」  と支店長はたしなめた。 「どうも申し訳ありません」  係長は今度は丁重に叩頭《こうとう》する。  そのありさまを見て、今度は支店長の方が苛立った。 「用件は?」  と冷たく訊く。 「こんなものが郵便受けの中に入っておりました」  と言いつつ、係長は例の便箋を恐る恐る支店長の机の上に置いた。  黙読した支店長の頬に血が昇った。 「これはいつ投げ入れられたんだね?」  と質問する。 「よくわかりませんが、今朝になって配達された郵便物の中に交じっておりました」  係長は事実を伝えた。 「すると?」 「はい、前夜か夜明け頃か、いずれにせよ、銃弾が撃ち込まれた直前か、直後に放り込まれたのではないでしょうか?」  と推測した。 「それがどうして、いま頃わたしの所に」 「はあ」 「何故もっと早く知らせないんだね?」  と支店長は詰《なじ》った。 「申し訳ございません。朝から警察との対応に気を取られておりまして」  と言い訳する。 「しょうがないな」  支店長は舌打ちした。 「あの、すぐに警察の方へ知らせましょうか?」  係長は失点の回復を焦った。 「待ちたまえ。本部への連絡が先だ。総務部長に相談した上で、指示はわたしが出す」  支店長はぴしりと言う。よけいなことをするなと言わぬばかりのたしなめかただ。 「はい」  係長は恐縮し、また深く頭を下げた。 「わかっているだろうが、この件はどこへも漏らさんように」  支店長は念を押す。 「承知しました」  係長はもう一度頭を下げて支店長室を出てきた。  係長が退出すると、支店長はすぐ直通電話で総務部長に連絡を取った。今朝から四度目の電話である。すでに総務部調査役の一人がこちらに向かっていて、到着後に警察へ顔を出すことになっている。 「ああ、名古屋支店長だね。うちの調査役は着いたかね?」 「まだでございます」 「そうか、もうそろそろ着くよ」  磊落《らいらく》に言う。 「お手数をお掛けしまして申し訳ありません。実は」  と前置きする。  支店長はくだんの封書とワープロで打たれた脅迫の文言を読み上げた。 「うーむ」  聞き終わると、総務部長は唸った。 「どういたしましょうか? 取りあえず、警察に届け出した方がよろしいでしょうか?」  とお伺いをたてる。 「そんなことをすれば事件が大きくなる。燃えてる火に油を注ぐようなものだ。いいかね? 出来れば火を消し止めるのがわれわれの役目だよ」  きっぱりと伝えた。 「もちろん、わかっております」  と支店長は答えた。 「では、警察への届け出はやめる。一切言わない。うちの調査役にも教えない方がいい。関係者の口留めをして、問題の封書はきちんと鍵の掛かる場所に保管したまえ」  と指示を与えた。 「そうさせて頂きます」  支店長は一切抵抗しなかった。 「それから、その封書や便箋にあまり触らん方がいいよ。犯人の指紋があるかも知れない。きみらの指紋がべたべたあったんじゃ、あとで調べる時に面倒だからね」  総務部長はぴしりと言った      2  三洋銀行本店では臨時常務会が開かれていた。通常、常務会は週一回開催される。これが定例の常務会である。  ただ、緊急を要する問題が発生した時や、議題が増えて処理が遅れた時などにその都度招集が掛けられる。したがって、同じ週のうちに臨時常務会が続けて二、三度開かれるケースもあった。  原則として常務以上の役員が出席した。議題によっては担当の部長が出てきて説明する。開催の決定と司会・議事進行及び議事録作成等々の仕事は、管轄の総合企画部長に任されていた。  長谷部敏正《はせべとしまさ》が同期トップで取締役に昇格し、総合企画部長を委嘱されてから約一年が過ぎ去った。この一年は成瀬昌之《なるせまさゆき》が新頭取に就任して以来の一年である。言い方を換えれば、成瀬も長谷部もよく頑張った。目下のところ、何の不都合も破綻もない。両者共、むずかしい新任の仕事を過不足なくこなしたと言えよう。  さて、今日開かれた臨時常務会では、当然のことながら、昨日名古屋支店で起こった銃弾事件が議題にのぼった。 「どうやら真夜中か夜明け近くか、犯人は人通りの絶えた時間帯を狙って拳銃の弾丸《たま》を撃っております」  詳しい状況説明を終えた後で、総務部長はそうつけ加えた。 「薬莢まで拾って帰るとは、落ち着いたものだね」  と成瀬が言った。  近頃は頭取としての貫禄《かんろく》を身に付け始めていた。前頭取の杉本富士雄《すぎもとふじお》にくらべると、ずっと若々しく、表情もシャープだ。行動力もあり、切れ者という印象をあたえる。 「犯人はプロですな。どう見てもプロフェッショナルの仕事でしょう」  副頭取の大森英明《おおもりひであき》がすぐに阿《おもね》るような言い方をする。 「それは警察が決めることだよ。勝手な憶測は慎みたまえ」  成瀬はすかさずたしなめた。 「どうも、申し訳ありません」  大森は照れて右手の指先で後頭部を音立てて掻いた。  かつて、大森は杉本派の専務であったが、一年前の合併失敗、杉本追出し策で成瀬側に付き、取締役会の議長となって主要な役割を果たした。この時の功績で副頭取に昇格し、以来成瀬の片腕的存在になっていた。本人はそれを自慢している。磊落な性格のせいか、調子が良すぎて緻密さに欠けるところがある。  成瀬は大森の方を見ようともしない。完全に無視した。 「ほかに問題点は?」  と総務部長を促す。 「例の脅迫状ですが、あのまま隠しておいてよろしいでしょうか?」  彼としてはずっと気がかりになっていた事柄に触れた。 「隠しておく?」  成瀬は言葉尻にこだわった。 「はい」  総務部長は神妙な顔をした。何を咎《とが》められたのかよくわからない。 「隠すとか隠さんとかいうからおかしなことになる。あれはきみの一存でやったことだ。わたしも、ここにいる役員たちもよく知らない。第一聞いておらんのだからわからんわけだよ」  と言い放った。 「はあ」  総務部長は当惑顔だ。 「この件に関して、万一、何か起こったら、責任はきみが取ればいい。担当部長なんだから、当然だろう。日頃からそのくらいの覚悟を持って仕事をして貰《もら》いたいですな」  大森がまた口を出す。成瀬の思惑を代弁したかたちになった。 「ちょっと待って下さい。責任問題はともかくとしまして、あのワープロの文面を無視するわけにはいきません。あれは銀行にはっきりと警告しているわけですから、このまま放置しますと問題を後に残すことになります」  末席の長谷部敏正が発言した。  成瀬は少し顔をしかめた。渋面を作ったというほどではない。が、隣席の大森には気配が伝わってくる。 「すると、きみはあんな幼稚な脅しを真《ま》に受けて、もっとおおげさに反応した方がよいと言うのかね?」  大森が言いつのった。 「そうは言っておりません。ただ、警告は警告として受け取った上で、万全の対策を立てておくべきだと思います」  と長谷部は主張した。 「しかし、警察に届け出たらどうなる? やがてマスコミの知るところとなって騒ぎが拡大するばかりだよ。あそこは銃弾で狙われている『危ない銀行』だというマイナスイメージが広がりでもしたら目も当てられん」  大森は声を張り上げた。それだけではなく、身を乗り出して長谷部を睨《にら》みつけた。  成瀬はうんざりした顔つきになった。 「わかった」  と野太い声で言って頷いた。 「大森副頭取にキャップをお願いして、総務部長を中心に小委員会を作ろう。そこで、検討を重ねた上で対策を立てて貰うことにする、いいですね。頼みますよ」  念を押すと、成瀬は大森に向かって莫迦丁寧《ばかていねい》に会釈した。 「わかりました。この会議が終わり次第、さっそく取り掛かります」  と大森は言いきった。  これで一応の結論が出た。議題は次へ移り、約一時間後に「臨時常務会」は終わった。  成瀬はまっ先に席を立ち、かたわらの大森を省みた。 「さっきの小委員会はあくまでも非公式のものだからね。行内でもなるべく内密にやること。それから委員の一人に長谷部くんを加えたまえ」  早口で指示する。 「はい」  と大森は答えた。  成瀬は返事を背中で聞いて、さっさと遠ざかった。      3  成瀬の命令で発足することになった「小委員会」が同じ日の午後五時に始まった。急遽《きゆうきよ》メンバーが決まり、第一回の会合が開かれたのである。  なにしろ、頭取の命令だ。近頃の成瀬には貫禄がついた。頭脳はシャープだし、行動力もあった。成瀬は頭取の椅子に坐るや、次々と新しい施策に取り組んだ。目下のところ、これらはみな的中している。おかげで、業績は順調な伸びを示していた。富桑銀行《ふそうぎんこう》と合併しないでよかった。いまでは三洋銀行の全行員がそう思っている。  前頭取・杉本富士雄の強硬な合併推進の動きを阻止したのは成瀬昌之である。それだけに成瀬は三洋銀行にとって一種の救世主でもあり、英雄でもあった。  成瀬は行内外のこういう風潮を上手に利用した。まだ頭取に就任して一年にしかならないのに、持ち前の指導力を大いに発揮し、いまや、杉本以上のワンマン頭取になりつつあった。  ──成瀬昌之には誰もさからえない。さからえば、わが身が危ない。  そういう風潮が日々拡大している。そのため、誰もが争って成瀬に追従した。コメツキバッタになりすましておのれの身の安泰を図ろうとしていた。言葉はわるいが事実である。  役員たちの中では末席の取締役にすぎない長谷部敏正だけが、何故か、毅然としている。彼はたとえ相手が相当の権力者であっても、理由もなく阿《おもね》るのが嫌いだ。生真面目で一本気のせいもあり、こういう態度は男として潔くないと信じ込んでいた。  成瀬は長谷部の信念や性格を見抜いていて、逆に目を掛けた。新しい施策の殆どが長谷部とそのスタッフである総合企画部が立案し、実行に移したものだ。成瀬は長谷部の他人に迎合しない態度と実力を高く評価していた。  大森英明はそれをあまりこころよく思っていなかった。彼にしてみれば、成瀬新政権が成立したのはひとえに彼自身の協力によるものだ。そう信じ込んでいる。事実、彼が取締役会で議長を務めて、多数決を取り、杉本富士雄に引導を渡さなければ、成瀬頭取は誕生しなかった。  したがって、自分が第一の功労者だと思い込んでいた。  たしかに報われた。結果として、副頭取になったからだ。ナンバー2である。もちろん、そのこと自体に不満はない。なにしろ、成瀬に次ぐ存在なのだ。  しかし、日を経《へ》るにつれて現実が見えてきた。大森にとっては、実に厳しい現実である。それに成瀬昌之の性格、思考、行動力等々を含む実像がしだいにはっきりしてきた。  わずか1と2の違いではあったが、ナンバー1の成瀬とナンバー2の大森のあいだには断崖絶壁を思わせる障害物が横たわっている。この差は大きい。1と2のわずかな差ではなく、雲泥《うんでい》の差なのだ。  しかも、成瀬はことごとにこの差を強調し、常務会や取締役会等ではもちろん、全国支店長会議のような大勢の幹部行員が出席する会合でも大森の存在を無視し、あえてないがしろにするような発言をする。気付かずについ漏らすのではなく、わざとあからさまにやった。  大森にしてみれば小莫迦《こばか》にされているとしか思えない。はっきり言えば、頭取が副頭取をパートナーとして扱わず、満座の中で笑いものにした。そう解釈することも出来る。しかも、成瀬は意図的にやっている。  当然、大森は腹も立て、苛立ちもした。が、どうにもならない。実力の違いがあまりにも歴然としていた。  正面きって闘えば、敗れるのは目に見えている。簡単に一蹴されるだろう。仕方なく方向を変えた。ひとまず恭順《きようじゆん》の意を示し、阿る役目に転じたのだ。  すると、利用価値ありと判断したのか、成瀬は以前ほど大森に当たらなくなった。事実、今日の会議でも、大森は成瀬の意に沿う形で上手に盛り上げた。  およそこういう経過があって、成瀬と大森の仲は良くも悪くもなく、目下小康状態を保っている。  大森にしてみれば、無理もないが、彼はしだいに長谷部敏正を嫌うようになった。取締役の末席にいながら、いつも堂々と本音を口にするからだ。成瀬に対してもあまり遠慮せず臆するところがない。彼のような立場のナンバー2にとっては、これは驚きでもあるが、同時に憎しみの芽が育つ原因にもなる。  今日も長谷部の発言のおかげで、「小委員会」を作るはめになった。彼の口出しさえなければ、よけいな気苦労をせずにすんだ。  いま、役員会議室の一つに七名が集まっている。  大森が委員長になり、総務部担当の専務と総務部長を中心に委員が選出された。本来なら総合企画部長の長谷部は担当外ではあるが、頭取の指名があった。これもまた忿懣《ふんまん》のタネになる。  大森は不機嫌な表情で会議を進める。短い挨拶だけして、司会と運営は総務部長に任せた。 「今度の事件の場合、支店の事情がポイントになると思いますので、次回からは名古屋支店長にも同席して貰ってはどうでしょう」  と長谷部が提案した。 「どうもきみは、事態を丸くおさめるのではなく、おおげさに解釈して拡大しようとしている。え、そうじゃないのか?」  大森の顔が少し歪み、頬に血が昇った。 「お言葉ですが、今度の事件を安易に考えない方がよいような気がします。企業テロがあちこちで起こっており、しかも、かなり兇悪化しております。銀行の急激な不良債権圧縮運動も大きな原因になっている筈《はず》です。脅迫状まで投げ込まれていたとなると、このまま放置しておいてよいのかどうか、真剣に検討すべきでしょう」  長谷部は熱くならないように注意して、淡々と言った。  多くの者が頷くのを見て、大森は唇の端を噛んだ。 「きみに世の中の動きを解説して貰う必要はない。うちは他行にくらべて不良債権が少ない方だ。その分だけ取引客に恨まれるパーセンテージが低いことになる」 「たしかに、そうかも知れませんが、個々のケースになりますと、どうでしょうか?」  長谷部はやんわり言って、反撃に転じようとした。  その時、ノックの音と共に、女性秘書が一礼して、室内に入ってきた。  長谷部の脇まで来て、メモ用紙を渡す。  ──成瀬頭取がお呼びです。至急、頭取室までお出で下さい。  と書かれていた。 「わかりました」  と長谷部は秘書に伝えた。  すぐ立ち上がって、大森の脇まで移動する。 「頭取に呼ばれましたので、ちょっと失礼いたします」  と耳許で伝えた。 「うむ」  と大森は頷いた。  相手が成瀬ではどうにもならない。表情を緩めて長谷部の後ろ姿を見送った。  一方、長谷部は会議室を出ると、その足で頭取室に向かう。もともと足は速い。大股でさっさと歩いた。ノックをすると、「どうぞ」という声が聞こえた。  成瀬は大きな頭取の執務机の向こうにいる。長谷部が一礼するのを待ってソファーを指さした。 「あっちへ移ろう」  と誘う。 「例の小委員会だが、きみは意見だけ言ってあとは総務部に任せなさい」  歩きながら振り返って言った。 「はあ」  長谷部は納得のいかない顔付きだ。 「不良債権の回収や、それにともなうトラブルの処理は、そういうことしか出来ん連中に任せておけばよかろう。きみにはもっと大事な仕事がある。え、そうじゃないのかね?」  言って、じろりと見た。 「たしかに」  と長谷部は口をきった。 「まあいい、坐りたまえ」  成瀬は自分が先に坐ってから言う。 「きみが提出してくれた合併に関する調査報告書だが、じっくり読ませて貰ったよ」 「それはどうも」 「なかなか良く出来ている。情報収集力と調査能力だけではなく、きみの分析力にも感心したよ」  成瀬は穏やかな顔付きになった。 「恐れ入ります」  長谷部は少し照れた。 「いままでの『銀行合併』には二つの大きな流れがあった。規模の利益即ちスケールメリットを狙う大型合併と、巨大銀行が何か問題のある中小銀行をいわゆる救済のかたちをとって吸収合併してしまう。この二つのどちらかだ。その中間は殆どない」 「わたくしもそう思います」 「だが、これからは違う。もういままでのようなケースはなくなる」  成瀬は確信を持って言った。 「………」  長谷部は黙っていた。成瀬が先へ進みたいのを察知したからだ。 「杉本の爺さんが画策して見事に失敗した富桑銀行とうちの合併、いまから考えると、あれは不思議な合併案だった。第三者から見ると、どう見てもスケールメリットを狙ったかのように映る。ほかには考えられない。ところが、富桑銀行は富桑グループがバックに付いている財閥系銀行だ。十年もしないうちに、いや、せいぜい五年位で完全に当行が吸収されてしまう。となると、どうだね。いま合併のケースを二つに分類したばかりだが、富桑とうちの場合は、この両方に当てはまる。こんな莫迦な合併があるかね? 言いかえれば、メリットが富桑銀行だけに集中する。だからこそ、初代の頭取のポストを杉本富士雄にくれたんだよ。あれは大きな餌だ。その餌に杉本の爺さんはまんまと食らいついた。まったくお粗末だね。わたしはそういう愚だけは何としてもさけたい。この際、きみにはっきり言っておこう」  成瀬は熱弁を振るった。 「わかりました」  長谷部は成瀬の顔を見返して答えた。 「ところで、わたしは腹を決めた。きみの資料を参考にしてある銀行に狙いをつけた。今度は当行がメリットを得る番だ」  落ち着いた声で成瀬は宣言した。      4  石倉克己《いしくらかつみ》は銀行を離れるとすぐ、大蔵大臣|毛利有太郎《もうりゆうたろう》の第一秘書になった。  しかし、長年彼が居た銀行と政界はあまりにも違いすぎた。豪放な毛利に魅かれた結果の転職であったが、彼は約一か月で見切りをつけた。  もともと、政界入りしようという野心はない。おりよく、翌月に内閣改造があり、毛利は大臣の椅子から滑り落ちた。  たまたま東大経済学部の先輩が大手機械メーカーの社長をしていた。強引に口説《くど》かれてその気になった。タイミングがよかったと言える。総務と経理を担当する役員で迎え入れたいという好条件である。  石倉は半日考えただけで心を決めた。毛利有太郎も理由《わけ》を聞くと、こころよく承諾してくれた。  人間の運というのは不思議なものだ。いったん動き始めると、くるくる動く。五十歳まで銀行勤めをしていて、重役一歩手前まで頑張った。あとひと息であったのは誰もが認めるところだ。彼自身もそう考えていた。  富桑銀行との合併問題さえ起こらなければ、との思いはいまでもある。  客観的にみても、同期の中で松岡紀一郎《まつおかきいちろう》との競争には勝っていたし、地方の支店長出身の長谷部敏正に抜かれることもなかったであろう。西巻良平《にしまきりようへい》には負けたかも知れないが、彼は過労死をとげ、自ら立ち去った。経済分析や企業調査では抜群の宮田隆男《みやたたかお》は、自分の方から下りてしまって、大学の経済学部の教授への道を選んだ。  五十歳を迎えたとたん、石倉の周辺にいた、いずれも優秀な同期生たちの運命が次々と狂った。富桑銀行との間に持ち上がった合併問題やバブル経済の崩壊、不良債権の急増等々が彼等を揺さぶり、翻弄《ほんろう》したのはたしかだ。  誰もが銀行員としての経験を生かし、頭を働かせ、知恵を絞った。果敢に取り組んだと言えよう。  しかし、結果ははっきりと出た。踏みとどまった者、去った者を含めてさまざまなかたちをとった。果たして、それがよかったのかどうかはよくわからない。  というのも、西巻を除いた他の者たちは、皆が皆、揃って現役であり、ちょうど人生の折返し地点あたりを過ぎたばかりだからだ。したがって、ほんとうの意味での結論はまだ出ていないのである。  石倉克己自身が一年前には銀行を離れるとは思っていなかった。  政界をちらりと覗き、メーカーに落ち着いたが、一年後の自分の運命を彼自身が予想していない。人生とは不思議なものだ。いまさらのように石倉はそう思った。いや、予想し得ないことが次々と起こるのが人生だ。近頃ではそんな気さえしてきた。  いずれにせよ、石倉は現在|港《みなと》区|赤坂《あかさか》に本社のある「星野田機械《ほしのだきかい》」の取締役として多忙な毎日を送っている。入社と同時に総務と経理を担当しつつ機械メーカーについて猛勉強を開始した。もともと銀行での審査課長時代にメーカーについての勉強はしていた。  そのせいか、機械メーカーの仕事全般についても、短期間のうちに自信を持てるようになった。意欲的でエネルギッシュでやる気のある人物との評価も高まってきた。そうなると、居心地もわるくない。むしろ、銀行時代よりも伸び伸びと働いている。しばらく会わなかった友人に出会って、若返ったねと真顔で言われて思わずにやりと笑ってしまった。  個室で書類を点検していると、机上の電話機が鳴り始めた。 「社長がお呼びです。すぐ社長室まで行っていただけますか」  と秘書課長が告げた。 「わかりました」  と石倉は答えた。  社長室は同じフロアーにある。手帳を手に取って、立ち上がった。 「きみの評判はなかなかのものだ。やはり、一流の銀行マンは違うな。さすがだと感心していた人もいる。いまは量じゃない、質の時代だからね。人材も同じだ。おかげで、わたしも鼻が高いよ」  社長は恰幅のよい躰を満足気に揺すった。 「有難うございます。これも先輩の、いや、飯沼《いいぬま》社長のおかげです」  石倉は丁寧に頭を下げた。 「まあ、そう固くならないで、きみとはこれからも先輩、後輩でいこう」  と言いつつ飯沼|進《すすむ》は立ち上がってソファーを目指す。 「紅茶でもどうかね」  と奨める。 「頂きます」 「そうくると思って、もう頼んであるよ」  と告げて、どさりと坐った。 「さあ、どうぞ」  と促す。 「失礼します」  一礼してから石倉は腰を下ろした。 「どうも銀行員のくせが抜けんようだな。きみはすべてに丁寧すぎるよ。もっとざっくばらんでいいんだ」  飯沼は丸い顎《あご》をゆっくりと撫ぜる。 「どうも申し訳ありません」 「それだよ。何も申し訳ないことなんかありゃせん」  と鷹揚《おうよう》に言う。 「もっとも、きみのそういう礼儀正しさが評判の良い原因かも知れんな。どうもわが社はがさつな連中が多くていかん」  とつけ加える。 「しかし、人間味があり、ヴァイタリティもあります。それに、わたしは別にがさつだとは思いません。慇懃無礼《いんぎんぶれい》よりよっぽどいいと考えますが」  と石倉は言いつのる。 「わかった、わかった」  飯沼は満足そうに頷いた。  そこへ紅茶が運ばれてきた。飯沼はいそいそと角砂糖を三個も入れてスプーンでかき混ぜる。 「ところで、ニューヨークへ行ってきてくれんかね?」  と用件をきり出した。      5  松岡紀一郎は博多《はかた》にいた。  福岡支店長として赴任して約一年になる。  松岡はかつて副頭取の勝田忠《かつたただし》に目を掛けられていたので、当初は勝田の思惑通りに動いていた。頭取の杉本富士雄と勝田は強力なラインを作っていたので、いわば頭取派についたことになる。  しかし、松岡は機を見るに敏で、頭の回転も早く、一見とぼけたような印象を与えるポーカーフェイスが得意だ。情報収集にもたけている。当然、変わり身は早い。  合併反対の機運が高まるにつれて、次は成瀬昌之の時代になると読んだ。すばやく乗り換え、成瀬派についた。いままでのマイナスを帳消しにするためにも、熱意を示し、よく動いて、成瀬をフォローした。  時間の経過と共に、成瀬の懐《ふとこ》ろ刀《がたな》的な存在になり、成瀬と一体になって合併阻止派の中心人物となった。  松岡の目には同期生のトップは、名古屋支店長をへて融資部長になった長谷部敏正ではなく、杉本頭取の覚えめでたい石倉克己であるかのように映った。事実、当時の石倉は実に颯爽《さつそう》としていた。総合企画部長として次々と出す施策が当たり、神谷真知子《かみやまちこ》の|MOF《モフ》(大蔵省)担|抜擢《ばつてき》も銀行界の大きな話題となった。  頭取の杉本さえ危ぶんだこの人事を、石倉はあえて強行して成功させたのだ。当然、杉本の石倉評価も高まったが、これは同時に別の事態をも生むことになった。総合企画部長というポストのせいもあるが、それだけではなかろう。石倉の力量を認めたからこそ、杉本は秘密の事前工作に石倉を引っ張り込んだのである。  松岡は情報通だけあって、このあたりの事情を薄々察知した。もし、杉本—石倉ラインで進められている富桑銀行との合併工作が成功すれば、間違いなく石倉の存在は大きく浮上する。そうなれば、どう見ても彼自身の立場はなくなる。まして、合併後の取締役就任はむずかしい。  となると、道は一つしかない。合併阻止である。  いったん意を決すると、迷いが消えた。松岡は成瀬に全面的に協力し、共に効果的に動いて合併問題を白紙撤回へと追い込んだ。  ところが、事態が一段落してしまうと、松岡の思惑は大きく崩れ去っていた。杉本は事実上引退して顧問になり、勝田はやめた。石倉も去った。  が、取締役に昇格したのは長谷部敏正であった。  しかも、長谷部の昇格については、杉本と成瀬、即ち新旧両頭取の推薦があったと伝え聞いた。  ──そんな莫迦な!  というのが松岡の実感である。  長谷部も合併に反対したものの、松岡ほど骨を折っていない。もっぱら愛行心のなせるわざであると言う。松岡のように積極的に成瀬に協力したわけではなく、きわめて消極的な参加であった。長谷部が朴訥《ぼくとつ》で生真面目な働き者であるのはわかる。たしかに人柄が良く、人望も厚い。が、修羅場をくぐるということになると、どうであろうか?  間違いなく、自分の方が上だと松岡は思い込んでいる。  福岡支店長の辞令を手にした時は、一瞬、信じられずに茫然として頭の中が白くなった。あの時の無力感がいまだに心の内側に居座っていた。  自席に戻って、無言のまま業務推進部長の椅子に腰を下ろしていると呼び出しが掛かった。新頭取のポストを射止めた成瀬昌之からである。ノックをして頭取室へ入った。あの時のことを昨日の出来事のように思い出す。 「きみは今度の人事に不服だろう」  成瀬はいきなり言った。 「いえ」  と松岡は口ごもる。 「隠さなくてもいい。もし、わたしがきみの立場であったら、福岡支店へ行けと言われたら、がっかりするよ」  成瀬は口許に皮肉な笑いを浮かべている。それが冷笑のようにも見えた。 「………」  松岡は黙っていた。  何か言い始めると、忿懣があらわになり、簡単に止まらなくなると考えたからだ。 「たしかに福岡支店は大店舗だ。当行としては重要な九州地区のブロック長店舗でもある。しかし、きみはいま本部の業務推進部長で役員候補のトップバッターだった。となると、どうだろう。誰が見ても事態は明白だ。これはもう明らかに左遷だね」  と意地わるく指摘する。  松岡は口を尖らせた。その左遷を決めた張本人は誰だ。あなたではないかと詰め寄りたくなるのを我慢した。 「きみにはすまんが、実は、これが狙いなんだよ」  と成瀬は言う。 「狙いとおっしゃいますと」  松岡はつられて訊いた。 「今回の合併阻止の功労者は、何といってもきみとわたし、即ち、成瀬—松岡ラインだ。したがって、わたしが公平な人事をせずにきみをいきなり昇格させるのは当然だと多くの人たちが考えている。そこでわたしはその裏をかいた」 「………」 「あえて長谷部くんを昇格させ、きみを福岡支店に出した。勝てば官軍といきたいところだが、図に乗ると人の心が離れる。そこでワンクッション置きたい。だから、まずわたしとしては身内のきみに我慢して貰おうと決めた。わかって貰えるかね?」  と念を押す。 「はい」  松岡は仕方なく頷いた。 「有難う。きみなら理解してくれると思ったよ。その代わり、それなりの処遇はしよう。次期の取締役就任と早い時期の常務昇格を約束する」  と言い渡した。 「よろしくお願いします」  松岡は深く頭を下げた。 「きみの頑張り方にもよるが、長谷部くんを追い抜くぐらいのことは簡単だろう。取りあえず福岡支店の成績を大いに上げてくれたまえ」  成瀬は言い終えると、右の眼を閉じた。眼配せしたのである。  松岡もやや照れながら笑い返した。  博多に単身赴任してからも、彼はしばしばこの時の状景を思い浮かべた。いまさらのように成瀬の約束を反芻《はんすう》しては、おのれを励ます。そうせずにはいられなかった。そして、これはけっして左遷ではないと信じ込もうとした。  松岡に限らず、本部の中枢部に長く居て、それなりの権力を誇示してきた人物が支店に出るとがっくりくる。何故か、淋しさがつのり、孤独感に苛《さいな》まれる。  東京都内の有力店舗に出てさえ淋しくなるのだから、単身赴任で地方へ出たとなればなおさらである。電話もファックスも即時につながるし、飛行機を利用すればひと飛びだが、それでも実感として東京—博多間の距離はかなりあった。  その上、関係者の多くが都落ちだと思っている。同情されていたのだ。もちろん、新頭取との約束は誰にも明かせない。そっと胸の内にしまっておくほかはなかった。  それでも不安になる。ほんとうにあの約束は守って貰えるのだろうか? 時折り、危惧の念が頭をもたげる。  始めは成瀬本人が月に一回位の割りで電話を掛けてきた。これが四か月続き、五か月目には秘書課長が連絡してきて、頭取がよろしくと言っておられましたと伝えてくれた。  松岡の方から用件にかこつけて連絡することはある。支店長会議やブロック長会議で上京すると、必ず成瀬に挨拶した。二度コーヒーをご馳走してくれたが、三度目からは何も出ない。食事に誘われることもなかった。以前はしばしば会食しながら相談や打ち合わせを重ねただけに、淋しさを拭《ぬぐ》えない。  やはり、自然に遠ざけられている。そんな気がしないわけでもなく、改めて意識すると不安がこみあげてきた。  日を経《へ》るにつれて成瀬昌之は自信を深めつつある。  それにつれて貫禄が増し、威丈高《いたけだか》になり、傲慢になった。人脈も拡大し、多忙になり、贅沢になる。古くからの友人や知己をないがしろにしている。まして、部下となればなおさらだ。副頭取以下、役員や部長、支店長などは鼻先でしかあしらわない。松岡だけを特別待遇する筈もなかった。      6  一年が過ぎる頃から、松岡の不安と猜疑心《さいぎしん》は高まってきた。  折りもおり、変化が起こった。  福岡支店にひょっこりと前副頭取の勝田忠が訪ねてきたのだ。  勝田は何の前触れもなくやってきて、窓口の女子行員を通じて支店長に面会を求めた。支店長席に居た松岡が出て行くと、ロビーに立ったままの勝田が手を振った。 「やあ、元気そうだね」  と顔を綻《ほころ》ばせて、先に声を掛けてくれた。 「これはお珍しい」  松岡もなつかしそうに笑顔を浮かべた。 「近くへ来たんで、ついふらふらと寄ってしまった」  勝田は少し気恥ずかしそうな表情をする。 「どうぞ、どうぞ、大歓迎です」  松岡は嬉しそうな顔をした。 「東京からわざわざいらっしゃったんですか?」  と訊く。 「なにしろ、現在のわたしは年金生活者ですからね。暇はあります。暢気《のんき》なものですよ。近頃はカメラを持ってあちこち旅行してます。実は『蒙古襲来』に興味を持ちましてね。当時、博多の海岸に作られた防壁の跡を調べて歩くのが今度の旅の目的なんです」  と勝田は打ち明けた。 「それはすごい」  松岡は驚いた。勝田にそんな高尚な趣味があったのかと見直す思いである。 「わたしの場合は研究でも調査でも何でもない。暇つぶしと単なるもの好きですから、気が楽ですよ」  と勝田は卑下《ひげ》した。 「いや、いや、そんなふうにおっしゃるところが怪しい」  と松岡は首をひねった。 「怪しい?」  勝田は怪訝《けげん》な顔で訊き返した。 「そうです。ほんとうは何をたくらんでおられることやら」 「おい、おい、きみは相変わらず口がわるいなあ」  少し鼻白んでたしなめた。 「どうも失礼いたしました。ところで、今夜は博多にお泊まりでしょう。ぜひ、わたくしに付き合って下さい。お願いいたします」  松岡は丁寧に頭を下げた。 「きみは毎晩、宴会その他で忙しいんじゃないのかね?」  と皮肉る。 「とんでもありません。もし、かりに忙しくても、副頭取のためには万障繰り合わせてごらんに入れます」  しゃあしゃあと言う。 「相変わらず、調子者だな、きみは」  二人は顔を見合わせ、声を合わせて笑い声をあげた。  たしかに、久しぶりの対面である。成瀬新政権が誕生した後、引退が決まった勝田の送別会が開かれた。役員と部長、支店長クラスの二回に分けて別の会場でおこなわれ、松岡は後の会に出た。  その時以来である。松岡が博多に赴任したせいもあり、暑中見舞いや年賀状は交わし合っているものの、事実上、交渉が絶えてしまった。  お互いに、とくに松岡の方に忸怩《じくじ》たる思いがあったのもたしかだ。勝田を通じて杉本派に属していた筈の松岡が、掌を返して合併阻止派の成瀬側についた。  しかし、いまは両者共、そ知らぬ顔をしている。いずれにせよ、すんだことだ。過去にはもうこだわらぬ。たぶん、そういう思いがあるのだろう。  二人は一時間ほど世間話をした。当たり障りのない話題ばかりを選んだ。  やがて、勝田は腰を上げた。午後七時に松岡の予約した料亭で夕食を共にすることになった。 「六時四十五分にホテルの方へ車を廻します。それにお乗りになって下さい」  松岡はそう告げた。 「有難う。お言葉に甘えるよ」  勝田は満足気に手を振って福岡支店を出て行った。  同じ日の六時過ぎ、当の勝田から電話が掛かってきた。 「実はね。珍しい人がホテルにお見えになってね。七時からの会食に同席させて貰いたいとのご希望なんだ。どうでしょう。一人増えてもかまいませんか?」  と尋ねる。 「けっこうです。増えるのはかまいません。一人でも多い方が賑やかでよろしいでしょう。ところで、その方はどなたですか? わたしの知っている人でしょうか?」  と訊いた。 「もちろん、よくご存知の方ですよ」  勝田はじらすような言い方をする。 「どなたでしょう?」  松岡はせっかちだ。いささか苛立ちながら口を尖らせた。 「前頭取の杉本さんですよ」  ずばりと言った。 「え、杉本前頭取が博多にいらっしゃったんですか?」  松岡は驚いた。 「そうです。いまは顧問の杉本さんがあなたに会いたがっているんです」  と教えた。 「わたしに、会いたがっている?」  松岡は不安気に呟いた。  なにしろ、杉本富士雄は成瀬—松岡ラインに敗れ、合併が白紙に戻ると責任を取るかたちで事実上の引退に追い込まれた人物だ。その時以来、消息も聞いておらず、会ってもいない。何となく不吉な予感を覚えたのだ。が、勝田に対しては負い目がある。いまさら断わるのも気が引けた。それに、いまとなっては杉本は重要人物でも何でもない。顧問ではあったが銀行へは出勤義務もなく、社会的にも葬られた人と考えてよい。恐れたり、用心したりする必要のない人物である。そう思うと気が楽になった。 「お目に掛かれるのが愉しみだとの伝言です。では、七時にごいっしょしましょう」  勝田は明るい声で告げた。      7  杉本富士雄も勝田忠と同じホテルに泊まり合わせたのであろうか、二人は松岡が廻したハイヤーにいっしょに乗ってきた。  両者共、顔の色艶もよく溌剌《はつらつ》としている。一年前より若返っていると言えた。  松岡は二人を出迎え、上座に据えて丁重に叩頭する。 「正直なところ、驚きました。お二方共実に若々しい。ほんとうにお元気そうですね」  感歎の声をあげた。 「いや、驚かせてすまなかった。亡霊を見たような気がしたんじゃないかな」  杉本は揶揄《やゆ》気味に言う。 「不意打ちで申し訳ない。しかし、博多まで来た以上、きみに声を掛けずに帰ってはまずかろうと思ってね」  脇から勝田が言い添えた。 「有難うございます。お目に掛かれましたのを喜んでおります」  松岡は真顔で応じた。 「わたしは名ばかりの顧問で、事実上いまの銀行とは縁がない。勝田くんと似たようなもので引退した老人にすぎんのだからね。気遣いは無用にして貰おう」  と杉本は言った。  たしかにその通りなのだが、口のきき方や態度はまだ尊大で、相変わらず以前の頭取風を吹かしているような印象を与える。  勝田もかつて副頭取として頭取に仕えた時とあまり変わらぬ言葉遣いで杉本に接していた。世間話を続けているうちに、両者が連れ立っていっしょに九州へ来たのがわかった。  蒙古襲来の時の防壁の遺跡に、杉本も興味を示したらしい。そこで勝田が案内役を買って出た。  杉本にしてみれば、勝田を連れている限り安心していられる。陰日向なく、誠心誠意面倒を見てくれるからだ。おそらく、ホテルや新幹線その他の手配も勝田に任せたのであろう。  松岡はすぐにおよその察しをつけた。旅の目的が蒙古襲来の遺跡見物となると、福岡支店を訪れたのは、あくまでも付けたりの儀礼的な訪問になってしまう。  まあいい、老人二人のおもりぐらいならたいしたことはない。しかも、今夜だけである。松岡はたかをくくった。  すると、勝田がいくらか表情を引き締めた。おやと思う間もなく、杉本がひとつ咳払いをした。 「実はね」  と勝田がきり出す。 「少しばかりあなたが気の毒になった。若手では一番の功労者であるきみが島流しになっている。すでに一年過ぎたが放りっぱなしだ。それとも、何か朗報が入ってるのかな? 近頃、成瀬くんが直々《じきじき》に電話を掛けてくるようなことがあるかね?」  と問いつめた。 「直接電話を貰ったのはかなり前の話です」  と松岡は答えた。 「半年以上も前だろう」 「はい」  と返事をしたが、不安が顔に出た。 「成瀬くんの性格についてはわたしが一番良く知っている。熱しやすく醒めやすい男でね。さんざん世話になっておきながら、すぐ恩義を忘れる。その上、自己主張が強くて傲慢だ。近頃は図に乗って、手が付けられなくなっておる」  杉本が憎々し気に言った。 「おっしゃる通りです。いま大森くんがずいぶん苦労して、道化役を演じておりますが、ああでもしなきゃストレスで胃に穴があくでしょう。なにしろ、副頭取ですからね。まったく可哀相になりますよ」  すかさず勝田が同調する。 「大森くんの場合は仕方ないさ。自分で選んだ道だからね。わたしはもうあの男は見捨てておる。成瀬にこき使われてのたれ死にでもするがいい」  杉本は矛《ほこ》先をゆるめない。それどころか、酒もまわってきたのか顔の赤みが濃くなってきた。 「たしかに、大森くんは自業自得でしょうなあ。気の毒だが止むを得んところもありますからね」  勝田は調子を合わせた。 「しかし、成瀬も大森も、みな、わたしが育てた男だ。鍛えてあれまでにした。子飼いの連中に手を噛まれたんだから、これは噛まれる方もわるい。それに彼等の裏切りはもう一年以上も前のことだからね。いまさらこだわらんよ」  杉本の表情は少し緩んだ。 「ここの料理、なかなかいいね。良い店へ案内してくれた」  と松岡をねぎらった。 「恐れ入ります」  松岡はすかさず頭を下げた。 「東京よりずっと料理が新鮮で味がいい。地方はまだまだ捨てたものじゃありませんなあ」  勝田も眼を細めた。 「わたしはもう過去にはこだわらん。大事なのは現在であり、未来だ。わたしが勝田くん以下大勢の協力を得てこれほどまでにした三洋銀行を、成瀬一人にめちゃくちゃにされたんではたまらない。わたしとしては棺桶に入っても成仏出来ん心境だよ」 「まったくです。まさにその通りだと思います」  勝田が賛同する。  松岡は最初から聞き役に廻った。そうならざるを得ない雰囲気だ。引退したとはいえ、老人二人は元気いっぱいである。表情や話し方も生臭く、話の内容も生々しい。  博多も大都会だが、東京の中心部から離れて一年にもなると、どうしてもホットな情報に疎《うと》くなる。まして、銀行の本部の動きとなれば、もうお手あげである。松岡のようなすばしっこい人物でさえそうだ。  杉本と勝田の忿懣にはリアリティもあり、情報性もあった。老人の繰り言どころではない。成瀬の動きやかなり一方的であるにせよ、およその評判を察知出来る。おかげで、しだいに引き込まれてしまった。  松岡はいまのところ、成瀬派の一員である。始めは反論を試みるべきかどうか迷った。しかし、二人は松岡が少しも優遇されていない点に言及したので、その通りだという思いのみが強まってきた。  他人に指摘されたためになおさら、わが身の不遇がくっきりと浮かび上がってくる。すぐに聞き役に廻った方がメリットが大きいのに気付いた。 「成瀬はすっかり豪《えら》い気になって、銀行を私物化しておる。こんなことが許されると思うかね?」  杉本は眼を剥《む》いた。 「許されるわけはありません」  勝田が強調する。 「松岡くんの意見はどうかね?」  と顎をしゃくった。 「勝田さんと同意見です」  と松岡は答えた。 「そうか、きみは以前から勝田くんの所に出入りしておったんだな」  と満足気に言う。 「はい」 「それで、成瀬にたぶらかされて合併反対に廻った。とはいえ、若さも元気もあって、大いによろしい」  杉本はゆっくりと頷いた。 「なあに、自分で勇み足に気付けば、それでいいんだ」  とつけ加えた。 「きみ、お礼を言いたまえ。杉本顧問はきみを許しているんだ」  脇から勝田が口を挟んだ。 「はあ」  松岡は途惑《とまど》った。 「まあ、固苦しいことは抜きにしよう。わかればけっこうだ。この問題は終わった」  杉本がさっさと結論を出した。 「では、この際、きみを信頼して新しい情報を教えよう」  杉本はもったいぶった。 「その件はまだ秘密事項ですが」  と勝田が注意を促した。 「松岡くんには教えてもいいだろう。お互いに信頼し合わないとね」  杉本はたしなめた。 「わかりました。松岡くんはけっして秘密を漏らすような人物ではありません。わたくしが保証いたします」  勝田が請け合った。 「きみに改めて言われんでもわかっておる。松岡くんを信頼出来んのなら、なにも東京からのこのこ出て来たりはせんよ」  杉本は微笑を浮かべた。 「そういうことですな」  勝田も頷いた。 「実はね」  と杉本は前置きした。 「成瀬くんは合併を画策しておる。きみの反対した『銀行合併』だよ」  と言い放った。 「まさか?」  松岡は驚いた。 「そのまさかが起ころうとしている」  勝田が言い添えた。 「ほんとうですか?」 「ほんとうだ」  勝田は突き放すように言った。  杉本は無言のまま、じっと松岡の眼を見据えた。      8  長谷部敏正はひそかに動いていた。  成瀬昌之が指示した『銀行』との接触を始めたのだ。 「わたしは腹を決めた。きみの資料を参考にしてある銀行に狙いをつけた」  と成瀬は言った。 「今度は当行がメリットを得る番だ」  と強調している。  成瀬が指名したのは「太平銀行《たいへいぎんこう》」である。静岡を中心に百五十の支店網を持つ地銀の雄だ。総資金量は四兆七千億円で中堅銀行としては大手に属する。  地元に密着した地場銀行で、着実に業績を上げていた。東京都内の支店が少なかったのが幸いし、バブル経済崩壊の影響もあまり受けておらず、不良債権の急増に悩んでいる様子もない。その限りにおいて、他行と合併する必要はなかった。  しかし、何かつけ込む余地を見付け出すのが長谷部の役目である。  調査を進めた結果、意地のわるい見方をすれば、問題はあった。  太平銀行はもともと大須賀《おおすが》一族によって経営されてきた銀行であり、現在の頭取である大須賀|勇造《ゆうぞう》は四代目に当たる。  にもかかわらず、五代目を継ぐべき人物が見当たらない。大須賀夫妻には男の子がおらず、一人娘が芸大のピアノ科を出て、先輩の作曲家と結婚してしまった。当然のことながら、娘夫婦は銀行の経営などに何の関心も示さなかった。  親戚の内にもこれはという人物は見当たらず、一族の中から五代目の頭取を出すのはむずかしくなっている。  大須賀勇造は現在六十八歳になっており、前々から七十歳になったら引退すると口に出していた。そのくせ、相当な野心家で名誉欲や権力欲が強く、人をなかなか信用しなかった。用心深く、猜疑心も人一倍強い。長年にわたって超ワンマン頭取として君臨してきた。  こういう人物には近付かない方がよいというのが、長谷部の直感である。  が、成瀬は大いに興味を持った。 「とにかく、きみが先に接触して様子を探りたまえ。その上でわたしが出て行く。いずれにせよ、会ってみたい人物だ。なにしろ、いまどき珍しいオーナー経営者だからね」  とハッパを掛けた。  こうなると始末がわるい。なまじ説得しようとすると逆になる。火に油を注ぐことになりかねない。成瀬は熱しやすく、結局は醒めるのだが、それまでは信じられないほど執念深かった。  成瀬は簡単に接触などと言うが、実はこれが容易ではないのだ。誰かに紹介を頼むことになりそうだが、人選を間違えると大変である。逆効果どころか、取り返しがつかなくなるだろう。  長谷部は日銀に出掛けた。彼自身が栄の支店にいた頃、日銀の名古屋支店長であった人物が、いまは考査局にいる。当時は名古屋の財界人の集まりでよく顔を合わせた。  いっしょに食事をしたこともあり、お互いに好意を持ち合っていた。今回はその好意に甘えるかたちになった。 「仕方がない。甘えておこう。世の中は持ちつ持たれつだ」  と長谷部はひとりごちた。  道は開けた。同期生に元静岡支店長がいて、この人物が大須賀勇造とかなり親しいのがわかった。 「権威主義者で権力意識の強い人なら、日銀や大蔵省の紹介は利き目がありますよ」  その局次長は言う。 「おかげさまで、助かりました」  長谷部は深く叩頭する。 「ただ、大須賀頭取に会う目的が何か、それがわかれば、もっと協力出来るかも知れませんがね」 「それは」  長谷部は口ごもった。とてもいま打ち明けられることではない。 「けっこうです。理由《わけ》は訊かないことにしましょう」  気配を察したのか、相手はあっさり引き下がってくれた。  翌週になると、長谷部は大須賀勇造のすぐ近くまで接近していた。  こうなればしめたものだ。会おうと思えばいつでも会える。仲介者に日時の調整さえ頼めば大丈夫というところまできた。  ここでまた何故か、躊躇《ちゆうちよ》の気持ちが働いた。もちろん、いまさらとの思いもある。二つの考えに足を取られて、一日延ばしに延ばしているうちに、成瀬から呼び出しが掛かった。 「太平銀行の件、どうなったんだね?」  といきなり訊かれた。  長谷部は仕方なく経過を説明した。 「ほう、日銀ね。それはよい所に気が付いた。まさにぴたりだよ」  と頬を綻《ほころ》ばせた。 「なかなかいい線をいっている。すぐ取り掛かってくれたまえ。大須賀頭取に会って、人柄や能力、考え方など、何でもいいから情報を集めてみるんだ。とにかく、スタートをきること。ぐずぐずしないでくれ。頼んだよ」  改めて念を押された。      9  長谷部は意を決した。現頭取の成瀬にそこまで言われては前に進むほかはない。  このことが合併工作の第一歩を踏み出したことになるのだとしたら、それ相応の責任がある。しかも、この先仕事を進めれば進めるほど容易には引き返せなくなる。そして、その分だけ責任も重くなる。  現時点で、ほんとうに合併が必要なのかどうか、それに相手行が太平銀行でよいのかどうか、もう少し慎重に検討する必要があるだろう。長谷部はそう思った。それをしないで、スタートを切るのは一種の邪道ではなかろうか? そんな気がする。きちんとした基礎工事をしないで、ビルを建てるようなものだ。かなり無謀である。  いかに頭取とはいえ、そのような無謀を冒してよいのか?  側近の一人としては、はっきり忠告すべきであろう。  しかし、成瀬の意気込みを考えると心がなえた。とても、聞く耳を持っているとは思えない。  いまの成瀬はすべてに強気だ。自信も持っている。批判者、反対者を許さぬ雰囲気が強まりつつある。長谷部が正面から異をとなえれば容赦はしまい。取締役総合企画部長の更迭《こうてつ》も辞さないだろう。  ──では、お前は馘首《くび》になるのが恐いのか?  そういう声も聞こえる。  とはいえ、長谷部にも合併問題を検討するのがよいのかわるいのか、よくわからない。むしろ、現在のような状況下でこそ合併工作を始めるべきだとの思いが、まったくないわけではなかった。  見方を変えれば、成瀬のように確信が持てないだけかも知れないのだ。  それに、太平銀行側の考え方も大須賀勇造の思惑もよくわからず、いずれもまったくの未知数であった。 「とにかく、前へ進んでみよう」  と長谷部は呟いた。  三日後、長谷部は静岡へ出張した。  行き先や目的を誰にも教えない。部内の副部長や次長以下への連絡も、彼の方から入れることになっている。  いままでにもこういう出張や外出は何度かあった。頭取の特命の仕事をしている以上やむを得ない。  そのせいか、部内の者たちは馴れていた。総合企画部では女子行員の一人一人までが、部長の行き先不明の外出に全く驚かない。またかという思いさえ稀薄になっていた。  実は四日後の夕方、日銀の元静岡支店長を加えて、大須賀勇造と会食をする手筈《てはず》が整えられた。  長谷部は一日早く出て、太平銀行の地盤を歩き、主力店舗のいくつかを見たり、静岡という土地柄を見学しようとの魂胆で、出発を早めた。  愛知県の名古屋を中心にして、岐阜県下、三重県下の諸都市については、長谷部はほぼ知り尽くしていた。かつて名古屋支店長を務め、げんに家族は岐阜市|鏡島《かがしま》に住んでいる。  そういう長谷部も、静岡、浜松《はままつ》、沼津《ぬまづ》、三島《みしま》等々については市場調査その他のデータでしかチェック出来ず、正直なところ、細部についてはあまり知らない。商圏そのものは静岡支店長の説明を聞けばおよそのところはわかる。  しかし、今回の行動は静岡支店長にも内密である。いまの段階では真相を知っているのは頭取と長谷部だけであった。  長谷部は地図を片手にタクシーやバスを乗りついであちこち歩いた。駅前のホテルに泊まり、夜は支配人にバーまで来て貰って雑談をする。人の動きや景気の動向、静岡県の問題点、県人気質、いくつかの銀行の評判等々についてあれこれ質問をし、ほぼ満足すべき答えを得た。  もちろん、太平銀行についても、頭取の大須賀勇造はじめ大須賀一族、行員たちや窓口での応対ぶりなど、街を廻っている間にあちこちでさり気なく尋ねる。けっして深追いせず、あえて雑談の中へまぎれ込ませるようにした。  結局、場所は大須賀が譲らず、彼の指定する料亭になった。  元日銀静岡支店長の片山節男《かたやませつお》と長谷部敏正が招待されるかたちになっている。こちらから申し出ておいていささか気が引けたが、大須賀の方にわざわざ静岡まで来て貰った以上は自分の方でとの気持ちがあるらしい。逆らわずにご馳走になることにした。  その方が自然な流れだと片山も言った。いずれにせよ、流れに逆らうのはよくない。そうなったのは、幸先が良い証拠かも知れないと思えてきた。  長谷部と片山の間柄にしても、日銀の考査局次長の紹介だけではまずい。もっと昵懇《じつこん》で親密な先輩、後輩とか、趣味の会の仲間とか、大須賀の納得する間柄になっておく必要がある。別に用件を作っているわけではなく、ただの紹介というケースなので何らかの理由づけをしておかないと、動機を怪しまれる。  片山が長谷部の泊まっているホテルまで来てくれた。二人は揃ってタクシーで出掛けた。近いので、打ち合わせがすまないうちに着いてしまった。  十五分以上余裕を見ておいたのに、大須賀はすでに到着していて、一人で末座に坐って夕刊に目を通しながら緑茶を飲んでいる。 「さあ、さあ、どうぞ。片山さんはそちら、長谷部さんはこちらへ」  と愛想よく言った。  自分で采配を振るわないと気がすまぬのかどうか、すでに坐る場所まで決めてあった。そのために早く来たのであろうか? 「や、これはすごい」  と片山が奇声をあげた。  床の間の掛軸の脇に二十号位の絵が置いてあった。金色の厳《いか》めしい額縁におさめられていた。どこかで見たような絵だ。灰色と黒が基調になった、うら淋しい風景画である。  つられてじっと見つめた長谷部はぎくりとした。 「もしや」  と思わず漏らす。 「その、もしやですよ。もちろん、ほんものです」  大須賀は満足気に言う。 「ユトリロですね」  と長谷部は念を押す。 「そうです。当たりました」  大須賀は顔を綻ばせ、嬉しそうな笑顔を浮かべた。 「さすがにお目が高い。ひと目見て、ぴたりと当てる人はそう大勢はおりません」  とにこやかにつけ加えた。  やや面長で彫りの深い男っぽい顔をしている。ゴルフ焼けか、色は浅黒い。眼光は鋭いが、いまその眼は笑っている。 「わたくしも絵についてはあまり詳しい方ではありませんが、この絵は違う。それだけははっきりわかりました。静岡でほんもののユトリロに出会えるなんて、驚きです」  と言いつつ、長谷部はじっとくい入るように見入った。 「大須賀頭取は、客をもてなす時は、必ずご自分のコレクションの中から一点選んでお持ちになるんです。招かれた者は眼の保養をしながらご馳走を頂くことになります。二重のもてなしですよ」  と片山が解説する。 「すると、わざわざ」  長谷部は恐縮した。 「ほんの三か月ほど前に買い取ったばかりの絵でしてね。料亭に持ってきたのは初めてですわ。今夜はお二方にちょっと見て貰いたくなったんです」  と打ち明けた。 「恐れ入ります。これでわたくしも長谷部さんを紹介した甲斐がありました」  片山もほっとしている。 「初対面でこんな光栄に浴するとは、思いも掛けないことです。われながら運が良いと思います。これを機会にどうか末長くご指導を願い上げます」  長谷部は真顔で告げて、両手をテーブルの上につき、丁重に頭を下げた。 「わたくしの方こそ、よろしく」  大須賀も丁寧に叩頭する。  こうしたやり取りのおかげで、一座の雰囲気がすっかり穏やかになった。初対面同士の堅さやぎこちなさが、一度に影をひそめてしまったのだ。  ビールで乾杯し、すぐ酒になる。料理も次々と運ばれてきた。 「それにしても頭取、わたくしには見当もつきませんが、相当なお値段でしょうなあ」  と片山が訊いた。 「実はね。バブル崩壊のあおりを受けて絵画の値段も下がっている。株や不動産やゴルフ会員権と同じだよ。ひと頃の半分から三分の一ですからね。すべていまが買い時でしょうな。それも早く買わないとダメだ。金利が少し下がりましたから、あと半年かせいぜい一年以内に買っておいた方がいいでしょう」  と言って、杯を傾ける。  長谷部が急いで空になった杯を満たした。 「やあ、有難う。ところで、絵の値段の方だが、やはり名画はそう下がっていませんよ。半分にはなりませんからね。当初は一億五千万円と言ってきて、一億以下では絶対に困ると言いおったが、早く換金したかったんでしょうなあ。結局、八千万円になりましたからねえ」  と教えた。 「なるほど、やっぱりすごい世界ですね。わたし共の金銭感覚とはかなり違いますねえ」  片山は感じ入ったように言う。 「まったくです」  と長谷部も同意した。 「それだけに、こんなに身近に実物を拝ませて頂けたのは、ほんとうに幸運です。有難うございました」  律儀にまた頭を下げた。 「そんなふうに言って頂くと、却《かえ》って尻のあたりがくすぐったい。長谷部さんもなかなか絵がお好きなようだから、今度わたくしのコレクションを少しばかりお見せしましょう。あちこちに置いてあって展覧会に貸出し中の絵もあるので、一度にというわけにもいきませんがね」  とあっさり申し出てくれた。 「ぜひともお願いします」  長谷部は熱意を見せて頼んだ。      10  神谷真知子はニューヨークにいた。  三洋銀行ニューヨーク支店に転勤になって一年が過ぎようとしている。  栄転である。  自分でもそう思い込んでいたし、まわりの誰もが「栄転」という言葉を口に出して祝福してくれた。 「きみのニューヨーク支店勤務が決まってほっとしたよ。もちろん、栄転だ。ぼくの分まで頑張ってくれたまえ」  と上司の石倉克己が告げた。 「有難うございます」  あの時は素直に頭を下げた。  富桑銀行との合併計画が破綻した直後のことだ。  杉本頭取、勝田副頭取、石倉総合企画部長が責任を取ったかたちで銀行を離れた。  神谷真知子はMOF担として大蔵省に出入りし、石倉の下で情報収集に努めた。たまたま、銀行局長が同じ大学の先輩であったのが有利に働いた。それに女性では初めてのMOF担である。おかげで銀行界の注目を浴びてしまった。  幸か不幸か、よくわからぬまま突っ走り、エース級の男性以上の働きをした。結果的にみて、かなりの成果をもたらしたのはたしかだ。  その意味では、石倉の起用が当たったと言える。もし、彼女が並以下の仕事しか出来なかったら、本人よりも、むしろ石倉の責任になったであろう。石倉がこういう結果まで予想して真知子を起用したのかどうかはわからない。が、いずれにせよ、彼は密かに胸を撫で下ろしたに違いない。もっとも、当時の彼女はそんなことは一切気にせず、溌剌と動いた。それが良かったのだ。いまにしてそう思う。  神谷真知子がニューヨークへ発つ日、石倉克己だけではなく、長谷部敏正や松岡紀一郎までが成田《なりた》空港まで見送りに来てくれた。  石倉が銀行を離れ、松岡は福岡支店への転出が決まり、長谷部の取締役昇格が決まっていた。  あの時、部長三人の、役員への昇格レースの決着がついたかたちになった。  長谷部が大きく一歩リードし、松岡が足踏みし、石倉が立ち去った。  それを思うと、真知子はいまでも胸が締めつけられるような気がする。同期の男たちの熱い果敢なフェアーな闘いぶりを知っていたからだ。  彼女はごく間近から彼等の動きを見た。およその心情を察知出来た。それだけに熱い思いが伝わってくる。  ニューヨークに来てみると、こうした日本の幹部社員たちが、多かれ少なかれ共有していた情熱も、忍耐も、屈折した思いや功名心、競争意欲や人間関係のわずらわしさ、ビジネス社会での生き甲斐さえもがなくなっていた。  何故だか、よくわからないが、日本的な感情や絆が、きれいさっぱりとなくなり、別のものになっている。  彼女はそのことが信じられずに途惑った。環境の変化、仕事の種類や職場の違い、生活の違い、言葉の違い等々。……  さまざまな変化や違いが一度に襲い掛かってきて、彼女を大きく揺さぶった。  もともと神谷真知子は頭脳明晰で、意欲的な女性である。美貌にも恵まれていた。すらりとした背丈や長い脚、プロポーションも抜群だ。休日に街を歩いていて、ファッションモデルに間違われたこともあった。  どちらかといえば、環境への順応も巧みな方である。けっして変化についてゆけない女性ではない。  それなのに、途惑いを覚えた。単なるカルチャーショックではすまされない迷いが生じたのだ。  しかし、そうはいっても、最初の一か月はあまりものを考えている時間がなかった。無我夢中である。ビジネスと生活の両面で次々と新しい事態に直面する。驚くこと、呆れることも多い。街の治安の悪化も大きな要因になる。次々と対応に追われるばかりだ。  これに続く次の一か月も似たようなものであった。時間をもて余すことはなく、早く過ぎ去ってしまって困るくらいである。  三か月が過ぎ去ろうとする頃、ようやく気持ちが落ち着いた。ニューヨークでの暮らしに馴れたのだ。  馴れると同時に違和感が生じてきた。石倉、長谷部、松岡等がしのぎを削っていた場所、あの場所、あの空間には、好むと好まざるとにかかわらず、日本型ビジネス社会での住み心地の良さとわるさが渾然と交ざり合っていた。  いま、彼女はこれらの場所や空間をたぐり寄せたいような思いにかられている。憧れと執着と、そこから離れてしまったことへの後悔の念が、執拗にからみ合いながらじくじくと疼くのだ。あそこへ戻りたいという思いが強い。これは外国へ行った人間が、程度の差こそあれ必ず陥るホームシックとも少し違う。  だが、すでに石倉と松岡の姿はない。頭取も交代しているし、MOF担もまた男性行員に戻ってしまった。とうに同じ場所ではなくなっており、雰囲気もすっかり変わってしまったであろう。  そのことは彼女にもわかっている。どんなふうに変わったのかまではわからないが、およその想像はつく。  それでもなつかしい。日本への転勤願いを提出したいような衝動にかられる。しかし、まだ三か月である。いかにも早い。いま、そんなものを出せばキャリアに傷が付く。通常は二、三年なのだ。いくら短くても一年は居なければ格好がつかない。  三洋銀行ニューヨーク支店はウォール街の中にあるビルの一つに入っている。フロアーは十階だ。  真知子はセントラルパークを見下ろせる位置にあるマンションの七階に入っていた。普通ではとても入れない高級マンションである。大手商社の現地支社長をしている親戚筋の一家が、南米担当役員になり、一時的にリオ・ディジャネイロへ移ったので、その留守宅に入れて貰った。  そこからウォール街へはバスで二十分も掛からない。車ならもっと早く、通勤には便利であった。  夜はむろん論外だが、早朝とか夕方、人の流れが絶えた頃にセントラルパーク内に入って暢気な散歩などしない限り、治安は比較的よい地帯である。  総人員三十名ほどの支店で、外国へ進出している支店の中では大きい方だと言える。もっとも、日本から来ているのは支店長以下七名だけで、残りは全員が現地採用者であった。  ついでながら、三洋銀行の国外支店はロンドンが最大で、ニューヨーク、パリ、フランクフルト、ロスアンゼルス、シンガポール等々がほぼ同規模である。  ただ、ニューヨーク支店の場合はシカゴ、フロリダ、メキシコシティ、サンパウロ等の駐在員事務所をフォローし、アメリカの東部と南部、それに中南米を含む広大な地域の母店的な役割を果たしていた。  そのため、日本人スタッフが七名になり、通常の三、四名より多かった。もっとも、女性は神谷真知子ただ一人である。  文字通り紅一点で、彼女の前任者はアメリカ人と結婚し、夫の任地であるサンフランシスコへ去った。  彼女がカルチャーショックとも、ホームシックとも、MOF担時代への郷愁とも、環境の変化に対応するための心の防護壁の構築とも、もちろん、単なる孤独感とも異なる、いや、あるいはこれらをすべていっしょにして包括した何かに掴み上げられてぐったりし、心を弱らせていたのはたしかだ。  皮肉なことに、ニューヨークでの仕事や生活に馴れるにつれて違和感があらわになってきたのである。  そんな時、ランチタイムにたまたま一人で出掛けた近くのレストランで、トレイを手に行列しているうちに、背の高い青年から話しかけられた。  きっかけは彼女のトレイが傾いてスプーンが床に落ちたことにある。すぐ後ろにいた彼がすばやく拾い上げてくれた。  それだけではない。長い手を伸ばして新しいスプーンを取って、トレイに乗せてくれた。  彼の英語の発音はとても柔らかく穏やかで、ほのかな暖かささえ感じられた。      11  長谷部敏正は静岡出張から帰ると、すぐ成瀬頭取に面会を申し入れた。  秘書課長が伝達すると、成瀬は副頭取の大森からの面会申込みを後廻しにした。 「あの、大森副頭取を先にお通ししなくてもよろしいんでしょうか?」  と念を押す。  大森英明はすでに一時間も前に申し込んでおり、長谷部はついいましがた連絡を入れてきたのだ。  先着順でも、役員の序列からいっても、大森を先にしなければならない。秘書課長にはそういう意気込みがあった。  それがインターホーンを通して成瀬にも伝わったらしい。 「何だと? きみ、いま何と言った?」  成瀬の声が尖った。 「はあ」  秘書課長は途惑いを覚えた。間違ってもいないし、とくに出過ぎた真似もしていないとの自覚がある。 「はあ、じゃない。わたしに向かって念を押すような真似はするな。きみは言われた通りにすればいいんだ。大森なんぞ後廻しだよ。長谷部くんをすぐ通したまえ。わかったか? この役立たずが」  最後は怒りをこめた一喝になった。  秘書課長ははっとして首を縮めた。インターホーンは切れていた。  一分後、長谷部がエレベーターを下りて役員室の入口にさし掛かった。  秘書課長は入口まで出て待っている。 「申し訳ありません。ちょっとご機嫌斜めのようです」  と耳打ちする。 「困ったねえ」  と長谷部は顔をしかめた。 「でも、きみが詫びることはない。何とかなだめてくるよ」  とつけ加える。 「お願いします」  秘書課長は掌を合わせる真似をして、長谷部を見送った。  ノックをすると、「どうぞ」という太い声が聞こえた。 「失礼いたします」  長谷部は丁重に頭を下げた。 「やあ、ごくろうさん。あっちへ行こう」  成瀬はソファーを指さして立ち上がりながら、インターホーンを押す。 「コーヒーを二つ、それからしばらく電話は取り次がんように」  と命じた。 「どうした? 大須賀頭取には会えたんだろうね」  成瀬の顔には期待が漲《みなぎ》っている。 「おかげさまで、片山さんのお骨折りもあり、どうにかお会い出来ました」  長谷部はひかえ目に答えた。 「そうか、よかった」  成瀬は相好を崩した。  どうやら風向きが変わったらしい。不機嫌どころか、なかなかの上機嫌である。  そこへコーヒーが運ばれてきた。 「さあ、どうぞ」  と奨めてくれる。 「頂きます」  一口飲んでから、長谷部は順を追って説明を始めた。 「うむ、なるほど」  と成瀬は満足気に相槌《あいづち》を打つ。 「それで?」  とたちまち促す。  同じ頃、大森は秘書課長に内線電話を入れた。 「どうなってるんだね、頭取は? まだふさがってるのかね?」  と催促する。 「はい」  と秘書課長は答えた。 「はい、だけじゃよくわからん。何とか言いたまえ」  かなり苛立っている。 「あと三十分位で出なきゃならん。銀行協会の会合だからね。遅れるわけにはいかんのだよ」  と訴えた。 「実は、先程も念を押したのですが、逆に叱られまして」 「しょうがないなあ。いま誰か入っているのかね?」  と訊く。 「長谷部取締役が六、七分前に入室しました。二分ほど前にコーヒーを運びましたので、しばらく掛かるような気がいたします」  と教える。 「ほう、コーヒーをね」  大森は呆れたような声を出す。 「この忙しいのに、頭取と長谷部くんは雑談でもして、のんびりとコーヒーでも飲んでるのかね?」  皮肉たっぷりに言い添えた。 「さあ、そこまではわかりませんが」  と秘書課長はとぼけた。 「とにかく、あと十五分過ぎても声が掛からなければ、今日の面会は取り消す。こっちから取り下げだ。いいね」  大森の声が尖った。 「承知しました」  秘書課長はわざと丁寧に答えた。 「頼んだよ」  言って、電話は切れた。  大森は乱暴に受話器を置いたらしい。彼の忿懣が秘書課長の耳朶《じだ》を直撃した。左手の受話器を遠ざけながら、彼は顔をしかめた。      12  頭取室内では、成瀬と長谷部の二人がソファーで向かい合っていた。二つのコーヒーカップはすでに空になり、陶器の白い底が見えている。  長谷部が主に話し、成瀬の方はもっぱら聞き役である。 「なるほど」 「そんなものかな」 「ほう、驚いたね」  などと、成瀬は上手に相槌を入れる。  おかげで、長谷部の方は話しやすかった。話がユトリロの絵のところにくると、成瀬は目を見張った。  一億円近くもする絵を無造作に持ってきて、料亭の座敷の一角に置く。  たまたま、片山と長谷部が気付いていろいろ質問したので絵の話に花が咲くことになったが、もし、相手の客が何も気付かず、どんな名画にも何の関心も示さなければ、大須賀勇造はそのまま絵には触れず、黙って引き下がるのだという。 「うーむ」  と成瀬は唸った。 「そうか、やはりきみに先に会って貰ってよかった。そのことがわかっただけでも大収穫だよ」  とおだてた。 「それにしても、きみに絵の趣味があったとはなあ。わたしだって絵は好きな方だが、知識の方はきわめてあやふやだ。ユトリロがわかったかどうか怪しいものだよ」  と謙遜する。 「そんなことはありません。おわかりになったと思います」  と長谷部は言う。 「そうかなあ」  成瀬は首をひねった。 「いずれにせよ、これからの銀行幹部は絵画をはじめ、文学・音楽など、少しは芸術を理解しなくちゃいかん。副頭取の大森くんなど、ナンバー2を気取っておるが、とてもダメだ。頭はわるいし、教養もない。恥ずかしくて人前に出せんよ」  と大仰《おおぎよう》に口許を歪めた。 「………」  副頭取の悪口なので、長谷部はうかつに賛成も出来ず、黙っていた。 「それで、きみに絵のコレクションを見せるというのだな」 「はい」 「しかも、一か所には置いてないから、あちこち廻るというんだね」  とたしかめる。 「どうも、そんなことになりそうです」  と答えた。 「すると、初対面でよほどきみを気に入ったんだな。これは大須賀勇造の懐ろの奥へとび込むチャンスだ」 「そうかも知れません」 「これからもちょくちょく静岡へ行ってきたまえ」  と奨める。 「どんなコレクションなのか、拝見するのが愉しみでもあります」  長谷部は正直に認めた。 「だろうね。わたしもそのうち見せて貰うことになる。どのみち、大須賀さんに会う時はきみに同席して貰わないとまずい。絵で試されたらひとたまりもないよ。危ない、危ない」  成瀬は上機嫌だ。 「わたくしももう一度絵の勉強をした上で、お供させて頂きます」 「そうしてくれ」  と成瀬は応じて、満足気にゆっくりと立ち上がった。  長谷部は一礼して退出した。  成瀬は一人で広い頭取室を行ったり来たりする。  一方は窓だが、残る三方は壁である。それぞれ絵が架けられている。二点が洋画、残る一点が日本画家の手になる日本画だ。花と果物と山が描かれていた。実に平凡な絵柄であった。  杉本頭取時代からずっと同じ壁に架かっている絵で、いつ誰が選んで、あるいは購入してここに架けたのか、その由来については成瀬も知らない。杉本だって知っていたかどうか怪しい。  そう言えば、杉本も絵や彫刻、壺、装飾品等々にあまりこだわる人物ではなかった。預金量の拡大と融資量の安定とそれによる収益の確保にのみ心を砕いた。 「あの男も何もわからん口だな」  と呟く。  もっとも、成瀬自身もそのまま頭取室を引き継いで現在にいたっている。  仕事に追われづめで、室内の絵や装飾などに気を配る余裕がなかった。  だが、一年が過ぎ、成瀬の打ち出した方針がどうやら軌道に乗ってきた。業績も順調に伸び始めている。まだまだ改善すべき点はあるが、急ピッチで変えなければならないところはなくなっていた。  そろそろ壁の絵を架け替える時期が来たのかも知れない。大須賀の絵の話に触発されて、急にその気になった。 「まず、頭取室の絵から始めなければならんな」  と口に出した。 「長谷部くんを使って、大須賀さんに相談しよう。これだとあまり無理なく親しくなれる筈だ」  と呟いた。  成瀬はにんまりと笑って窓際まできた。ふと外のビル街に眼をやる。 「そうだ。忘れていた」  ずいぶん前に、大森に面会を申し込まれている。面倒くさいので放っておいたが、気分が良くなり、会う気になった。  そのまま部屋を出て、頭取応接室をへだてた向こうにある副頭取の部屋の前まで行く。  ドアをノックした。  返事がない。  ノブに手を掛けて開けようとする。ノブは動かず、ドアも開かない。どうやら施錠されているのがわかった。  思わずかっとした。拒絶されたような気がしてきた。  ──こともあろうに、銀行内でこの自分を拒絶するとは。  との思いがこみあげてくる。一度に機嫌がわるくなった。  成瀬はその足で秘書室へ向かう。まっすぐ秘書課長の席を目指す。  室内にいた全員が緊張する。 「大森くんはどうしたんだね?」  といきなり訊いた。 「は、副頭取は四十分ほど前にお出掛けになりました」  秘書課長は慌てて立ち上がりながら答えた。急いで立ったため、躰がふらついた。 「なに、出掛けた? 無礼な奴だな。人に面会を申し入れておいて、自分の都合でさっさと出て行くとは」  と目を怒らせた。 「はあ」  秘書課長はとっさに経緯を説明するタイミングを失った。 「いったい、何処へ行ったんだね」 「銀行協会でございます。役員会に出席されます」  と答えた。 「ふん、烏合の衆の集まりか」  成瀬は吐き出すように言う。 「それに、大森くんの部屋に鍵が掛かっておる。役員は出掛ける時、いちいち自分の部屋に鍵を掛けるのかね?」  と尋ねた。 「そんなことはございません」 「しかし、げんに鍵が掛かっている」  と言い張る。 「はい」 「いままでに物が失《な》くなるようなことがあったのか?」 「とんでもありません」 「とんでも、何だね?」 「いえ、一度も不祥事はございません」  秘書課長ははっきり告げた。 「それなら、鍵など掛ける必要はない筈だ。おかしいな」  後半はことさら低い声で言う。 「きみの方に予備の鍵はあるんだろうな」  とたしかめた。 「はい、保全関係は総務課の方で管理しておりまして」 「ここにはないのか?」 「ございません」 「では、すぐ手配したまえ。きみが鍵を借りてきて、副頭取の部屋のドアを開けるんだ」  成瀬はぴしりと命じた。      13  ちょうど同じ頃、富桑銀行では頭取の原沢一世《はらさわかずよ》が取締役総務部長の高川明夫《たかがわあきお》を呼び出した。  高川も原沢の命令を受けて合併問題で奔走している。三洋銀行の石倉克己とは何度か会った。一時、高川は石倉にかなりのライバル意識を抱いていた。  もし、富桑銀行と三洋銀行が合併すれば、年齢も学歴もキャリアも、頭脳明晰なところまでよく似ている高川と石倉は、ほんとうのライバルになってしまう。間違いなく、取締役昇格も常務や専務昇格も、ことごとく争うことになる。当面の敵である。そういう可能性が強かった。  幸か不幸か、そんなふうにはならず、合併問題は白紙還元された。三洋銀行側に副頭取まで立ち上がる反対運動が起こったのが主な原因ではあるが、直接のきっかけは原沢頭取宅の銃撃事件であった。  あの事件が起こってから、暴力団とかかわりを持った銀行との悪評が流れた。そのために三洋銀行に九分通り固まっていた合併を断わられたとの噂もつきまとった。もちろん、これは事実である。  その後の富桑銀行はマイナスイメージの払拭《ふつしよく》にやっきになっている。現在もそれは続いていたが、さいわいというべきかどうか、旧ソ連製、中国製の安い拳銃の密輸が急増し、日本の各地で銃撃事件が起こり始めた。  名古屋の高級マンションで起こった某銀行の支店長射殺事件を始め、殺害や傷害などの兇悪事件が多発し、自宅の塀や壁に弾丸を撃ち込まれたぐらいでは、周囲が以前ほど騒がなくなった。  たしかにわるい風潮だが、こういう風潮というか、世の中の動きが、富桑銀行の原沢頭取宅銃撃事件を通常の時間、即ち年月よりもずっと早く風化させているのはたしかだ。それがよいかわるいかは別問題であったが、富桑銀行にとっては、間違いなく、向かい風ではなく追い風になった。  昨今では、天災、人災を含めて、あまりにもさまざまな事件が起こる。しかも、由々《ゆゆ》しいことに兇悪事件が多い。俗に人の噂も七十五日と言われているが、風化はむしろ早まりつつある。  原沢も高川もまともな常識人であった。銀行マンとしては破格の人材と言える。そのため、自行の事件が風化するのは有難いが、世の中の多くの事件が急激に風化してゆくのは問題だと考えていた。  それにしても、高川は石倉という格好のライバルを失った。正直なところ、かなり口惜しい。残念だとも思う。もし、この二行が予定通り合併していれば、将来は石倉と頭取争いが出来た。そんな気さえする。  石倉は三洋を去ったのに、自分は富桑にそのまま残っただけではなく、あの後、取締役に昇格した。何となく、忸怩たる思いにもとらわれる。  もっとも、高川はあまりウェットな男ではない。シャープで冷たく、要領もいたって良い方だ。抜け目なく、しっかりと仕事をこなして、いまでは若手役員の中でももっとも嘱望《しよくぼう》される人材に育っていた。  当然、原沢は高川を当てにし、重要な仕事を次々と任せた。  実のところ、原沢一世は三洋銀行との合併失敗にあまり懲りていなかった。懲りるどころか、ほとぼりが冷めて一年も過ぎると、躰の奥がむずむずと動き始めていた。  いま、高川を呼んだのもそれである。おのれの身中の虫の動きにじっとしていられなくなったのだ。  原沢は高川が頭取室に入って来ると、愛想笑いを浮かべながら立ち上がり、自らソファーへと案内する。 「いま、紅茶を頼みましたから、まもなく運ばれてくるでしょう」  と丁寧に言う。  日頃から、原沢は部下に対しても丁重でけっして名前を呼び捨てにしたりしない。しばしば、「さん」付けで呼ぶ。  課長クラスの名前までよく覚えている。各部を巡回して机の脇を遠慮勝ちに通り過ぎて行く。 「宮本《みやもと》さん、お元気ですか」  などと親し気に声を掛ける。  たいてい、呼び掛けられた方が恐縮して冷や汗をかく。原沢のこういう姿勢が、銃弾事件の時、反感よりも同情を呼んだ。期せずして、日頃の低姿勢がプラスに働いた。  合併問題が白紙に戻っても、責任追及の声はなく、うやむやになってしまった。会長の大久保英信《おおくぼひでのぶ》が事件後、無理して会長室につめ、原沢への見張りを強化しようとしている矢先に、倒れて再入院し、あえなく世を去った。それも幸いした。  おかげで、原沢の地位はいささかも揺らいではおらず、逆に権力者としての地盤は強固になりつつある。  すでに述べたように、部下には丁寧で優しく接するが、もちろん、それが真の姿ではない。多くの者たちが気付いていないか、知らないだけのことで、本質はなかなか簡単には掴めぬ人物であった。  そうでなければ、この地位まで登りつめるのはむずかしい。  原沢と高川がソファーで向かい合うと、すぐに紅茶が運ばれてきた。クッキーまで添えてある。 「どうもごくろうさま」  原沢は女性秘書に対しても愛想がよい。こまめに声を掛けてねぎらう。  他の役員はとても真似が出来ない。結局、秘書課内で一番の人気者は頭取であった。 「実はね、ちょっとあなたにだけ打明け話をしたいんです」  と告げて、原沢は右の眼を閉じて見せた。  何のことはない。高川に向かってウィンクしたのである。      14  高川明夫は少したじろいだ。  丁寧な言葉遣いや優しく接してくれるのはこころよい。有難くもある。  しかし、それとて限界を越えれば、いささか気味わるくなる。眼くばせされたりすると、はっとするのも、逆に警戒心が働くせいであろう。 「ほかでもないんですがね」  と原沢は前置きした。 「三洋銀行との件では、わたしも見込み違いをしてしまったようです。あれはいけません。あなたも知っているように最終コーナーまでは順調でした。むしろ、順調すぎた。だから期待する。つい用心を忘れた。それがいけなかったんでしょうね。ものごとは得てしてこんな結果になる。皮肉な話ですね」  しんみりと言う。 「あの時はさぞ、ご心労が重なったことと思います」  高川は神妙に応じた。 「いや、わたしの方はさほどではない。気の毒だったのは杉本さんの方ですよ。あのままなら、まだ五、六年は頭取の椅子に坐っていてしかるべき人を、あえて引退させてしまった」  と声を落とす。 「たしかに」  と高川は頷く。 「あなたの競争相手になりそうな人もいましたね」 「石倉克己くんです」 「そう、そう、その石倉さん、いまはどうしておられる」  と尋ねた。 「いったん、大蔵大臣の秘書になりましたが、その後まもなく『星野田機械』に移って、取締役になったそうです」  と報告する。 「それはよかった。さすがですね。わたしはあの時、将来はあなたが頭取、石倉さんが副頭取というコンビでやって貰いたかった。この二人になら、合併後の大銀行の未来を託して長期政権を敷いて貰える。そう考えて期待していたんです」  と原沢は打ち明けた。 「恐れ入ります。この話を石倉さんが聞いたら喜ぶでしょう」 「では、ぜひ伝えてあげて下さい」  当然のように言う。 「え」  高川は一瞬、途惑った。  あれ以来、石倉とは会っていない。右と左に訣別《けつべつ》したままだ。他行の友人の噂を聞いて、石倉のメーカー入りを耳にしているだけのことである。 「『星野田機械』は最大手の機械メーカーですよ。たいへんな優良会社だとも聞いている。石倉さんを通じて、当行と取引をして貰いましょう。少し遅くはなったが、就職祝いとしてこちらで一席持って、彼を招待すればよろしい。そうだ。わたしもぜひ出席させて貰いますよ。石倉さんにはひとことお詫びを言いたい」  原沢は熱心にかき口説いた。 「わかりました。早速、石倉くんに連絡をしてみます」  と高川は請け合った。 「では、その件はよろしく。そろそろ、本題に入りますよ」  原沢の眼がすわった。  高川はぎくりとした。まだあったのかという思いが生じた。あまり驚かさないでくれと言いたいのを我慢する。 「三洋銀行との合併が失敗したのは、二つの銀行がほぼ同じ規模だったからです。それと当行が財閥グループ系なのを、必要以上に警戒されてしまった。まあ、そんなところでしょう。あとは先方の杉本さんと成瀬さんの争いなど次元の低い問題です」  きっぱりと言った。 「わたくしもそう思います」  高川も賛同した。 「そこで、今度は中堅クラスの銀行を候補にあげましょう。上位から中位の地銀がよろしい。内容が良くて、堅実な経営をしている。それでいて、後継者その他に若干の問題がある。こういう銀行がよいでしょう。もちろん、双方が末長く栄えるための合併です」  と結論を告げた。 「………」  高川は黙り込んだ。  またしても合併か? との思いがこみ上げてきた。一年前の失敗にはまったく懲りていない。  それとも、銀行の頭取は選りによって合併が大好きなのか? 「早速、調査に取りかかって下さい」  と原沢は命じた。  こうなると、断固たるところがある。口答えや批判を許さない。実に、毅然としていた。 「承知しました」  と高川は答えた。 「いま、多くの銀行が不良債権の回収にやっきになっています。嘆かわしいことに、預金集めや融資先の開拓など、銀行本来の仕事を忘れているようです。こういう時は業績を伸ばしたり、合併を促進したりするチャンスです。殆どの銀行経営者たちが目先のやっつけ仕事に追われて、そのことに気付いていないだけに面白いことになりますよ」  そう言うと、原沢は眼を細めた。      15  その日、長谷部敏正が常務会に提出される議題の調整をしていると、松岡紀一郎から電話が掛かってきた。 「どう、元気でやってるかね?」  松岡はいくらか皮肉っぽい鼻に掛かったような声を出す。 「おかげさまで、何とか」  短く答えた。 「本部は大変だろうなあ。こっちはのんびりやってるよ。酒もさかなも美味《うま》いし、美人も大勢いるからね。ほんとうのところ毎月、数字だけどうにか達成していれば格好がつく。それ以上は焦ったってどうにもならん」  と悟りを得たようなことを言う。 「うらやましいよ。空気と水もいいんだろう」  長谷部は遠くを見るような眼付きをした。 「当然だ」 「そうか、交代したいね」 「おい、本音か? 嘘だろう」  疑わしそうに言った。 「本当だ。嘘じゃない」  と長谷部は強調する。 「そう、むきになるな。相変わらず生真面目な奴だ」  松岡の方がいなした。 「用件は?」  長谷部はむっとして言い返す。 「あ、忘れるところだった。今度の金曜日の夜、どう? 空いてない?」  と訊く。 「東京へ来るのか?」 「ヤボ用があって、久しぶりに帰る。金曜の午後発つから夕方には銀座《ぎんざ》でも赤坂でも六本木《ろつぽんぎ》でもオーケーだよ」 「留守宅へ寄る時間がなくなるぞ」  と注意した。 「心配するな。土、日がある。月曜の朝帰る予定だから、家族サービスの方は二日あれば十分だろう」  と言いつのる。 「わかった。金曜の夜は空けておく。夕方、本部まで来てくれ」  と伝えた。 「そうしよう。じゃあ、その時、また、実はね、ゆっくり話したいことがある」  と告げて、松岡は電話をきった。  しばらく留守宅に帰っていないのは、長谷部も同じであった。来週あたり、時間があればとの思いが生じた。  岐阜市鏡島の長良川《ながらがわ》畔の家がだんだん遠くなる。庭の植木や花畑、それに裏の野菜畑、妻と娘が手入れをしてくれているのだろうか? ほんの少し、心配になった。  日曜日の朝、ゆっくり起きて、新聞に目を通し、のんびりと朝食をすませてから庭に出る。しゃがみ込んだり、背伸びをしたりして、若葉が害虫にやられていないかどうかを調べる。そんなささいな愉しみまでが奪われてしまった。  取締役になったためにいままでより時間がなくなっている。当然のことかも知れないが、仕事も増え、責任も重くなった。一か月に一度留守宅へ帰れればよい方だ。げんに一か月半も二か月も帰れない状態が続いている。  たしかに、役員に昇格して収入は増えた。しかし、二重生活のために出費も多い。目に見えて多忙になった。こうなると、自分の時間を売り払っているとしか思えない。  同じ多忙でも地方の支店長の方がまだ余裕がある。自分の時間も少しは取れるだろう。東京にくらべれば地方は良い。緑と土と、空気と水だけではなく、郷土色といえばよいのか、それぞれの特色があって愉しい。少なくとも人間が生き続ける条件が整えられていると言えよう。  仕事に追われる東京の一日は早い。たちまち夕方が来て、翌日になる。 「あ、いけない。もうこんな時間?」  というのが、東京の多くのビジネスマンたちの実感だ。  業種は異なってもこういう共通項がある。  松岡の指定した週末の金曜日はすぐにきた。まったく、何というべきか、待つ間もないという感じだ。  正直なところ、松岡にどうしても早く会いたいと願うほどの強い気持ちはなくなっている。しかし、会いたくないわけではなかった。多少のわずらわしさとなつかしさが同居していた。ライバルの同期生ともなると、こんなものかも知れない。  これが石倉や亡くなった西巻ならどうだろう。やはりなつかしさが違う。もっと積極的に会いたいと思うに決まっている。同じ銀行や会社にいることによって無意識のうちに馴れや面倒臭さが生じ、人間関係の空気が稀薄になるのかも知れない。  松岡は予定より早く上京した。午後三時には三洋銀行の本店に着いていた。  彼は秘書課長の秋本達郎《あきもとたつろう》に連絡を取り、成瀬頭取に面会を申し込んだ。スケジュール表を見た秋本は午後三時から四時の間を指定した。松岡はそれに間に合うように出てきた。長谷部に会う前にご機嫌伺いをすませておきたいとの思いが強い。  松岡は到着するとまっすぐ秘書課へ行った。秋本に会って挨拶した。とにかく、頭取に会うのが先である。そのまま秘書課の応接室で待つことになった。ところが三時三十分になっても成瀬からは何の連絡も入らない。  松岡は少し不安になってきた。腕時計にちらりと目をやる。四時になっていた。当初、秘書課長の指定した限界の時間になってしまった。これ以後は何らかの予定が入っているに違いない。  しかし、そのまま待たされた。四時三十分まではドアをノックする者はいなかった。  四十分になって秋本があらわれた。 「申し訳ありません。どうしても、お時間が取れませんでした」  恐縮しながら頭を下げた。 「松岡支店長がお見えになっていることを二度お伝えしたんですが」  と言葉を濁す。 「伝えても、頭取は二度共知らん顔で、松岡を呼べとはおっしゃらない。そういうわけですな」  松岡は先廻りしてしゃあしゃあと言う。 「ええ、まあ」  秋本は当惑顔だ。 「おおよそのところはわかりますよ。頭取は御多忙だ。無理もない。東京から遠く離れた福岡あたりの支店長には会う気にならんのでしょう」  とつけ加える。 「そんなことはありません。今日は予定外のことが次々と入りまして、スケジュールがびっしりなんです。外出時間もせまっています」  と秋本は真顔で言い訳する。 「あなたの立場はわかります。そうとでも言うほかはない。わたしも一年前までは本部にいたんですから、そのくらいのニュアンスはわかっているつもりですよ」  松岡はしたり顔で言った。 「困りますなあ。そんなふうに勝手に解釈されたんでは」 「まあ、よろしい。今日は頭取は超多忙で、お時間がなかった。そういうことにしておきましょう。お互いの幸せのために」  皮肉たっぷりに言って、ゆっくりと立ち上がった。坐り続けて腰がしびれている。一気には立てない。忌々《いまいま》しさがこみ上げてきた。 「これから六時過ぎまで、各部を廻って、帰ります。頭取にくれぐれもよろしくお伝え下さい」  松岡はわざと丁寧に頭を下げて応接室を出た。 「どうも、申し訳ありませんでした」  秘書課長はその背中に今日何十回目かの変わりばえのしない言葉を掛けた。      16  松岡は手洗いに寄り、嗽《うがい》をし、頭髪に櫛を入れた。スーツの埃も払い、鏡に向かって笑ってみせた。つくり笑顔がひどく醜い。 「ふん」  思わず鼻を鳴らす。  顔がいびつに歪んでいる。われながら厭な笑いだと思う。 「しかし、自分の顔だ。仕方がない」  と呟いて、廊下に出る。  そのまま総合企画部を目指した。 「やあ、やあ」  まわりの副部長や次長クラスに挨拶する。  見ると部長席に長谷部の姿がない。 「部長は何処かへお出掛け?」  と声を掛ける。 「いえ、内部です。実は、先程から頭取室へ行っています」  と副部長が立ち上がって教えた。 「それは、それは」  ととぼけた。 「どうぞ、こちらへ、いまコーヒーでも取り寄せます」  副部長は一般の応接室ではなく、長谷部専用の応接室へと案内した。どうやら賓客《ひんきやく》扱いらしい。  松岡が腰を下ろすと、副部長も坐った。 「どうもごぶさたしております」  丁寧に挨拶する。 「お互いさまだよ」  そっけなく言う。 「この頃、長いんですよ。頭取に呼ばれますと一時間位は戻ってきません」  と訴える。 「ほう」  と驚いたふりをした。  それから三十分ほどコーヒーを飲みながら雑談しつつ、松岡は次々と情報を仕入れた。ひと区切りついたところで立ち上がる。 「ちょっと各部を廻ってきますよ。たぶん一時間ほどで戻るから部長によろしく」  と断わって応接室を出た。  松岡はその足で、総務部、融資部、古巣の業務推進部等々を訪れて挨拶したり、話し込んだりして広いフロアーを移動して行く。一時間ではとても足りず、およそ一時間半が過ぎた。それでも彼としては大急ぎで一巡したのである。  松岡は六時四十五分頃になって、総合企画部に戻ってきた。  長谷部は部長席にいた。 「やあ」  と手をあげる。 「あと十五分位で出られるようにしますから、もうちょっとだけ待って下さい」  と声を掛けた。 「じゃあ、経理部まで行ってくる。ぼくも十五分で戻るよ」  松岡も手をあげて、きびすを返した。  とくに用件がなかったので、経理部だけ除いたのが気掛かりだったのである。  もし、成瀬に会えていたらもう少し気分がよかった筈だ。短時間でもよい。多少なりとも激励され、親し気に肩でも叩かれたら、たぶん、気持ちも変わった。  というのも、松岡は博多で杉本富士雄と勝田忠に会っている。会っただけではない。夕食を共にし、とても嘘とは思えぬ成瀬の近頃の暴走ぶりを聞かされ、じっくりと説得されていた。 「試しに、きみの方から成瀬頭取に声を掛けてごらん。おそらく、会ってもくれんだろう。仮に会ってくれても、素っ気なく、一分以内で追い払われる」  と勝田は言った。 「その通りだ。間違いなかろう」  と杉本も同意した。 「失礼だが、人事問題も含めた成瀬くんの拡大構想の中にきみは入っていない。そういう事実に早く気付くべきだ」  とつけ加えた。  これを耳にして、松岡の心の中には「まさか?」との思いが生じた。同時に、さもありなんと思いもした。 「まあいい、自分の眼と耳で納得のいくようにたしかめてみるべきだね」  勝田はそう言ってくれた。  あれからまだ十日も過ぎていない。ところが、早くも勝田の言った通りになってしまった。  もっとも、成瀬は単に多忙で、スケジュールが詰まっていただけのことかも知れない。となると、少なくとももう一度か二度は同じことを試してみるべきだろう。 「なるようになるさ」  と松岡は呟いた。  げんに長谷部が長時間頭取室に入っている。あれをほんの五分、いや、せめて三分さくことが出来なかったのか?  そう思うと、いまさらのように口惜しさがこみあげてきた。  午後七時十分過ぎ、長谷部と松岡は銀行を出た。  長谷部の専用車は車の長い帯の中に割り込んで、青山《あおやま》方面を目指した。      17  二人を乗せた車は、青山通りを赤坂から渋谷《しぶや》方面へ向かって進み、表参道《おもてさんどう》の交差点まできて左折した。  車は三百メートルほど進み、能で有名な銕仙会《てつせんかい》ビルの前で停まった。 「今日はこれで帰って下さい。どうもごくろうさま」  と長谷部は運転手をねぎらった。  このビルの二階にある「一心《いつしん》」が彼等の目的地だ。しゃぶしゃぶやすきやきなど肉料理では定評があり、味にうるさい人たちの間ではよく知られている。  予約を入れておいたので窓際の席に案内された。道路をへだてた反対側の斜め向こうに、洋菓子の「ヨックモック」の青いレンガの瀟洒《しようしや》なビルが見える。 「しゃぶしゃぶでいいですか?」  と長谷部は念を押す。 「けっこうです」  と松岡は答えた。 「いいお店だね。ここの評判は聞いているよ」  とつけ加える。 「困るんだよ。一度『一心』で食べると、ほかの店へ行けなくなってね」  と長谷部は応じた。 「きみも東京へきて口が肥《こ》えたな」  松岡は睨む真似をする。 「博多で毎日、海の幸の美味い物を食べているあなたには及ばないがね」  長谷部は言い返した。 「そうか、きみは名古屋と岐阜だったな。あそこもいろいろあるだろう。うなぎに味噌カツ、ひもかわうどんもいいし、鮎の塩焼き、それに鮎ぞうすい、あれは絶品だ」 「ちょっと三重県の方へ寄れば松阪牛《まつざかぎゆう》もあるしね。赤福《あかふく》も美味い」 「そうだ。やけに細長い大根があったな。あれは愛知県でしかとれんのだろう」  二人はビールで乾杯した。先に刺身の盛り合わせを取り、すぐに日本酒にきりかえる。 「お、なかなかいいね」  松岡はこの店の酒も誉めた。  それからの二人はとても情報収集とは思えない雑談を愉しんだ。 「近頃、石倉くんに会ったかね?」  と松岡が訊く。 「いや、しばらく会っていない。彼がメーカーに移ってから、たしか二度ほど会った。かなり忙しいようだよ」  と教えた。 「大メーカーの取締役だからな。われわれの中では、結局、彼が一番出世したんじゃないかな」 「総務と経理担当の役員だからね。たいしたものだ。さっそくうちも取引銀行に加えて貰った」 「ほう、やるじゃないか。この次、上京する時は早めに教えるから、石倉くんも誘って三人で飲もうよ」  と提案する。 「いいですねえ」  長谷部も表情を緩めた。 「大学教授も呼んでやりたいが、あれは少し変わり者だからな」 「宮田くんか、彼にも世話になった。富桑銀行の分析をやって貰ったからね」 「ああ、うちよりだいぶ不良債権が多かったんだろう」 「あれが合併反対の一つのきめ手になったんだ」  と漏らす。 「よし、宮田隆男もいずれは呼ぶとして、その前にまず三人で会おうよ。目下のところ、おれが一番遅れを取っているが、これも不徳のいたすところだ。仕方がない」 「きみのことだ。すぐに巻き返すだろう」 「おい、いい加減なことを言うな」  松岡は少し気色ばんだ。 「いい加減なものか? きみほどの人材をいくら大店舗とはいえ、いつまでも地方の支店長にしておくわけにはいかない。そのくらいのことはわかるだろう」  長谷部は真顔で言った。 「そうかな」  と松岡は呟いた。 「じきに美味い空気や水、新鮮な魚介類ともお別れだ」  と励ました。 「うーむ、迷うところだね。博多とも別れにくいし」  松岡の顔が初めて綻んだ。  デザートのメロンが出た。 「どうかね? もう一軒寄ってみようか? そっちさえよければ」  と長谷部が持ち掛けた。 「ああいいよ。これで別れるんじゃ、何だか、もの足りない」  松岡は応じた。 「よく石倉が一人で行っていた店を覚えているだろう」 「知ってるよ。たしか、カラオケバーの『ぐうたら神宮《じんぐう》』だ。若くて歌の上手な美人のママさんがいたなあ」 「その通りだ。細身の美人だ。六本木のテレ朝《あさ》通りに面してるから、ここから近い」  と教えた。 「よおーし、出掛けよう」  松岡は先に立ち上がった。      18  その頃、石倉克己と高川明夫は赤坂|溜池《ためいけ》のレストラン「セヴンス」にいた。洗練されたフランス料理店である。石倉も高川もこの店をよく知っていて、午後七時にここで待ち合わせたのだ。  高川から電話を貰った時、石倉は途惑いを覚えた。古い幽霊とまではいかないが、あまり見たいとは思わぬ幻《まぼろし》を見てしまったような気がしたのだ。  といって、高川と交渉したり、打ち合わせをしたのはほんの一年半ほど前のことである。忘れてしまうにしてはあまりにも生々しい。が、石倉にしてみれば、長年の銀行員生活が合併問題の挫折で崩れ去ったのだ。  いまにして思うと、伽藍《がらん》の崩壊にも似た見事な崩れようであった。  現在の石倉はほぼ完全に立ち直っていた。自分でもそう信じている。そのためにも過去のことは忘れてしまおう。意識的にそう思って努力した。無理に忘れようとしてきたのである。富桑銀行側で彼と同じ立場にあった高川からの電話は、過去の一連の出来事を一気に思い出させるものであった。途惑ったのも無理はない。 「驚かれたでしょう」  と高川は最初に言った。 「たしかに、少しばかり驚きました」  石倉もあえて否定しなかった。 「あの時はお互いに半ば縛られたような立場でしかお目に掛かれませんでした。でも、いまはそういうことはもう関係ない。自由な立場で話せるわけです。いかがでしょう。近いうちにぜひお会いしたいんですが」  高川はけれん味のない口調で言う。  石倉は高川と電話でやり取りしているうちに考えを変えた。無理に思い出すまいとするより、高川に会ってしまって、すべてが大きく変化してしまった現実を見つめた方がよいのではなかろうか? しきりにそんな気がしてきたのだ。 「では、そちらのスケジュールをお聞かせ下さい」  と応じて手帳をひろげた。  たまたま高川の指定した日が、前日にキャンセルされて空いていた。幸先がよいのかわるいのかわからないが、両者の日程はぴたりと合った。タイミングがよかったのだ。これが約束をしたものの、出会う日が一か月半も二か月も先になればどうであろう。何となく調子が狂う。会って話そうという熱気が消え去ってしまうのである。  二人は赤ワインを傾け、コースの料理を頼んだ。前菜の間は何となくぎこちなかったが、スープが終わって魚料理が出てくる頃には会話もなめらかになってきた。  両者には共通項がたくさんあった。同年輩であり、頭脳明晰なやり手のエリートとして、最初に出会った時は眼を合わせた瞬間火花が散ったのを、二人ともよく覚えている。  お互いの能力と実力を、顔を合わせたとたんに見破ったのだ。相手の優秀さをとっさに理解したのである。  高川は原沢頭取の談話をもち出した。ただ、内容を少しだけ変えた。 「もし、あの時、三洋さんと当行の合併が成立していたら、将来の頭取はあなたに、そして副頭取にはわたくしがならせて頂いて、名コンビが組める。うちの原沢はそれを愉しみにしていたと言うんです」  と打ち明けた。 「もったいないお話です。原沢頭取さんにぜひともよろしくお伝え下さい」  石倉は恐縮した。 「伝えます。つきましては一度、うちの原沢とも付き合って下さい。三人でお食事ということでいかがでしょう」  と奨める。 「いいですねえ」  と応じた。 「もう一つお願いがあります。ぜひ『星野田機械』さんとお取引を、何とか石倉さんのお力でよろしく。実は、原沢がその件も頼んでくるようにしつこく言いまして、もちろん、わたくしも心から願っておりますが、この通りです」  高川は両手をテーブルの上について、深く頭を下げた。 「手を上げて下さい。承知しました。これでも経理担当役員ですから何とかいたします。三洋銀行とも半年程前から新たに取引を始めたところでしてね。両行と相次いで取引させて頂くというのも、不思議なご縁です」  石倉は感慨深げに言う。 「なるほど、それは」  と高川も絶句する。 「とにかく、お取引を頂けるということであれば末長くよろしく」  石倉は会釈した。 「こちらこそ、よろしくお願いします。しかし、すごいですなあ。ある意味では、今後はあなたが三洋と富桑を手玉に取ることになるかも知れない」  と指摘する。 「ご冗談を。そんな気はまったくありません。どうか、お手柔らかに」  と言いつつ石倉は微笑を浮かべた。  何故か、高川にはその微笑が不敵な笑いのように思えてぎくりとした。  デザートが出て、コーヒータイムになった。その頃には二人共かなり打ち解けていて、親しい友人同士のような柔らかい雰囲気が生じていた。 「すばらしい味でしたな。フランス料理なのにしつこさがない」  高川は満足そうだ。 「以前、川奈《かわな》ホテルにいたシェフが仕切っていましてね。腕は抜群との噂を聞いております」  と石倉が教えた。 「やはり、そうでしたか。ひと味違いますよ。ここでしたら原沢だって連れてこられます」  と高川は誉めた。  いざ勘定を払う段になってひと揉《も》めした。双方が払うといってきかなかった。黒のスーツに身を固めた美人の女性マネージャーが、途惑い顔で見て見ぬふりをしていた。  高川ががんとして譲らず、彼が勘定を持つことになった。 「では、もう一軒付き合ってください」  と石倉が提案する。 「付き合いましょう。どんなお店ですか?」  と尋ねた。 「銀行時代に一人でこっそりと通っていたカラオケバーでしてね。気さくで気分がいいんです。『ぐうたら神宮』と言いましてね。変わった屋号ですが、その代わり、一度覚えると忘れませんよ」 「ほう」 「しばらく行ってないんですが、どうでしょう」 「けっこうです。その店にしましょう。わたしもボトルを入れますよ」  高川は乗り気になった。      19 「ぐうたら神宮」では、長谷部と松岡が壁際の一角に向かい合っていた。  松岡の隣りに着物姿のママさんがいる。 「石倉のやつ、近頃さっぱり来ないそうないか?」 「そうなんですよ。長谷部さん、首にナワをつけて引っ張ってきて下さい」  とママが頼んだ。 「聞き捨てならん。長谷部に頼んでどうしてこのわたしに頼まないんだね」  と松岡はからんだ。 「だって、松岡さんは博多の人でしょ。中洲《なかす》でもててる方なんかに用はないわよ」 「言ったな!」 「あ、恐い、助けて」  ママはするりと身をかわして、長谷部の隣りへ行ってしまった。 「逃げられたか」  松岡は口惜しがる。  店は九割の入りで、あと二人客が来れば満席になる。 「まったく不況知らずだな、この店は。いったいどこがいいんだろ」  松岡は憎まれ口をきいた。  カラオケの前奏が流れ始めた。 「松岡さんの番ですよ」  言われて、彼はふらふらと立った。  選んだ歌は「三百六十五夜」である。歌詞の出てくる画面もカラーではなくモノクロであった。ナツメロもこのくらいになると、まわりのお客たちも驚いたり、呆れたりしている。 「おれは幼稚園の頃、この歌が主題歌になった映画を見たんだ。小島政二郎《こじままさじろう》原作の名作だぞ」  と言いつつ、松岡はワンテンポ遅れて歌い始めた。  声は渋く、歌い方も堂々としていた。酔っていなければなかなかの歌い手だ。二番に入る頃にはテンポも追いついた。 「これは相当なものだ。中洲でけっこう鍛えているな」  と長谷部が感想を口に出す。 「ほんとう、憎らしいくらいだわ」  とママも同意した。  松岡の歌が三番にさしかかった時、ドアが開いて、二人の男が入ってきた。  石倉と高川である。 「まあ、石倉さん!」  ママが駆け寄った。 「いま、お噂してたのよ」  と伝える。  長谷部と松岡が殆ど同時に気付いた。 「石倉くん」 「石倉じゃないか」  二人は口走った。  長谷部は立ち上がり、マイクを手にした松岡は歌うのをやめてしまった。 「これは奇遇だ」 「不思議な偶然だね」 「まさか、ぼくの古巣に二人が揃って来ているなんて」  三人は立ったまま、次々に握手を交わした。  高川にもおおよその察しはついた。長谷部、松岡、両者共かねがね名前は聞いている。石倉を含めた優秀な同期三人組の噂は他の都銀にも流れていた。  高川が紹介されると、波紋が起こった。今度は長谷部と松岡が驚く番だ。二人共、石倉から聞いて高川の名を知っている。  二つ空いていた席がくっ付けられ、四人は二人ずつ並んで向かい合った。 「やっぱり、われわれには切っても切れない縁があるんだなあ」  松岡がしみじみ言う。どうやら酔いも覚めてしまったらしい。 「さっき二人でね。石倉くんと会いたいと言いつのっていたんだ」  と長谷部も訴えるように言った。 「こっちも同じ気持ちだったよ」  と石倉も打ち明けた。 「せっかくのところを、わたしまでお邪魔しまして」  高川は恐縮している。 「いいじゃないですか? これからは高川さんにも仲間に入って貰いましょう」  松岡が調子の良いことを言う。 「よろしくお願いします」  高川は低姿勢だ。  それからしばらくはカラオケどころではなくなってしまった。他のお客たちの歌声もさして気にならない。  誰もが偶然の出会いを喜んでいた。  午後十一時を過ぎると、客席が空き始めた。近頃のサラリーマンは遠隔地からの通勤者が多い。場所にもよるが、電車で帰る客はここ二、三十分が勝負になる。  空席が増え、四人はもっと広い席へ移った。歌声もめっきり間遠になって話しやすくなっている。  十二時三十分になると、お客は彼等四人だけになってしまった。 「さあ、貸し切りですわよ」  とママは却ってはしゃいでいる。 「よろしい。わたしたちも一時には帰りましょう」  と長谷部が提案する。 「いや、もっといてもいいぞ」  と松岡が言い返す。 「久しぶりに九州から帰ってきたんだろう。早く家に帰るべきだ」  と石倉が説教した。 「わたくしも一時にお開き、解散に賛成です。他日を期しましょう」  と高川が言った。 「では、最後に皆さんお一人で一曲ずつお歌いになって下さい。今夜は長谷部さんのお歌も聞かせて頂きますよ。それから、高川さんもぜひどうぞ」  とママは奨めた。 「よし、おれからいこう」  松岡が立ち上がっている。  マスターが出てきてセットする。流れてきたメロディーは「湖畔の宿」だ。  次いで、石倉が「恋ごころ」を、高川が「ラヴ・イズ・オーヴァー」を歌った。三者共、なかなか上手である。場数を踏んでいるのがよくわかる。  結局、嫌がる長谷部が最後に押し出された。仕方なく、大いに照れながらマイクを握る。彼が選んだのは「北帰行」である。  たしかに馴れてはいないが、けっして下手ではない。声量もあった。 「なんだ。けっこううまいじゃないか? 音痴でとてもダメなのかと思っていたよ」  松岡が不服そうに口を尖らせた。      20  銀行が土曜日を休日にしてから久しい。いまでは誰もが銀行は土日と祭日が休みなのを知っている。  昨夜が遅かったので、高川はまだ床の中にいた。午前九時四十分である。  電話で起こされたかたちになった。総務課長からだ。 「まだお休みでしたか? どうも申し訳ありません」  と言い訳する。 「いいですよ。そろそろ起きようと思ったところでした」  と答えた。 「実は、約一年前の原沢頭取のご自宅への発砲事件について、何か情報が入ったらしいんです」  と意気込んで報告する。 「そうですか。それはよかった」 「二十分ほど前に警察から連絡が入ったばかりです。さっそく頭取にお知らせしましたところ、主だった役員数人に至急集まって貰いたいとのご要望を受けております。わたくしはこれから警察へ直行し、事情を調べましてから銀行へ向かいますので、正午頃をめどにお集まり頂けませんか?」  と頼んだ。 「わかりました。十二時集合ですね」  と念を押す。 「そうです。よろしくお願いします」  総務課長は用件だけ伝えると、そそくさと電話をきった。  まだ多少の時間の余裕があったが、もう寝てはいられない。受話器を置くとすぐ、高川は洗面所へ向かった。  ほぼ同じ頃、長谷部敏正も電話で起こされた。彼の方はぐっすり熟睡していた。  今朝はいつも掛けておく目覚まし時計のスイッチをオフにしたままだ。休みの日ぐらいゆっくり眠らなければ躰がもたない。  昨夜、マンションの自宅へ帰り着いたのは一時四十分、それからシャワーをあびたので、ベッドに入ったのは二時三十分頃である。したがって昼頃までは眠るつもりであった。  電話のベルは容赦しない。兇器のようなものだ。  長谷部は叩き起こされ、仕方なくじりじりと手を伸ばす。思わず舌打ちして、ようやく受話器を取り上げた。 「あ、お休み中でしたか? どうも、すみません」  聞き覚えのある声だ。 「いや、これは失礼、どうやら、眼が覚めました」  正直に言う。 「実は緊急事態なので」  相手は早口だ。声の主が総務部長であるのがわかった。 「どうかしましたか?」  と訊く。 「今朝、横浜《よこはま》支店長が狙撃されました」  と報告する。 「狙撃された?」  と訊きなおす。 「はい、拳銃で撃たれたんです」 「拳銃で?」  すっかり眼が覚めてしまった。 「そうです」 「容態は?」 「救急車で運ばれ、手当て中です。詳しいことはわかりませんが、重体であるのは間違いありません」 「犯人は?」 「逃走中でわかりません。成瀬頭取は役員の何人かに招集をかけました。部長もメンバーに入っておられますので、早急に本店までお集まり下さい」  と伝えた。 「わかりました。出来るだけ早く駆けつけます」  受話器を置くや、まずトイレに入った。  洗面と歯磨き、髭そり、これだけは欠かせない。身だしなみである。  もちろん、食事をする時間はない。といって、空腹ではどうにもならんではないか? そう思って、冷蔵庫を開ける。立ったまま、牛乳をコップ一杯分飲み、バナナを一本食べた。  ネクタイをしめると、マンションをとび出し、前の道路でタクシーをひろった。  つい先日、名古屋支店の正面扉に銃弾が二発撃ち込まれた。あの事件と何かかかわりがあるのか? 「あ!」  長谷部はタクシーの後部座席で小さな声をあげた。  そうだ。脅迫状が投げ込まれていた。そこにはたしか、この次にはこんなことではすまないという意味の事柄が書かれていたのではなかったか?  臨時常務会で、あの件は殆ど無視されてしまった。長谷部だけが末席からそのことに抗議し、注意を喚起した。  それで、「小委員会」が出来た。大森副頭取が主宰し、長谷部も委員の一人に加えられた。しかし、長谷部は成瀬に呼ばれて中座し、その後、小委員会には出席していない。少なくとも、彼の知る限り、たいした議論も交わされず、これといった対策も打ち出されてはいなかった。  もっと積極的に推し進めるべきであった。忸怩たる思いがこみあげてきた。  タクシーを下りると、長谷部は裏口の通用門を目指した。  新聞記者か、週刊誌の記者らしい人たちが何人か裏口付近にいる。長谷部はさっさと通り抜けて中へ入った。ガードマンたちも緊張していた。  役員会議室に何人かの役員たちや部長クラスが集まっている。頭取もすでに来ていて、頭取室に入ったままだという。  秘書課長が来て、大森と専務二人、常務二人を呼んだ。 「頭取がお呼びです。すぐ頭取室へ入って下さい」  と伝えた。  一同はぞろぞろと移動して行く。 「あ、長谷部取締役、あなたもごいっしょに行って下さい」  秘書課長が目ざとく見つけて声を掛けた。 「わかった」  長谷部は小さく頷いた。 「ほかの方々はこちらへ集合して下さい。総務部副部長から状況説明があります」  秘書課長は声を張り上げた。 [#改ページ]  異 常 事 態      1  頭取室の内部は広い。室内に立つと、頭取の大きな執務机が小さく見える。  頭取の椅子から三、四メートル離れた窓側にソファーのセットがあり、反対の壁寄りに打ち合わせや小会議の出来る細長いテーブルと椅子が八脚ほど並べてある。  副頭取の大森に専務二人と常務二人の後に続き、長谷部も頭取室に入った。  成瀬頭取は室内を歩き廻っていた。次々と入室してくる役員たちの方を見もしない。表情に苛立ちと不快感がにじみ出ている。  大森以下の役員たちは気配を察して、入口付近で立ち止まった。そのまま頭取の指示を待つかたちになる。  二十秒後、成瀬は足を停めて一同の方を見た。もの憂《う》気なしぐさでテーブルを指さす。 「先に坐ってくれたまえ」  と口をきった。 「承知しました」  大森が代表して答え、まっ先に椅子を引いた。専務以下の役員たちも次々とそれにならって腰を下ろしてゆく。  全員が坐ったのを見定めてから、成瀬はゆっくりと歩み寄って自席についた。成瀬の坐る席はいつも決まっている。壁を背にして一同を見渡せる席である。 「まったくひどい話だ。日本もアメリカ並みの犯罪国家になったのか?」  成瀬は吐き出すように言った。 「なにしろ、中国製や旧ソ連製の拳銃が相当入ってきているようです。不良外国人がどんどん流入してますから、運び屋にはこと欠かんでしょう」  と大森が応じた。例によって阿る口調だ。  成瀬は聞こえないふりをした。この際、一般論などどうでもよい。 「こうなってみると、名古屋支店の正面シャッターに撃ち込まれた銃撃事件との関連が気になるところだ。同じ犯人の仕わざなのかどうか?」  成瀬は低い声で言う。 「………」  大森は例の脅迫状を握り潰そうとした一人だ。長谷部の発言がきっかけになって作った「小委員会」で検討を始めたものの、もともとあまりやる気がない。会合を持っただけで殆ど何の成果もあげていなかった。  いま急にそのことに気付いて、忸怩たる思いにかられた。当初から真剣に取り組んでいれば多少の進展が見られたかも知れない。事件を未然に防げたとまではいかなくても、何らかの効果をあげられたのではなかろうか? そんな気がする。 「大森副頭取」  と成瀬に呼ばれて、彼はぎくりとした。 「きみのところの小委員会はどうなったんだね? 何の報告も受けていないが、まさか、何もしなかったわけではなかろう」  と訊かれた。 「それが」  と大森は口ごもった。 「なにしろ、警察にもマスコミにも知られてはならんということで進めておりまして、当然、限界があります。特別な調査機関に依頼をするかどうかを検討中でした」  言い訳がましい返答になった。 「警察に知らせないと言い出したのは、たしかきみじゃなかったか? いずれにせよ、いまとなっては手遅れだ」  成瀬はきめつけた。 「はあ」  大森は少しうなだれた。  そうしないと、成瀬が攻撃の手を強めるのではなかろうかと察したのだ。 「まあいい、ここで大森副頭取を追及したって始まらん。それよりも銀行としての今後の対応が問題だ。マスコミ対策も含めて、われわれはどうすべきか? 忌憚《きたん》のない意見を述べて頂いた上で、三洋銀行の統一見解を決めておきたい。まず、総務担当の専務から始めて貰おう」  と成瀬が方向を示した。  この会合でいくつかの基本方針が決まった。約一時間後に大森以下の役員たちは頭取室を出た。  長谷部が自席に戻るとすぐに内線電話のベルが鳴った。 「頭取がお呼びです。もう一度お部屋の方へお願いします」  秘書課長の声が聞こえてきた。 「わかりました」  と答えて立ち上がる。  用件があるならどうして先程伝えなかったのであろう。「長谷部くん、ちょっと残ってくれ」と声を掛ければよい筈だ。長谷部は再びエレベーターホールへ向かいながら、胡乱《うろん》な思いがこみあげてくるのを感じた。  ノックをして頭取室に入ると、成瀬はソファーを指さした。 「先程の会議ではあえて言わなかったんだが、実は気になることがある」  といきなり言った。 「お聞かせ頂いてもよろしいでしょうか?」  と長谷部は予防線を張る。 「きみにならかまわん」  と成瀬は言い返す。 「うちの役員の中には大森くんを筆頭に口の軽いのがいるからね」  とこぼした。 「きみなら安心だ」  とつけ加える。 「それはどうも」  長谷部は照れた。 「ちょうど一週間前の土曜日に、わたしの自宅に奇妙な電話が掛かってきた」  と打ち明けた。 「午前七時三十分だった。起きるとすぐにベッドサイドの眼覚まし時計を見たから、時刻は間違いない」  と断言する。 「朝の七時三十分ということになりますと、横浜支店長が何者かの訪問を受けてマンションのドアを開け、拳銃で撃たれたのと同じ時間ですね」  と長谷部は指摘した。 「その通りだ。ぴたり、一週間前の同時刻だよ」  と成瀬は認めた。 「すると?」 「そうだ。犯人が掛けてきたのかも知れん」 「犯人?」  と思わず訊き返す。 「受話器を耳に当てると、薄気味わるい濁《だ》み声が聞こえてきた。『横浜支店の取り立てを直ちに引っ込めて、追加融資を認めろ。いいか、わかったな。さもないと、死人が出るぞ』そう言うなり電話が切れた」  成瀬は口惜しそうに下唇を噛んだ。 「悪質ないたずら電話だと思って放っておいた。横浜支店長に問い合わせればよかったのかも知れん。しかし、そんなことをすれば不良債権の回収に水を差す。頭取が脅迫電話一本で怯えたんでは話にならんからね。どうだね。きみだってそう思うだろう」 「はい」  はっきりと頷いた。 「いまは管理部が中心になり、全支店で延滞の撲滅を目指し、徹底的な不良債権の取り立てを実施中だ。後ろ向きの追加融資も特別なケースを除けば、一切断わっている。体質の改善と強化が目下の最重要事項だからね。そうしなければ生き残れない時代になってきたんだ」  憤然とした口調で言う。 「まさにその通りです」  と同意する。 「そうは言っても、こっちも人の子だ。切れば赤い血が出る。情の上では倒産寸前の企業を何とか助けたい。それが銀行の役目だとの思いがけっしてないわけではない。が、銀行は多くの預金者たちの大切なお金をお預かりして運用している。したがって当然、限界がある。泥舟といっしょに沈むわけにはいかんのだ」  と言い張った。  長谷部は再び頷いた。 「支店長が助かるかどうかは予断を許さない。もし、命を取り留めても当分は口もきけんだろう。副支店長に支店長代行の辞令を出したところだが、きみの融資部長時代に君の同期で、横浜支店長の西巻良平くんが急死するという事件もあった。横浜支店についてはきみは他の部長よりずっとくわしい。融資課長にも事情を聞いて早急に調査してくれたまえ」  と命じた。 「承知しました」  長谷部は渋い表情のまま答えた。 「頼んだよ。しばらくは内密に」  成瀬は念を押した。      2  松岡紀一郎は博多に帰った。  もちろん、横浜支店長が拳銃で撃たれ、重体となって入院中なのを知っている。  ──こうなると、支店長も命がけだな。  とひとりごちた。  松岡にとっては横浜支店長の北野久光《きたのひさみつ》は同僚の支店長であり、同じ単身赴任者である。とても他人事とは思えない。  北野は松岡の二期先輩で、神戸《こうべ》支店長から栄転してきた。横浜支店が三か店目の支店長で、役員候補者からはずされていたので、年齢的にみても、おそらくこれが最後の支店長勤めになる筈であった。  前横浜支店長の宮田隆男が退職して大学教授に転じたため、急遽後任者として赴任した。松岡が福岡支店長になったのとほぼ同時期である。もともと関西の人で家族は神戸に住んでいた。  昨今では何処の支店長も不良債権の回収に頭を痛めている。大都市の大店舗の支店長ほど大きな数字を抱えて動きがとれなくなっていた。当然、新規の融資や後ろ向きの追加融資には慎重になる。  ──たぶん、北野は最後の支店長勤めになるのを知っていて、張り切りすぎたのだろう。それとも、役員になれるかも知れないと考えて頑張ったのか? いずれにせよ、何者かに恨まれた。そして、ひどい結果になった。  松岡はそう思いながら、自分の上にも暗雲が押し寄せつつあるような気がして支店長室内を見廻した。珍しく不安を感じたのだ。何故か、日頃の押しの強さといけ図々しさを忘れていた。  成瀬昌之はとうとう会ってくれなかった。不意打ちでもあり、頭取が多忙であるのもわかっているつもりだ。しかし、以前の成瀬なら、こんなことはなかろう。万障繰り合わせて、会うだけではなく、夜一席もうけてくれたかも知れない。  松岡は地方の一支店長であり、相手は頭取である。その差はあまりにも歴然としている。他人に言えばやや滑稽なぐちとしか思われず、笑われるだけだろう。  だが、松岡には不遇時代の成瀬を助けて現在の地位にまで押し上げたというかなり根強い矜持《きようじ》があった。成瀬はもう一年前の出来事など忘れてしまったのか? あるいは忘れたふりをしているのか?  どちらかわからぬが、おそらく、現在《いま》の松岡に用はないと思っているのはたしかだ。そうでなければ、直接でなくても、せめて秘書課長を通じて簡単なメッセージぐらいは入ったであろう。  無視された、莫迦にされたという思いが強く、博多に戻っても口惜しさが払拭出来ない。不機嫌な顔付きで押し黙り、表情が冴えなかった。  長谷部からも情報が取れず、杉本富士雄と勝田忠が漏らした新たな合併工作についても、その片鱗《へんりん》さえ掴めない。それもまた癪《しやく》のタネである。  あげくに、長谷部が成瀬に大いに頼りにされている事実が判明した。本部の総合企画部長のポストは頭取と直結していた。そのことはよくわかっているつもりだ。まして長谷部は新任の取締役である。  頭取と緊密なコンビを組めなければこのポストにとどまるのはむずかしい。したがって、成瀬と長谷部がしばしば打ち合わせや相談をするのは当然であろう。  そういう役目柄、接触の必要性を勘案して差し引いても、なおかつ成瀬と長谷部の結びつきが相当強いのをひしひしと感じた。これでは成瀬体制が続く限り、長谷部を追い越すのはむずかしい。かりに、ここ一、二年のうちに取締役になれたとしても、追いつくどころか、長谷部は常務に昇格している。そんな予測さえたてられた。 「うーむ」  と松岡は唸った。他人が聞けば苦悶の声だと思うだろう。  支店長室内で腕を組み、しばらくじっとしていると電話機が鳴り始めた。松岡は少し顔をしかめてからゆっくり左手を伸ばした。 「やあ、元気かね?」  聞き覚えのある声が聞こえてきた。勝田忠の声だ。 「先日はあなたにご馳走になってしまった。杉本さんも大いに喜んでおられた。どうも有難う」  と礼を言った。 「たいしたおもてなしも出来ませんで申し訳ありません」  型通りに答えた。 「そんなことはない。魚は新鮮だし、料理も美味かった」  勝田は満足そうに言う。 「そうですか。気に入って頂けましたか」 「もちろんだよ。杉本さんもわたしと同意見でね。さっきも電話を貰ったばかりなんだが、博多はよかったと言っておられた」 「それはどうも。そんなふうに言って頂くと却って恐縮せざるを得ません。杉本顧問にもよろしくお伝え下さい」  と松岡は答えた。  勝田とたあいのないやり取りを繰り返しているうちに気持ちがほぐれてきた。一年前まで勝田は成瀬の上位にいた筆頭副頭取であった。前頭取の杉本富士雄にぴたりとくっ付いていた。トップを補佐した上での名コンビというよりは、杉本の意見には何にでも従うイエスマンと言った方が当たっている。  そのために、どちらかといえば軽く見られていた。松岡自身も勝田にはもの足りなさと頼りなさを感じた。  そして、結果的には勝田を裏切ったかたちになった。  むろん、勝田に対するうしろめたさはある。しかし、それがあまり深刻な度合いをおびない。勝田の滑らかな人柄のせいであろう。時間の経過とともに薄れていったのはたしかであるが、勝田はそのことをおくびにも出さず以前とまったく変わらぬ態度で接してくれる。おかげであまり負担を感じないのだ。 「ところで、先日の話ですがね。目下、杉本さんとわたしで調査を続けておりますが、予想した通り、面白いことになってきましたよ。いや、面白いなどと言ってはいけない。由々しい事態と言うべきでしょうな」  勝田の口調が少し変わった。 「例の件ですか?」  と松岡はたしかめた。 「そうです。成瀬頭取が最近になって始めた合併工作の件ですよ」  とはっきり教えた。 「やはり、新しく合併工作なんか始めているんですか?」 「その通りです。間違いありません」  勝田は断言した。 「すると」 「そう、目下のところは成瀬くんと総合企画部長が動いています」 「長谷部が?」 「トップの指令を受けて、もっぱら長谷部くんが動くでしょう。彼は口が固いし、生真面目で一本気なところがある。合併工作には向いていますよ。われわれの時の石倉くんよりいいかも知れない」  と言いきった。  受け取りようによっては長谷部を誉めているとも取れる。松岡は複雑な気持ちになった。長谷部も石倉も同期の仲間であり、ライバルであった。石倉は銀行を去り、長谷部は昇格した。松岡だけが宙ぶらりんのかたちになっている。  たしかに、現在の長谷部にはある種の威厳と以前にはあまり感じられなかった貫禄が加わっていた。久し振りに会ってみてそう思った。  それもあって、圧倒されたような気がする。しかも、彼は松岡と同列ではなく取締役になっている。普通の話題や冗談なら言えてもトップシークレットにかかわるような質問を簡単に発するわけにはいかない雰囲気が感じられた。  相手を威嚇するわけでも圧倒しているわけでもないのに、不用意な発言や質問を許さない気配が漲っている。これが貫禄でなくて何であろう。  客観的にみても、現時点では長谷部にかなりリードされてしまった。松岡はそう認めざるを得ない。  ともあれ、今度の上京で長谷部と二人だけでしゃぶしゃぶの高級店「一心」へ行き、その後六本木の「ぐうたら神宮」に寄った。そこで偶然にも石倉と高川に会えた。  長谷部と二人だけになっていた時間は何時間もあった。打診しようと思えば、出来ない筈はなかったのである。  が、結果的にみて、口に出せぬまま深夜になり、カラオケの歌を歌いまくっておひらきになった。  何もいまどうしてもそれを訊き出す必要もない。もっと先でもよい。そういう逃げ口上を用意して引き下がってきたと言えよう。事実は明白だ。やはり負けていたと思わざるを得なかった。 「実はね、合併相手と目されている銀行のトップが、以前から杉本さんと親しい間柄なんですよ」  勝田は少し声をひそめて告げた。 「え! ほんとうですか?」  と訊く。 「ほんとうです」  勝田は落ち着き払って答えた。 「いったい、何処の銀行ですか?」  意気込んで尋ねた。 「それはね」  ともったいぶる。 「ちょっと電話口では言えません」  勝田はやんわりと断わった。 「ごもっともです」  松岡もそう言わざるを得なかった。 「あなたがはっきりわたし共の味方とわからなければ言えません。なにしろ、現時点ではまだ地下に潜っている話ですからね」  と念を押す。 「その点は、わたくしもよくわかっておるつもりです」  丁重に言った。 「では、近くまた打ち合わせをしましょう。いずれゆっくり」  勝田は余裕のある口調で告げた。      3  石倉克己はニューヨーク出張を間近にひかえて多忙な日々を送っていた。 「星野田機械」は大手の機械メーカーであり、総務部と経理部の両方を担当している役員としては、一週間留守にするのも大変であった。もっとも、電話もファックスもある。通信機器類の発達で世界は着実に狭くなってきた。しかも、この傾向はますます強まっている。  とはいえ、せっかく外国に出た時ぐらい日本の会社の出来事にあまりわずらわされたくない。急ぎの電話やファックスなど貰いたくはなかった。  そのために、打ち合わせやチェックを入念にし、いくつかの指示を出す。当然のことながら、現段階で答えの出ないものもある。先方の返事や出方を待った上で判断を下す。そうしないと前に進まない事柄があった。 「やはり、連絡待ちがいくつか出た。まだまだ出るかも知れん、仕方がないか」  と石倉はひとりごちた。  こういう多忙な日々の中へ、富桑銀行の高川明夫がくい込んできた。高川はシャープで切れるだけではなく、なかなか強引である。 「ご多忙のところ、ほんとうに申し訳ありません。わたくしはニューヨークからお帰りになってゆっくりお目に掛かれればと思っておるんですが、なにしろ、うちの原沢が少しでも早く石倉さんにお目に掛かりたいと言い張って後に引きませんので」  と丁重に言う。言葉はいたって丁寧だが押しは強い。 「いかがでしょう。何とか原沢の望みをかなえてやって頂けませんか?」  とくい下がる。  こんなふうに勧誘されるとわるい気はしない。断わってしまう方が傲慢であるかのような錯覚にさえ陥る。誘われているうちに自分の方が弱気になってしまう。  石倉は乗せられた。あまり時間がない。二日後の夜、高川の指定した赤坂の料亭へ出向くことになった。  約束の午後七時の五分前に石倉は料亭の玄関に着いた。思ったよりずっと小さな目立たぬ店である。  ところが、原沢と高川はすでに来ていて、石倉の坐る床の間を背にした上座だけを空けて、反対側に並んで席に着いていた。 「これはこれは」  原沢はテーブルの上に両手をついて深々と頭を下げた。 「ニューヨークへご出張の直前だそうで、ご多忙のところをご無理を申しまして誠に申し訳ございません」  丁重すぎるくらいの挨拶をする。  石倉も慌てて同じように丁寧に叩頭した。 「前頭取の杉本さんから、あなたのお噂はよく聞いておりました。うちにも高川くんがおりますが、いずれあまり遠くない先にあなた方の時代がくる。そう考えて愉しみにしておったんです」  とつけ加えて、にこやかな笑顔を浮かべた。 「実は高川くんと相談しましてね。石倉さんのお力でぜひとも『星野田機械』さんとお取引をさせて頂きたい。ひとつよろしくお願いいたします」  と言って、また頭を下げた。 「は、その件につきましては、高川さんからお聞きしました。近日中に経理部長に挨拶させる予定です。わたくし共の方こそよろしくお願いいたします」  と答えて、石倉も原沢の叩頭ぶりを見習った。  高川はすぐ横で二人のやり取りを見ながら、にんまりと笑っている。 「それはいけません。きみの方から業務推進部長と支店長を連れてお邪魔させて頂きなさい」  原沢はそう言って高川を見た。 「わかりました。わたし共の方からうかがわせて下さい」  前半は原沢に、後半は石倉の方に向きなおって頼んだ。  これでさし当たっての用件は終わった。あとは経済状勢を中心にした雑談になる。時節柄、どうしても不況の長期化と銀行やノンバンクの抱えている不良債権の問題が話題に上った。  次々と料理が運ばれてきた。原沢がひいきにしているだけあってなかなか美味だ。酒も辛口で料理によく合う。 「この界隈は場所柄政治家がよく利用している所でしてね。財界の人たちは新橋《しんばし》や築地《つきじ》が多いようですな」  と原沢は言った。 「わたしはこのあたりに三軒ほど懇意な店がありましてね。選挙資金の足りない政治家の先生方にこっそり金を渡してるんです」  とつけ加えた。 「………」  石倉も高川も黙っていた。  不良債権ならまだしも、こういう話題にはうっかり乗ってゆけない。第一、何と言えばよいのかよくわからない。 「まあ、大半は無駄金ですがね。なかには効果を生む金もある。ちょうど一年とちょっと前に、わたくしの自宅に拳銃の弾が撃ち込まれた。近頃はトカレフとかいう安拳銃が中国から密輸されてきてあちこちで銃撃事件が起きてますが、あの頃はまだ珍しかった。必要以上にマスコミが反応して、暴力団と関係が深い銀行であるかのような扱われ方をした。おかげで合併も失敗に終わったのはご存知の通りです」  原沢は口惜しそうに下唇を噛んだ。 「せっかくのわたくしの構想、銀行百年の計もすっかり狂ってしまいました」  と続ける。 「あの時は口惜しい思いをしました」  と高川も口を挟んだ。 「まったく、何日も眠れなかった。杉本さんもあなたも同じでしょう。いや、あなた方の心の中にはわたくし及び富桑銀行への不信感も生じた筈です。無理もありません。わたくしは身の潔白を口にしましたが、どうにもならない。あんな事件が起こると、言い訳にしかなりませんからね。ほんとうにがっかりしました」  と肩を落とす。 「しかし、種は蒔いておくものです。政治資金をあちこちに出しておいたおかげで、事件はあれ以上騒がれず、警察の捜査にも熱が入った。一年掛かりましたが、ようやく暴力団系の総会屋たちが逮捕された。あとは芋づる式に犯人があがります」  原沢は頷いてみせた。  言葉も態度も丁重で礼儀正しい。が、とても一筋縄ではいかぬ人物だなとの思いが押し寄せてきた。  ひょっとすると、杉本富士雄もまんまと手玉に取られて大型合併の夢を追うことになったのかも知れない。原沢の方が柔軟で融通がきく。人の心を掴むのもうまいようだ。そんな気がする。  どうやら、高川はそういう原沢を尊敬し、心酔しているらしい。  石倉には、頭取時代の杉本がもう一つよくわからなかった。彼はいまにしてそう思った。  となると、同じようにコンビを組んでも、能力や情報収集力は別にして、どうしても原沢—高川コンビの方が、杉本—石倉コンビよりも強力になる。  原沢と高川はがっちりと行内を固めて意思統一を明確にした。それにくらべて、杉本と石倉は成瀬に反乱を起こされ、これに松岡や長谷部等の有力部長や支店長も加わった。  ──やはり、負けていた。  そう思った。  もし、富桑銀行との合併を強行していれば、いずれ、あまり時間が過ぎないうちに、三洋銀行はあとかたもなく吸収されてしまった。いまにしてそんな気がする。 「あの大合併が成功していれば、不況にも不良債権にもびくともしない巨大銀行が出来ていたでしょう。日本一どころか、間違いなく世界一ですよ」  原沢は遠くを見るような眼付きをした。 「その巨大銀行の頭取に石倉さん、副頭取に高川くんのコンビでやって貰いたかった。わたしは会長や名誉会長ではなく相談役でいい。そんなプランをたてていたんです。もちろん、あの時点では、まだ、杉本さんには内緒でしたがね」  と伝えて、じっと真正面から石倉の眼を見つめた。  殺し文句である。石倉は困った。いまさらそんなことを言われても困る。自分はとっくに銀行界をとび出している。 「いや、大変失礼をいたしました。お近付きになりたいばかりに、つい、本音を漏らしてしまった。ここだけの話にしておいて下さい。ひとつ、今後共よろしく」  原沢はまたテーブルの上に両手をついて、ゆっくりとおじぎをした。      4  神谷真知子はニューヨーク暮らしに少し飽《あ》きていた。  かなり大ざっぱな分類だが、外国へ出た日本人には二つのタイプがある。  その国の風土や社会に順応し、ごく自然に融け込んでゆける人と、そうではなく、ことごとに反発を覚えたり苛立ったりする人の二つだ。  もちろん、もっと正確を期せば、その中間の人が多いのかも知れない。また、ある時は順応し、別の時には反発する人もいるだろう。好き嫌いや憧れ、こんな筈ではなかったとの思いもある。情報と現実の差に愕然とすることも稀ではない。  人の噂や、新聞、雑誌の記事がまったくの出たらめに近い嘘であったとの実感を抱く人も多い。それに、旅行者や短期間の滞在者と住んでみた場合の違いには相当大きな開きがあるだろう。  いまではもう誰もが知っていることだが、アメリカの黄金時代は一九五〇年代の後半から一九六〇年代位までである。七〇年代に入ると翳りが見えてくる。しかも、この翳りは急速に進み、九〇年代に入ると暗雲に覆われてしまったかのような感さえある。  ともあれ、アメリカの良さやわるさがもっとも端的にあらわれるのはニューヨークであろう。何が良くて何がわるいのかを口に出して語るのはむずかしい。個人差や考え方の違いが出る。  いずれにせよ、一九六〇年代のアメリカは輝いていたし、当時のニューヨークは魅力に富んだ街であった。この街に集中した感のあるビジネスも絵や演劇や音楽などの芸術もすべてが黄金色に輝いていた。  この魅力は実際にその頃のニューヨークと何らかのかかわりを持った人たちによってかなり忠実に語りつがれてきた。いまではもう現実感のないニューヨーク伝説である。  日本人の多くは、とくにニューヨーク好きのファンたちはこの種の伝説を簡単に手放そうとはしない。  落ちぶれたニューヨークを知ろうとはせず、また、知りたいとも思ってはいなかった。  アメリカの威光の失墜には気付いていても、ニューヨークだけは別だと思っている人も多い。  たしかに、ウォール街もブロードウェイも、メトロポリタン美術館もなくなってはいない。相変わらず株や債券や為替の取引も活発である。芝居やミュージカルも毎夜演じられていて、多くのお客たちを集めている。  しかし、何かが違う。  治安の悪化と情熱の拡散、目的の喪失と怠惰な日常、進歩の停滞と生活の不安、暴力と破壊、利己主義のはびこりと汚れきった街、刹那主義とエイズの蔓延《まんえん》等々、ニューヨークで暮らす人たちの心の荒廃は、いまや救いようのないところまできてしまった。  世の中には頽廃を好む人もいる。が、多くの健全な心の持ち主はそうではない。  神谷真知子もニューヨーク的な頽廃の魅力にまったく無関心ではなかった。ただ、固いだけの女ではなく心の奥底には官能への憧れがじっと息を殺してひそんでいる。  が、現実のニューヨークは薄汚れていた。彼女を取り巻くビジネスマンたちも、すばしこく抜け目のない利己主義者ばかりだ。口は達者だが、深味も余裕もなく心の薄さが見え見えになっている。  三洋銀行の本部で彼女を取り巻いていた男たち、いまにして、彼等の価値がわかった。直属の上司であった石倉克己はもちろん、長谷部敏正や松岡紀一郎、この三人は真知子が日本を離れる時、成田空港まで見送りに来てくれた。  いずれも部長で重役候補者たちであるから、当然のことかも知れないが、彼等は性格や方法の違いこそあれ、ビジネスマンとしても、中間管理職としても、抜きん出た存在であった。  女性では初めての|MOF《モフ》(大蔵省)担になれたのも石倉の英断のおかげだ。当時の忙しさと充実感がなつかしく思い出される。  たしかに、ニューヨークに赴任した当座は以前の出来事を思い出す心の余裕も時間もなかった。仕事にも生活にも言葉にも慣れるにつれて、自分の周辺の風物や人間関係の間にうそ寒い隙間風が吹き荒れているのに気付いたのだ。  ──どうやらわたしはニューヨークの風土や環境に順応出来ず、人間関係にも疲れ、ことごとに反発を感じ、苛立ちを覚える側に廻ってしまったらしい。  真知子はそう考えた。  少し淋しい気もする。かといって、いまさらニューヨークに迎合し、密着し、誉めたたえる側に廻りたいとは思わない。  そんな時、真知子はリチャード・ジョンソンと知り合った。  きっかけは昼食時のレストランである。混み合っているビジネスランチの時間帯だ。長い行列が出来ていて、トレイに好きな料理を取って移動し、キャッシャーで支払いをすませる。  彼女のトレイから落ちたスプーンをすぐ後ろに並んでいた彼が拾って、新しいのと取り替えてくれた。ほんのわずかな親切が話を交わすきっかけになった。  真知子が支払いをすませてテーブル席を見廻した時、偶然が幸いした。ちょうど窓際の席が二つ空いたのだ。  彼女は先に進み、背後を振り返った。すると、彼がついてきていて、脇に坐ってもよいかと許可を求めた。断わる理由はなかった。 「どうぞ」  と真知子は愛想よく応じた。  近頃、微笑を忘れているのに気付いて反省したところであった。そのせいかどうか、真知子のほほえみは魅力に富んでいた。  たぶん、ニューヨークの青年の眼には東洋のエキゾチズムまでが加わって、この魅力が倍加したに違いない。  彼はまぶしそうに彼女を見て遠慮がちに脇に坐った。話し方もいたって静かだ。  真知子はほっとした。がさつな言葉や早口が嫌いになっている。  この青年となら友達になれそうだ。そんな気がしてきた。      5  長谷部敏正は横浜支店へ向かった。  この支店とは何かと縁がある。かつて同期トップを走り続けた西巻良平が支店長をしていた。西巻が急死した後を宮田隆男が引き継いだ。  宮田支店長になってから、西巻の墓まいりも兼ねて何度か横浜に来た。  前頭取杉本富士雄の命令で実行された大病院への情実融資もあった。宮田が対応に困り抜いて、融資部長になったばかりの長谷部に相談を持ち掛けたのだ。  たしか、あの時、病院の事務長と名乗った人物からやくざっぽい口調で脅迫電話が掛かってきた。長谷部が横浜支店が提出した融資申込みを、すぐに決裁しなかったからだ。  そして、支店長といっしょに病院を訪問した結果、院長の説明で、杉本との癒着《ゆちやく》がはっきり見えた。  杉本からも圧力が掛かり、長谷部は決裁印を押さざるを得なくなった。乗用車が高速道路の横羽線《よこはねせん》を疾駆して、関内《かんない》近くの横浜公園出口に近付くにつれて、長谷部はその事件を思い出した。ごく自然に顔をしかめ、下唇を軽く噛んだ。車は出口の下り坂にさしかかり、スピードを緩めた。  支店長代行を命じられた副支店長の三田村好夫《みたむらよしお》が出迎えて、支店長室に案内する。 「その後の様子はどんな具合かね?」  と長谷部は尋ねた。 「はい、最初の二日間が大変でした。お客様からの問い合わせ、文句、お叱り、厭味、もう取引を止める等々の電話が殺到したようなわけです。もちろん、来店客も減り、預金もかなり解約されました。一時はどうなることかと心配しておったところ、昨日あたりから平常に戻りつつあります」  三田村は疲労の出た顔で報告する。 「大変だったね。みんなきみの肩に掛かってきただろう。ほんとうにごくろうさまでした」  と長谷部はねぎらった。 「いえ、本部の総務部の方々に全面的に助けて貰いまして、何とか切り抜けられたのではと思っております」  と三田村は答えた。 「現在もお二人に常駐して貰っておりまして、とくに変わったことはございません」  とつけ加える。 「事件の方は総務部担当だし、問題のある融資については融資部、不良債権の回収に関する問題は管理部の管轄なので、何もわたしが出てくることはないわけです」  と長谷部は説明した。 「しかし、今度の問題は銀行にとって由々しき事柄でして、また、他の支店で同じような事件が起こっては困ります。絶対に二度と起こしたくない。そこで総合企画部としては、この際、他の担当部とは別の見方で調査をした上で、問題点をはっきりさせておきたい。なるべくあなたをわずらわせないようにしますから、そちらは業務の方で頑張って下さい」  長谷部は来店の主旨をよくわかるように伝えた。  彼は自分が名古屋で支店長をしていた頃、役員や本部の部長の曖昧な説明にうんざりした。いまそれを思い出して、なるべく具体的な言葉を選んだ。ただ、立場の違いがあまりにも歴然としている。頭取の特命事項を明かすわけにはいかない。当然、限界があった。こうなってみると、思い当たることが多い。 「わかりました。何でもおっしゃって下さい。協力させて頂きます」  と支店長代行は答えた。  長谷部は融資課長を呼んで貰って、大口融資先の一覧表と、支店で管理しているこれも大口の不良債権化しつつある延滞先の一覧表を見せてもらった。  いちいち説明も受けた。その他、今度の事件に結びつくかも知れない事柄について、いくつか聞き出した。  支店長代行も融資課長も、総務部長をはじめ本部の役員や部課長クラスへの報告や説明を何度もしている。警察の事情聴取も受けていた。そのせいか、説明はなかなか上手であった。おそらく、何回も繰り返して同じようなことを話すはめになったのだ。質問をすると、答えが淀みなく返ってくる。すべて練習済みであるかのような印象さえ受けた。  したがって、一時間も経過しないうちに、いや、せいぜい三、四十分で長谷部は殆どすべて事情を呑み込んだ。横浜支店の融資面だけに限っていえば、ほぼ現況を掌握したとも言える。  しかし、考えてみるまでもなくここまでは関係者のすべてが知り得た事柄である。もちろん、総務部は総力をあげて取り組んだ。もっと時間を掛けてもいるし、支店側の言い分だけを聞いて満足せず、自分たちで裏付けを取ったであろう。  もっと突っ込んだに決まっている。さらに細かい事柄までいくつか知り得たに違いない。そして、これらの事情はすべて総務部長を通じて担当専務や頭取の耳にまで届いている筈である。  融資については融資部長が、不良債権については管理部長が、たぶん、一日か二日で、ほぼ同じチェックを終了させている。  銀行の組織はいったんことが起こると、実に迅速果敢に動く。本部には相当の機動力がある。  長谷部はそのへんの事情を知り抜いていた。立場上、総合企画部長の彼がまっ先に乗り込んではまずいという現実も理解している。それぞれの担当部が仕事を終えた後で行くのが原則だ。  そのため、横浜支店への訪問をわざと遅らせた。嵐は過ぎ去っていたが、新しい餌は残っていない。すでに関係者たちが知り尽くしている二番煎じ、三番煎じの情報を知り得たにすぎなかった。  その代わり、臨場感はある。本部にいて総務部から入手する情報にはプラスアルファがない。当然、総務部長は支店側に口留めをしている。  したがって、秘密ゾーンの中に入った事柄については、総務部へ行こうと支店に来ようと、どのみち知ることは出来ない。たとえ同じ銀行の役員や部長でも、担当部以外には絶対に漏らさないのが原則である。  こうして、セクショナリズムが育つわけだが、反面、秘密は保たれる。もちろん、銀行は前者の弊害より、後者の方をずっと大事にする。ある意味では、あらゆる部門での秘密保持こそ銀行の身上だからだ。この点については、スイス銀行の繁栄を思い起こして頂ければ、容易に理解出来よう。  当然のことながら、頭取の成瀬昌之は長谷部よりもはるかに多くの事情を知っている。そのくせ、そういう部分は伏せておいて、長谷部に調査を命じた。  何故か?  総務部その他から満足すべき情報を得ていないからだ。  目下のところ、すべて警察に任せるかたちになっている。銀行側はどんな情報も直ちに提供し、全面的な協力を惜しまないことになっていた。  しかし、それはあくまでもタテマエである。ホンネはもう少し別のところにあった。行き着く場所が、警察の捜査の結果がと言いかえてもよいが、とにかく、世間へ向かって露呈する部分が、銀行にはなはだしく不利になるようなことになってはまずい。それでは困るのだ。  すでに、かなりのイメージダウンになったが、現時点では銀行はあくまでも被害者である。げんに、支店長は重傷を負わされて入院している。  憎むべきはこのような暴力を行使した犯人であり、直接の実行犯の背後にひそむ黒幕たちである。  そこまでははっきりしていた。  が、捜査の進展によっては銀行側が不利になるような事実が出てこないとも限らなかった。  例えばどんなケースか?  正直に言えば、予想もつかない。それでは困る。  おそらく、成瀬は、やり手の頭取の常として歯がゆさを感じたのであろう。自分の方から真相にせまりたいと思ったのか?  たぶん、そうだ。  この場合、総務部長や総務部関係者は警察にマークされていた。彼等の動きは見張られていると言えよう。  その点、総合企画部長なら担当外である。支店へ行こうと何処へ行こうと、別の目的で動いていると思われる。しかも、仕事の性質上頭取と直結しているので、連絡も取りやすい。  長谷部はそう考えた。当たらずといえども遠からずであろう。  いずれにせよ、合併工作に加えて、厄介な問題を背負い込んでしまった。どうやらそれだけはたしかだ。      6  長谷部敏正は横浜支店の支店長室内にいた。この部屋の主は何者かに拳銃で撃たれ、重体になって入院中である。 「しばらく、ここで一人にして貰えないかな?」  と長谷部は頼んだ。 「わかりました」  支店長代行と融資課長は立ち上がった。 「あ、その一覧表、ちょっと貸して貰おう。少し考えさせて貰いたいんだ」  とつけ加える。  融資課長は目礼して、いったん手にした二種類の一覧表をテーブルの上に置いた。 「いま、コーヒーを運ばせます」  と三田村が移動しながら言った。 「有難う」  長谷部は軽く会釈する。 「失礼いたします」  二人は叩頭して、部屋を出て行った。  長谷部は一人になると、ゆっくりと室内を見廻した。  かつて自分がいた名古屋支店長の部屋より少し狭い。壁の絵も二号ほど小振りだ。ここには一年前までは宮田隆男が、その前は西巻良平がいて、自分の部屋として使用している。  西巻は過労死し、宮田は転職し、現支店長の北野久光は不幸な事件に遭遇して生死の境をさ迷っていた。となると、どうだろう。この支店長室は不吉な部屋ということになるのかも知れない。何故、不吉なのかまではわからないが、どうもそんな気がする。  名古屋の支店長室の壁の絵は見るからに温和で優美だった。丸い壺のような花瓶に生けられたバラの花の絵である。  それにくらべて、ここの壁は古いヨーロッパの城の絵が架けてある。重苦しい印象を受ける城壁は灰黒色で、一部は青黒い黴《かび》のような色彩になっている。  比較すれば、事態ははっきりする。どちらが名画なのかはいまは問うまい。正直なところ、長谷部にはよくわからない。たしかめる気もなかった。そんなことは、どちらでもよいという気がした。  とにかく印象が違う。一方は明るくて、温かく、見ていると心が和んできた。もう一つの方は暗くて、陰湿で、気のせいかも知れないが、何となく不吉な気配さえ漂ってくる。じっと見つめていると画面に吸い込まれてゆくような気さえする。  この絵を描いた画家の方が心が暗く屈折していて、描写力も力量も上なのかも知れない。まったくのアマチュアである長谷部でさえ、そんな感想を抱くのだから、たぶん、力のそなわった画家なのだろう。  ただ、その画家が幸せな生涯をおくった人かどうかはわからない。むしろ、逆ではなかろうかとさえ思えてくる。  おそらく、バラの花を描いた画家の方が幸せだったのではあるまいか?  長谷部は期せずして想像力を働かせた。その時、ノックの音がして、女子行員がコーヒーを運んできた。 「どうも、お手数を掛けます」  長谷部は丁寧に礼を言った。 「いいえ」  女子行員は本部の大物部長の腰の低さにやや途惑って会釈を返す。 「あなたは預金係ですか?」  と訊く。 「庶務を担当させて頂いております」  との答えが返ってきた。 「すると、支店長室に入ったお客さんに、コーヒーやお茶を運ぶのはあなたの役目ですか?」 「はい」 「ほかの人はお茶を出さないんですね」  と念を押す。 「絶対に出さないわけではありませんが、殆どわたくしが運びます」 「そうですか。ごくろうさまです」  と長谷部はまずねぎらった。 「仕事ですから」  と応じたものの、彼女は嬉しそうな顔をした。 「例の事件があった、一週間かあるいは二週間前にこの部屋に入って支店長と話し合っていたお客さんの中で、この一覧表に名前の出ている会社の社長さんがいたらちょっと教えて下さい」  と言いつつ、先程預かったばかりの二枚の一覧表を彼女に見せた。  彼女は受け取ってじっと見入った。真剣に見ている。 「どうでしょう。覚えがありませんか?」  と彼は声を掛けた。 「あります」  と彼女は答えた。 「この方と、こちらの社長さんです」  と言いながら、彼女は一枚目と二枚目の一覧表の中から、会社名を一つずつ指さした。つまり一枚目で一社、二枚目で一社、計二社の社長を指名したことになる。 「ほう」  と長谷部は感嘆の声をあげた。 「すばらしい。よく覚えてましたね」  と誉めた。 「何度もいらっしゃる方々は当然覚えております。でも、一度しかお見えにならない方、めったにいらっしゃらない方については、どうしても記憶が曖昧になりがちです」  少し頬を紅潮させて言う。 「なるほど、では、いま指名してくれた二社の社長さん方はどのケースに当たりますか?」  長谷部は少し手ごたえを感じながら、落ち着いて尋ねた。 「お二人共、めったにいらっしゃらない部類に入ります」 「ほう、すると珍しい人なんですね」 「はい、わたくしの記憶では、かなり前に一度と最近の一度を含めて、二度お茶を出しました」 「どのくらい前ですか?」 「確か、十か月位前のような気がいたします」  はっきりと答えた。 「十か月ね」  と長谷部は呟く。 「どちらの社長さんが十か月ですか?」  と確認する。 「お二人共、ほぼ同じ時期だったと思いますが」  との返事が返ってきた。 「わかりました。お引き留めして申し訳ありません。有田《ありた》さんですね」  と胸の名札を見ながら訊く。 「はい」 「ついでに、フルネームも教えておいて下さい」  と頼んだ。 「有田あずさと申します。よろしくお願いします」  彼女は丁寧におじぎをした。 「覚えやすいお名前ですね。こちらこそ、よろしく」  長谷部も頭を下げた。  有田あずさが立ち去ると、長谷部はすぐもう一度二枚の一覧表に眼を落とした。  大口融資先一覧表の中から、「太田川建設《おおたがわけんせつ》」、同じく大口の延滞先一覧表の上位に記されている「KSエコノミック・アニマルクラブ」の二社に注目する。いずれも、有田あずさが指し示した社名である。  長谷部は電話機を取り上げ、支店長代行の内線番号をプッシュする。 「お忙しいところわるいけどね。『太田川建設』と『KSエコノミック・アニマルクラブ』の関係書類をすべて持ってきて下さい」  と依頼した。 「えっ!」  と三田村はややたじろいだような声をあげた。 「あの、いますぐでしょうか?」  と訊き返す。 「すぐでは、何かまずいですか?」 「いえ、そんなことはありません。ただいま、なるべく急いで用意させます」  と三田村は答えた。 「頼みましたよ」  と応じて、受話器を置く。  長谷部は首をひねった。反応がおかしいのに気付いたからだ。  たしかに、支店長代行はたじろいだ。狼狽《ろうばい》したといってもよい。  何故か?  よくわからない。とはいえ、二つの会社名に関係がある。  何かまずいのかと訊くと、そんなことはないと否定している。しかし、その語調に多少の無理が感じられた。 「まあいい、いずれわかるだろう」  と長谷部はひとりごちた。  それからの彼はあまり感懐にひたってはいない。気持ちが現実的になっている。もはや、壁に架けられた古い城塞の絵など見向きもしなかった。  そのせいか、待ち時間が長いと感じた。通常、融資係のロッカーには各取引先毎に関係書類がきちんとファイルされた上で厳重に保管されている。しかも、アイウエオ順に並べてあるから簡単に見分けがつく。係員なら誰にでもすぐ取り出せるように整理されている。  支店長室まで運んでくるのに、二分とは掛からないだろう。それとも、他の支店にくらべて書類の整理がずさんなのか?  五分待っても、二つの会社のファイルは届かなかった。  長谷部は柱時計を見た。次いで左手首の腕時計も見る。どちらも同じだ。立ち上がろうとした時、ノックの音が聞こえて融資課長が入ってきた。 「遅くなりまして申し訳ありません」  と断わってファイルをテーブルの上に置いた。  見ると一つしかない。 「もう一件頼んだ筈だが」  と長谷部は注意した。 「あ、そうですか? これだけ持って行くように言われました」  融資課長は怪訝《けげん》な表情だ。 「じゃあ三田村くんにたしかめて、そっちのファイルも見せてくれたまえ」  と長谷部は命じた。 「承知しました」  一礼して出て行った。  ファイルを開くと、「太田川建設」と記されていた。ページを繰って読み始めた。とくに不審を抱くような個所はない。長谷部は支店長も融資部長も経験している。匂うところ、臭い記述があれば勘が働く。  そこへ電話が入った。 「もう一件の方ですが、三田村が直接そちらへお持ちすると言っております」  融資課長の声だ。 「わかった。ごくろうさま」  と答えた。 「太田川建設」の関係書類を読み終わってさらに五分過ぎたが、三田村はあらわれない。おかしいという思いが強まった。  長谷部は再び時計に目をやった。      7  焼津《やいづ》グランドホテルの海の見える特別室で、四人の男たちが遅い昼食を取っている。  二人は地元静岡の人だが、別の二人は東京からやってきた。  先程から話が躍《はず》んでおり、愉しいランチタイムになっていた。もっとも、年配の二人が盛んに話し込み、若い二人はもっぱら聞き役にまわっている。  地元の二人は、太平銀行のオーナートップ大須賀勇造と、同じく若手の常務取締役として活躍中の矢島隆也《やじまたかや》だ。  東京から来たのは富桑銀行頭取の原沢一世と、やはり取締役になったばかりの高川明夫である。  大須賀が一番年長だが原沢とは二つ位しか違わない。矢島と高川はほぼ同年輩といってよかった。  したがって、この二人ずつの組み合わせは、年齢、お互いの立場や境遇、能力、手中にしている権力など、くらべてみると驚くほど似通っていた。  それだけに、うまくいけばぴったり合うし、食い違ったら、ことごとに反目し合うことになりかねない。  実は、そういう危険をはらんでいたが、双方共にそんなことは殆ど気にせず、あっさり会って昼食を共にする約束をした。  その約束が守られ、四人は同じテーブルについた。特別室が用意されたのは、他人の眼に触れたくないからだ。  東京都内のホテルや料亭ならいざ知らず、原沢がわざわざ静岡の焼津あたりまで足を伸ばしたとなると、理由を穿鑿《せんさく》したくなってくる。見方によっては何か勘ぐられかねない。  大須賀も多少の危惧を抱いたからこそ、静岡駅前をさけて焼津に決めた。もちろん、ここの方が風情もあるし、空気も景色も良い。眼下に海の見える光景は、むしろ抜群といってもよいだろう。  少しばかり注意をすれば、あまり目立たないし、秘密も保てる。  例えば双方がロビーで出会って大声で挨拶し、連れ立って特別室へ向かう。そういう莫迦な真似はしない。五分ほど時間をずらして別々に到着し、部屋に入って初めて顔を合わせる。出て行く時もほぼ同じ方法を取る。  こうすれば、まず完璧だ。二人ずつのペア四人が出会って食事を共にしたかどうかは、給仕をした白服のボーイにしかわからない。むろん、当のボーイに口留めするような真似はしなかった。それこそ余計なことだ。いたずらに注意を喚起するだけである。  原沢と大須賀は以前から顔見知りであった。財界や銀行協会主催のパーティーで何度か会っている。が、特別に親しい間柄ではない。せいぜい、挨拶する程度である。  えてして、こういうケースではお互いに好意も悪意も持っていない。ごく普通といえる。ただ、同じ金融界にいるためそれぞれの評判は聞いていた。  その評判に対して好意を抱くか悪意を持つか、この点になるとよくわからない。  原沢も大須賀も、タイプは違うがしたたかな人物だ。好悪の情を顔や態度に出すことはまずなかった。  高川と矢島はまったくの初対面である。したがって、どんな感情が生まれるかは今後の問題だ。ただ、同世代で、やり手であり、トップに気に入られているという共通項があった。それがプラスに働くのか、マイナスになるのかは、やはりわからない。  海を見下ろす特別室で四人が二人ずつ並んで向かい合っている。東京から来た二人の方が海がよく見える良い位置にいた。  これも特注のフランス料理の皿が次々と出てきた。昼食にしては豪華すぎるきらいがある。 「なかなか良い味ですね」  と原沢が感心したように言う。 「静岡にもこのくらいの味があると言いたくて、ここにご案内したようなわけです。実はシェフがパリで修業してきた男でしてね」  と大須賀が応じた。 「それはすごい。さすがですなあ」  感じ入ったように言う。 「なにしろ漁港が近い。魚が新鮮で美味しいんですよ」 「そうでしたな。有名な焼津の港だ」  大須賀と原沢は大きく頷き合った。  すべり出しは好調である。ロケーションも良く、料理もすばらしいとなると、ごく自然に心がなごむ。東京からやってきた甲斐があったと言えよう。  原沢と高川のほんとうの目的はもう少し別のところにある。が、両者共そ知らぬ顔だ。それをおくびにも出すことはない。  景色の良さと食事のおいしさにのみ関心が集中しているかのようにふるまっていた。がしばらくすると、それだけでは間がもたないのがはっきりしてきた。  当然のように、話題は経済状勢に移り、金融問題へと波及する。不況の見通しと銀行の不良債権問題についても語られたが、いずれも専門家であり、他行との係わりもあるのであまり突っ込まない。当然、さし障りも出てくる。とても、本音では突っ込めなかった。そのため、どうしても通りいっぺんになってしまう。 「御行《おんこう》さんは地の利を生かした堅実経営で、着実に収益を伸ばしておられる。うらやましいですな」  原沢がそう言ったのが突破口になった。 「いや、それほどでもありません。バブルの被害が比較的少なかったのはたしかです。おかげで助かっています。しかし、不況の長期化で地場産業の体質がかなり弱ってきてましてね。これからはいままでのようなわけにはいかんでしょう」  と大須賀は答えた。 「それにくらべて、御行さんのような巨大銀行になると、償却も思いきって出来る。少々の不良債権は苦にならんでしょうな」  とつけ加える。 「そんなことはありません。わたし共の本体はまあまあですが、傘下のノンバンクが惨憺《さんたん》たる状況になっていまして、もちろん関係者たちが努力はしておりますが、急激な改善はとても無理です。正直なところ、爆弾を抱えているような心境でしてね」  と苦笑する。 「なるほど、子会社や関連先が多いのも考えものですな」 「まったくです。小廻りが利きません。新しい方針を打ち出しても浸透するまでに時間が掛かります」  原沢は諦め顔で言う。 「そこへゆくとうちあたりの規模なら何とかなります。これ以上大きくなると駄目かも知れませんが、目下のところはわたしの指令が行き届いているようです」  と言いつつ、すぐ脇にいる矢島隆也の方を見た。 「どうだね。浸透しておるだろう」  と念を押す。 「はい、しております」  矢島は直ちに答えた。 「それは指導力の問題でしょう。御行さんもいまや大銀行ですよ。やはり大須賀頭取の経営姿勢が強靭ですっきりしているからでしょう」  と原沢は誉めた。 「いや、いや、それほどでもありません」  口では否定したが、表情は嬉しそうだ。  ひょっとすると、大須賀勇造はおだてに弱いのかも知れないと高川は考えた。  権力者は多くの美点と欠点を持っている。そして、たいていの場合、美点についてはよく心得ていて大いに吹聴《ふいちよう》する。しかし、欠点には眼を閉じ、気付かないか、気付いても気付かぬふりをして押し通す。絶対になおしたり、反省したりしない。  これは大企業であれ、中小企業であれ、大きな団体、小さなサークルを問わず、およそ「ワンマン」と呼ばれている人たちに共通する事柄である。  それはさておき、四人の会食は順調に進行していた。      8  急にニューヨーク出張を命じられた石倉克己はいささか途惑いを覚えた。  外国へ出るのは別に苦痛ではない。彼は英語には自信があり、アメリカやイギリス出張なら、殆ど何の不便も不自由も感じなかった。  時折りの外国行き、とくに英語圏内への出張は語学の練習にもなるし、気分転換になってよいくらいだと思う。  ところが、出張の目的を聞いて、いささかがっかりした。 「星野田機械」のアメリカ子会社の会計監査を命じられたのだ。しかも、不意に訪問して抜き打ちにやれとの社長命令である。  この会社は現地法人になっているが、早く言えばアメリカ支社であった。  主にアメリカ及び中南米向けの製品販売、マーケティング、情報収集等を目的に設立された。実質的には支社であるが商法上は独立した会社であり、現に社長もいる。  かつて本社の常務取締役であった人物が社長をしており、その下に日本人スタッフも十名いた。彼等はいずれも本社からの出向者で、二階級ずつ特進してニューヨークへ行った。  本当は支社なのに、何となく独立した会社であるかのような気風で仕事をしていると伝えられていた。現在は現地採用の社員三十五名を加え、総人員四十六名で稼動中であった。  出張を申し渡されてから数日後、出発の前日になって石倉は社長に呼ばれた。  社長室に入ると、ソファーを指さす。 「まあ、あっちへ坐ってくれ」  と言って立ち上がった。  飯沼進は恰幅《かつぷく》の良い人物である。のっそりと近付いてくる。壁の時計を見た。午後四時五十分であった。 「まもなく五時だな」  と呟いて、社長の机の方へ引き返す。 「少し早いが、まあいいだろう」  と言いつつ、机上の電話機を取り上げた。 「ウイスキーの水割りセットを頼むよ。オールドパアスーペリアがいいな。二人分だ。つまみ物も忘れんように」  と秘書課長に命じた。 「明日、出発だったな。取りあえず乾杯しよう」  と提案してソファーにどさりと坐った。 「六時に出るからね。ちょうど一時間はある。きみのために空けておいた。それに」  と杯を傾けるしぐさをする。 「食前酒にちょうどいい」  ウィンクして見せた。  どうもこのへんが同じトップでも銀行の頭取とは大いに違う。飯沼は二人だけになると先輩風を吹かせて親し気にしてくれる。そのせいもあったが、けっしてそれだけではなかった。銀行には何故か、常に、あまり人間的ではないかなり冷たい慇懃無礼《いんぎんぶれい》さが付きまとっている。  メーカーはもう少し大ざっぱで、ざっくばらんだ。流通や小売業になるとさらに変わるような気がする。いずれにせよ、銀行よりは血が通っているのではなかろうか?  ノックの音がした。女性秘書が顔を出す。オールドパアスーペリアのボトルと氷や水など、水割りを作れる一式の小道具が白いトレイに乗せられて運ばれてきた。 「待ってたよ。さあ、やろう」  飯沼は身を乗り出した。 「あの、水割りをお作りしましょうか?」  秘書が訊く。 「けっこうです」  と飯沼は断わった。 「そのくらい自分でやるさ。なあに、ウイスキーの手加減があるんでね」  とつけ加える。  女性秘書は含み笑いを浮かべながら一礼して出て行く。 「ごくろうさん」  その後ろ姿に向かって声を張り上げた。 「ぼくはダブルにするが、きみも同じでいいだろう」  飯沼は器用な手付きで水割りを二杯作って、一つを石倉の前に置いた。 「さあ、乾杯だ」  飯沼の声に合わせて、二人は杯をかちりと合わせた。 「乾杯、遠慮なく頂きます」  と石倉も応じた。 「当たり前だ。ぼくの前に出たら遠慮なんかしちゃいかん」  ときめつける。 「恐れ入ります」 「それがいけない。どうも銀行員のくせが抜けんな。まあ、無理もなかろう。五十歳まで『銀行』の紳士集団の中に入り込んでいたんだ。しかも、その中でひときわ抜きん出ておった」  飯沼は満足そうに言う。そういう優秀な人材をおれは引き抜いたんだというニュアンスが言外にあった。  石倉は照れ笑いを浮かべた。 「きみの成功を祈って」  飯沼はまた杯をあげた。  眼を細めて二口三口飲んだかと思うと、いきなり、ピーナツを五、六粒一度に口の中に放り込んで噛み砕く。  成功と言われて頷いたものの、石倉は怪訝な顔をした。 「あ、そうか、今度の出張の表向きの目的は現地法人の会計監査だ。それも不意打ちのな。しかし、これにはウラがある。現在の社長の町井正勝《まちいまさかつ》はな、同期生だったが同じ常務の時にアメリカへ出向した。十年前だよ。なかなかずるい男で悪知恵が働く。金にも汚ない。それで本社を追われたんだが、アメリカでしたいほうだい、勝手な真似をしておる。ところがいくら監査をしてもシッポを出さん。わたしの眼の黒いうちに何とかして町井の悪事を見付けて切り捨てたい。そうしないと禍根《かこん》を後に残す」  飯沼は熱っぽい口調でまくしたてた。 「………」  石倉は黙って聞き役にまわった。 「通常の監査の外に、いままで何度も不意打ちをくわせた。ところがいつもうまく隠されてしまう。近頃わかったのは、こっちが出した監査役を接待攻勢で味方に引き入れている。ご馳走だけではない。ドルも握らせる。女も抱かせる。これじゃあ、何人派遣しても同じことだ」  飯沼は下唇を噛んだ。 「手強い相手ですね」  石倉は感想を漏らした。 「その通り、したたかな奴だ。いままでは、奴は会計学に明るいので、公認会計士の免状を持った人物を出した。ところが、彼等は実務を知らん。それに世間の荒波に揉《も》まれていないので誘惑に弱い。これではお手上げだよ」 「すると、わたしの場合は」 「そう、きみは実務に強い。その上、世の中で苦労もした。なにもすれっからしとは言わないが、似たようなものだ。きみなら町井とほぼ互角に闘えるだろう。少し誉めすぎかな?」  飯沼は首をかしげた。 「それで誉めて下さってるんですか?」  石倉は顔をしかめた。 「もちろんだよ。ただ、きみは町井よりずっと若い。相手は当然なめて掛かる。そこがこっちのつけ目だ」  と主張する。 「むずかしいですね。わたしに太刀打ち出来るでしょうか?」 「きみになら出来る。保証するよ」  飯沼は励ますように言って、石倉の杯も取り、二杯目の水割りを作る。 「少し濃くしたよ。なに、気付け薬だ」  と嘯《うそぶ》く。  アメリカに十年も居るしたたか者に、ほんの一週間の出張で立ち向かうのは無理だ。石倉は自分の考えを述べた。期待されるのはよいが負担になるだけである。 「そうかも知れん。すべてを一気に解決するわけにはいかないだろう。今度の出張ではきっかけを掴んでくれるだけでもいいよ」  飯沼の口調は懇願に変わった。  そうなると、石倉としても引き受けざるを得ない。なにしろ、飯沼は良き先輩でもあり、恩人でもある。      9  杉本富士雄と勝田忠は一泊の予定で伊東《いとう》温泉に来た。  海際にある「山平《やまへい》旅館」に予約を入れた。団体客ばかり多い大旅館ではなく、かといって風呂場の狭い小さな旅館でもない。中程度の風情のある旅館で、風呂も料理も良く、サービスもゆき届いている。  以前、頭取時代の杉本が泊まったことがあって、よく覚えていた。 「良い所を知っておられますなあ」  池に面した部屋に案内されて、勝田は感心している。 「そうかね。気に入って貰えてよかった」  杉本も満足そうだ。  二人は揃って大風呂に行き、仲良く並んであまりくせのない温泉に漬かった。  やがて、杉本は濡れた手拭を頭の上に載せた。すると、すかさず勝田もこれにならって同じようにした。真似たともいえる。  こうしてみると、この二人には名コンビを組める資質があったのかも知れない。  かつては頭取と副頭取で、かなりの期間、三洋銀行に君臨した。金融界では彼等二人のコンビを知らぬ者はなかった。呼吸も合っていた。となると、やはり名コンビであったと認めざるを得ないであろう。  二人は事実上引退に追いやられた。すでに述べたように富桑銀行との合併の失敗が直接の原因である。  杉本はかろうじて顧問になっているが、出勤の義務はない。かりに出勤しても机もなかった。「顧問室」があったが、そこには応接セットが置かれているだけである。いつも無人の空き部屋で、銀行側としてはこれもなくしたい意向だ。  要するに、出て行けば厭がられ、迷惑がられる存在であった。  勝田にはその顧問の地位さえ与えられておらず、引責辞任の気配さえ感じられた。  幸か不幸か、二人共、健康状態が良く、いたって元気である。こうなると、却って始末がわるい。  しばらくすると、口惜しさもつのってくるし、忿懣も覚える。家に居ても退屈だ。何もすることがない。躰もむずむずしてくる。 「よし、ひとつ挑戦してやろう」  そんな気概さえ生じてきた。  成瀬昌之を中心にした現在の経営陣にとっては厄介なことだ。  前経営者の口出しでさえうっとうしいのに、杉本、勝田のコンビは成瀬を蹴落として、自分たちの復活を図ろうとしていた。  だが、正確を期すと、この時点で、成瀬等はまだ杉本や勝田の狙いを知らない。  二人はすでに動き出していて、福岡支店長の松岡紀一郎に働き掛けている。これも含めて、こんな事態を想像さえしていなかった。  杉本も勝田もとうに引退した。もう銀行とは一切無関係だ。盆栽でもいじって、あるいはゲートボールにでも熱中して、老後を愉しんでいるであろう。  そう考えたかも知れない。  が、現実は違う。  二人組は活動を開始していたし、一方の成瀬は杉本や勝田のことなど、問題にもせず、まったく忘れていた。  思えば、面白い対照と言えよう。「事実は小説より奇なり」とはよくも言ったものだ。  ともあれ、二人が伊東温泉に来て、杉本お気に入りの「山平旅館」に泊まるのは単なる行楽ではない。今後の挑戦にそなえての休養であり、彼等の言葉を借りれば「英気」を養うためである。 「なにしろ、若い者のような頑張りがきかない。がむしゃらに突っ走るわけにはいかん。時折りはのんびりと温泉にでも入って気分転換を図る。そうすれば、まだまだ連中に負けはせんよ」  と杉本は言った。  なにしろ、時間は十分ある。善は急げとばかり話がまとまって、二人は東京駅で待ち合わせ、下田行きの踊り子号に乗ったのだ。キップは勝田が買った。以前のくせが抜けず、何処へ行くにもグリーン車である。  たしかに、二人共、温泉に漬かっている間はのんびりしていた。浴室の中では声が大きく響く。とくに老人の声は大きい。他の浴客の手前もあってめったなことは言えない。柔らかい湯ざわりを愉しむほかはなかった。  部屋に引き上げて、庭に面した廊下にあるソファーに坐る。 「ああ、いいお湯だった」  杉本は手拭を干す。 「けっこうでした。温泉に来たのは久しぶりです」  勝田も嬉しそうに言う。 「これからはちょくちょく来よう。お互いに骨休めは必要だからね」  杉本は上機嫌だ。 「はい、お供させて頂きます」  と勝田も言い添えた。  夕食が出るまでにはまだ少し時間がある。ロビー脇の喫茶コーナーに電話を掛けると、部屋までコーヒーを運んでくれるという。  コーヒーが来ると、話題が躍《はず》んだ。 「福岡支店長の松岡くんだが、どうかね? こっちに付くかな?」  杉本は首をひねった。 「もう少し時間が掛かるかも知れませんが、結局、こちらへ付くと思います」  と勝田は答えた。 「そうかね?」  杉本は疑わしそうだ。 「成瀬くんに冷や飯を食わされていますからね。本部の業務推進部長から福岡支店長というのは左遷とまで言えるかどうか微妙なところです」 「いや、明らかに左遷だよ」  杉本は断定する。 「普通はそう思います。あの人事は成瀬くんが弱気になって遠慮した結果ですが、あとのフォローをしておりません。忙しいせいもありますが、いまは松岡くんを見捨てたかたちになっていますから、彼としてはつらいですよ」  と勝田は主張する。 「つらいどころじゃないだろう。恨んでもおるし、苛立ってもいる」 「たしかに」 「取締役になれるかどうかぎりぎりのところだからね」 「はい」 「わたしの考えでは、あの同期は優秀な人材が揃っておったから、二人位は役員にしてもよいと思っていた」  と杉本は述懐する。 「通常ですと、一人ですが」  勝田は口を挟んだ。 「例外があったっていいだろう」 「もちろんです」 「西巻くんが亡くならなければ、三人出したっていいと思っていたんだ」  と言い張る。 「なるほど」  勝田は調子を合わせた。 「長谷部くんは順調にいった。生真面目で気骨があるので、あの男はわたしも推《お》した。ただ、仕事になると石倉くんの方が使えるかも知れん。むろん、仕事にもよるがね。とにかく、その石倉くんも去った。宮田くんも大学教授になった。となれば、松岡くんを昇格させてもよい筈だ」 「わたしもそう思います」  勝田は賛同した。 「おそらく、松岡くん自身もそう思っているんじゃないか?」  杉本は顎をしゃくる。 「でしょうね」 「普通、支店長の任期は二、三年だ。四、五年になるケースもあるが、これは例外だからね。同じ例外扱いで一年で引き上げてやってもいい。もちろん、役員昇格だが出来ないわけではない」  と杉本は言った。 「それがさっぱり音沙汰なしで、放りっぱなしですから、松岡くんとしては忿懣がたまりますよ」 「そうか」  杉本は大きく頷いた。 「すると、いずれこっちになびくか?」 「たぶん」  勝田も頷き返す。 「しかし、早くなびかせるには何かいる。少し大きな餌を付けてやってはどうかな。それになびかざるを得なくなるような方法を考えなければいかん」  杉本は結論を出した。      10  松岡紀一郎はかなりくさっていた。  杉本と勝田が想像した通りであった。同じ支店長でも、東京都内の有力大型店舗の支店長であれば事情が違う。  本部の役員や部課長クラスとの接触も密になる。頭取に呼ばれればすぐに駆けつけられるし、場合によっては特命の仕事を貰うことさえ出来よう。  福岡支店も大店舗ではあるが、それは九州一帯のブロック長店舗であり、博多という地の利を占めているからにほかならない。  松岡のように本部指向の強い人物には、正直なところ地方支店の支店長は退屈である。取締役を目指すには不利なのもたしかだ。  銀行に限らず、どんな会社や団体でも、人事には情実が付きものである。見方を変えれば、これは不公平につながる。  しかし、現実にはこの種の不公平がまかり通っていた。どうしても身近な者、しばしば顔を合わせる人の方が有利になる。外国の支店に長く勤めた人が不利になってしまうのは、こういう事情を端的にあらわしている。  昇格どころか、帰国すると席がないケースもしばしばあった。長い外国暮らしの間にせっかくの人脈が枯渇してしまったからだ。外国人の親友が出来たところで何の役にも立たない。  松岡は何も外国にいるわけではなかった。ただ、本社からいささか遠い所に身を置いている。彼の人脈の大半は東京周辺に集中していた。  電話があるから話は出来る。そのうちぜひお会いしましょうとお互いに口に出す。だが、そのうちがなかなか実現しない。特別な用件が生じれば別であるが、そうでなければ疎遠になりがちだ。  人は用がなくても会う。何でもない会合や会話の合間に情報が飛び交い、親しみが生じる。むしろ用件が介在しない時の方が現実がよく見える。  松岡の場合は単身赴任のせいもあって生活が不安定だ。どうしても外食が多く、食生活のバランスが崩れる。つい酒を飲み過ぎた。支店長という役職柄、地元の人たちとの付き合いも増え、冠婚葬祭も次々と持ち込まれてきた。副支店長や次長を出すこともあったが、有力者や大口取引先の場合は彼が出ないと格好がつかなくなる。  他行との釣り合いもあり、地元銀行が常務クラスの役員を出しているのに、三洋銀行は副支店長というわけにはいかない。おかげでけっこう忙しく、スケジュールに追い廻される。  不良債権を減らし、業績も上げなければならなかった。彼の場合は前業務推進部長であったからなおさらだ。それにここで業績を上げられないようなら、取締役のポストなど遠のいてしまう。  さいわい、不良債権も他店ほど多くはなく、減少しつつある。業績も松岡が赴任してから目に見えて上がってきた。東京から大物支店長が来たとの情報が地元に先に伝わり、取引先も行員たちも何となく緊張していた。  松岡は渡りに舟と考えた。これ幸いとばかりびしびしやった。もともと仕事には厳しい方だ。副支店長以下の部下行員たちにハッパを掛け続けた。その効果がはっきりとあらわれてきた。 「東京や大阪や横浜、名古屋の大店舗に負けるな。やれば出来る。福岡支店の伸び率を全店一にしよう」  と彼は朝礼で言い、毎朝、若手の男子行員たち十数名に大声で唱和させた。 「声が小さい! もう一度やりなおし」  何度も言わせ、日によって女子行員全員に言わせたりする。 「鬼の松岡」  と自ら名乗った。 「ただし、この鬼は心が暖かい。時には涙も流します」  とつけ加えて、皆を笑わせた。  こんなふうに、業績が順調なだけに、福岡支店長の働きぶりに注目しない成瀬に苛立ちを覚えた。苛立ちは腹立ちに変わりつつあり、先日の東京出張の頭取のあしらいには、自分でもあっと思うほどのどす黒い怒りを感じた。  その夜、松岡はカラオケバーにいた。この種の店は博多にはたくさんある。さして特徴がなく珍しくもない店だ。中洲のはずれにあって客の入りはあまりよくなかった。  三十代半ばのママが若い女の子を三人使ってやっている。びっしりつめれば二十五、六人は入れたが、客はたいてい十人前後だ。  夕方の六時に店を開けて、深夜の一時まで営業していたが、その間にただの一人もお客の来ない日が月に一度か二度はあるという。 「すると、少なくとも年に十二回か、あるいはそれ以上は開店休業ってわけ?」  と松岡はママにたしかめた。 「そうなの、支店長さん同情して」  ママは少し身をよじった。小柄で肉感的な女である。年齢より若く見える。二十代後半でも通るだろう。  最初は取引先の中小企業の社長に連れてこられた。地味で目立たない店なので大勢の人といっしょの時は敬遠して、もっと派手な店へ行く。  が、一人の時にそっと寄る。カウンターがあるのでちょうどよい。バーテンは年配の老人で元はタクシーの運転手をしていたという。わけ知りで話し好きで丁重だ。松岡は気に入っている。  気に入るといえばママもよかった。目鼻だちのはっきりした顔で、瞳が大きいせいか、顔や躰つきからそこはかとないエキゾチズムが漂ってくる。 「先祖にオランダ人の血でも入っているんだろう」  と彼はからかった。 「そうかも知れないわ。わたし出身は長崎の平戸《ひらど》よ」  と彼女は答えた。 「ある人にスペインの血が入っているんじゃないかって言われたわ」  と言いつのる。 「ますます怪しいね。ある人というのはママのいい男《ひと》かい」  と訊く。 「違うわよ。そんなんじゃない」  と否定する。 「むきになるとこが、どうもおかしい」  と松岡はこだわった。 「違います」  彼女は言い張った。 「まあいい、そのうちわかるさ」  といなす。 「いやな人、わかりませんたら」  ママはこだわった。 「おや」  と思って、松岡は関心を持つようになり、それが一人で通うきっかけになった。  さいわい、彼をこの店に連れてきた社長はあまりこない。いきおい、松岡が常連になっている。  ボトルを入れてあったが、なにしろ勘定が安い。銀座のクラブやバーのことを思えば五分の一から八分の一というところだろう。銀座でも高級店であれば十分の一以下になる。松岡はここの勘定は銀行の交際費では落とさず、自腹で払った。  石倉が六本木のカラオケバーの「ぐうたら神宮」に、ひっそりと一人で通い、勘定も自腹で払っていたのとよく似ている。  松岡は苦笑した。  石倉克己が一人で出掛け、誰も知った顔の居ないカラオケバーで、マイクを握り、歌を歌っていた。  ──あの男にも人に言えぬ悩みがあったのか? 日々、ストレスがたまったのか?  とひとりごちた。  いずれにせよ、石倉が「ぐうたら神宮」に来て、そういう悩みを発散させていたのはたしかだ。  それを知った時には、何となく小莫迦にして鼻先でせせら笑ったのを覚えている。  だが、松岡にも同じような避難所が出来た。彼の通う店の名は「茉理花《まりか》」である。      11  その夜、松岡は宴席を二つ掛け持ちした。二度目の席では二次会にも付き合わされ、どうにか抜け出したのが、夜の十一時三十分であった。  普通なら、これでまっすぐに帰る。いつもならそうした。シャワーを浴びて、寝酒を一杯ひっかける。ベッドに入るのは十二時半ぐらいになるだろう。  ところが、なんとなくもの足りない。すっきりしないのだ。  夜の中洲をうろつきながら、公衆電話に取り付く。 「茉理花」に電話を入れた。 「まあ、支店長さん、何処にいらっしゃるのよ」  声に恨みがこもっている。 「近くだよ。そうだね、ゆっくり歩いて六、七分てところかな」  と松岡は答えた。 「すぐいらして、十五分以内にいらしてよ。お願い」  と懇願された。 「どうしたんだ」  怪訝な声を出す。 「例のワースト記録が出そうなのよ」  と口走る。 「ワーストなんだって?」 「あら、酔ってらっしゃるの。憎らしい。うちへ来ないでよそで飲んで」  と詰《なじ》る。 「おい、おい」  松岡は少し呆れた。どうも様子がおかしい。ママの気がたっている。 「今夜が、あの縁起のわるい日、お客さんが一人も来ない日になりそうなの」  と訴えた。 「じゃあ、これから行くよ。わるい記録を追い払ってやる」  と言い放った。 「恩にきるわ。早くしてよ。十二時前に来て下さらなけれは今日のうちに入りませんからね」 「わかった」  と言って、受話器を戻し、左手をさし上げて腕時計を見た。  午後十一時四十五分になろうとしていた。 「こりゃあいかん。急ごう」  と口に出して、松岡は歩き始めた。  自分では早足になったつもりだが、いくらか躰がふらつく。酔いが廻ってきたのだ。そういえば今夜は、ビール、酒、ウイスキーに泡盛まで飲んでいる。  だが、気分は良かった。  右手にお土産に貰った寿司折りをさげていた。二人前はある。 「よし、これを土産にしよう」  と呟いた。  松岡が急いで、いや、急いだつもりで「茉理花」まで来た時は十一時五十七分、実に十二時三分前であった。  ママはドアを開けて待っていた。 「よかった。間に合ったわ」  ほっとした顔をしている。 「今夜、最初にして最後の客だ。大事にしてくれよ」  と言いつつ、松岡はよろけながら先に店内へ入って行く。  ママは後ろ手でドアを閉めた。  店内は静まり返っていた。誰もいない。 「なんだ。どうしたんだ」  と松岡は言った。 「バーテンは? 女の子たちはどうしたんだね?」  と周囲を見廻した。 「十一時半で全員に帰って貰ったのよ」  と教えた。 「ほう、どうしてだね」  と訊く。 「だって、ずうっとお客さんが一人も来ないんだもの。いて貰ってもすることもないし、退屈でしょうが」 「なるほど」 「第一、みじめでしょ」  と下唇を噛んだ。 「そう、がっかりしなさんな」  と松岡は慰めた。 「照る日も曇る日も、みぞれ交じりの雨の日も、どしゃ降りもある。人生と同じで、浮き沈みは世の常だ」  そう言っているうちに、まるでそれが自分のことのように思えてきた。 「いくら頑張っても認めては貰えない。それならと、わが身を殺して、恥を忍んでだな、なんとか上手に立ち廻ってみる。それにも限界がある。あいつはずるい男だ、せこい奴だと皆に思われてな。それでもここでくじけちゃおしまいだからね。わが身に鞭打って、頑張り抜いてきたんだ。もちろん、業績は上がる。この不況の時代に数字が急カーブで上がっているんだよ。だが、認めてはくれん。それが『銀行』だ。それが世の中なんだよ。侘しい限りじゃないか?」  訴えるように言っているうちに涙が出てきた。  背後から横へ廻ったママは松岡の頬を伝う透明な細い糸のようなものを見た。  彼女は脇から松岡に抱きついた。 「わかったわ!」  耳許に唇を押し付けて言う。 「松岡さん、あなたって、ほんとうは優しい人なのね」  と囁《ささや》いた。 「おれが優しい。そんなことはない。自分勝手な男さ」  と彼は言い返した。  が、彼女の躰の暖か味が伝わってくるとほっとする。心が和んできた。 「第一印象はよくなかったわ」  と彼女はまた囁く。 「そうだろうよ」 「何だか皮肉っぽくて、自信家で、わたしたちを小莫迦にしている厭な人。そう思ったわ。ほんとうよ」  と続ける。 「正しい見方だ」  と彼は認めた。 「でも、少しずつわかってきた。ほんとうはそうじゃないと思えてきたの」  と言いつのる。 「ふん」  と松岡は鼻を鳴らした。 「わるぶってもダメよ」  と彼女はきめつけた。 「今夜、よくわかったわ。あなたって優しくて、傷つきやすい方なの」  そう結論を下した。 「買いかぶるなよ」 「もちろん、心配はご無用よ。裸のあなたを見ているわ」  と教えた。 「ふうん、裸のぼくをね」 「そうなの、裸のあなたよ」  と伝えるや、彼女は松岡の唇を求めた。  ぐいと口を近付けてきて紅くぼってりとした唇を押し当ててくる。松岡も応じた。  彼女はしがみついてきた。離すまいとするかのようにしっかりと両の腕に力をこめている。  二人は無人の店内の、やや薄暗い入口あたりで唇を合わせたまま抱擁していた。  長い間、じっと抱き合ったまま動かない。どちらも動こうとしなかった。  かなりたって、唇だけが離れた。 「いや、離れたくない」  と彼女はだだをこねる。 「ぼくも同じだ」  と松岡は伝えた。 「ほんとう?」  拗《す》ねたように言う。 「ほんとうだとも」  と肯定する。 「嬉しいわ」  彼女は喘いだ。 「ねえ、今夜は別々の所へ帰るのはやめましょう」  と提案した。 「後悔しないかい」 「もちろんよ。あなたは?」  とたしかめる。 「きみと同じだ」  と松岡は答えた。 「じゃあ、すぐお店を閉めますから」 「手伝おうか」  二人はやっと長い抱擁を解いた。 「いいえ、大丈夫。馴れているから、そこに坐っていて下さいな」  と彼女はカウンターの椅子席を指さす。  いつも彼が坐る席だ。  松岡は言われた通りに、椅子を引いて坐った。が、どうも落ち着かない。  すぐに立ち上がった。 「何か手伝おう」  と申し出る。 「じゃあお願いするわ。カラオケと空調のスイッチを切って下さい。トイレの電気も消して」  彼女はカウンターの中から言い返した。 「わかった」  と答えて彼は動いた。  先程までの酔いがどこかへ行ってしまった。すっかり正気に戻っている。  それに代わるかのように愉しさがこみあげてきた。これは正常な気持ちだと改めて思った。けっして酒の上のことではない。  しかし、すべて酒の上の行為のせいにしてしまった方がよい。その方が面倒なことにならないだろうとの気持ちも生じてきた。 「ねえ、どうなさる?」  と彼女は訊いた。 「ホテルへ行くと目立つと思うわ」  と意見を言う。 「そうだな」  彼は決めかねている。 「あなたのマンションか、わたしのマンションのお部屋、どっちかにしましょう」  と提案する。  ──もし、自分のマンションにした場合、誰かに見られる可能性がある。それに単身赴任の横浜支店長のような目に遭ったらどうなるだろう。選りによって、女を連れ込んだ夜に拳銃で撃たれる。恥の上塗りだ。なに、今夜に限ってそんなことはあるまい。第一狙撃されるほど人に恨まれていない。 「きみのマンションにしよう」  と彼は決めた。 「でも、迷惑じゃないかね?」  と気遣う。 「もちろん、平気よ。あと一分で出られるわよ」  と彼女は応じた。  ──ひょっとして、横浜支店長は早朝、マンションの部屋のドアを開けて何者かに狙撃された時、内側に女性がいたのではなかろうか? その女性がドアを開けたということだって考えられるではないか? 北野久光もおれと同じ単身赴任者だ。それに女性にもてない男ではなかった。今夜の自分に起こりつつあるような出来事にだって出会うだろう。お互いに危険な年齢なんだ。  とっさに、松岡の脳裏にはそういう思いがこみあげてきた。  だが、いま、自分がカラオケバーのママの部屋へ向かうことにさしたる躊躇《ちゆうちよ》は覚えなかった。危険だという思いはまったくといってよいほど生じてはこなかった。 「行き先は決まったわ。さあ、行きましょう」  と彼女は促した。  二人は外に出た。  彼女は外側からお店のドアの鍵を閉めた。すでに十二時三十分位になっていたが、まだ人通りはけっこうある。  二人は仲良く腕を組んでタクシーを拾うために表通りへ向かった。そのすぐ脇を追い抜いた男が、松岡に気付くとぎょっとして眼をこらした。 [#改ページ]  罠《わな》 の 存《あり》 在《か》      1  長谷部敏正は横浜支店の支店長室にいる。頭取の特命を受けて秘かに調査を開始していた。  大口融資先一覧表の中から「太田川建設」を選び、大口の延滞先一覧表を見て「KSエコノミック・アニマルクラブ」のファイルを取り寄せようとした。  ところが、「太田川建設」の書類提出に予想以上の時間が掛かった。長谷部は元名古屋支店長である。一年前には融資部長も経験している。こういう人物の眼から見れば、事態はほぼ明らかだ。  理由は二つしかない。  日頃から書類の整理が不備で、きちんと名寄せがされていない。そのため、必要な書類を探し出すのに時間が掛かった。  もう一つの方は、いささか意地のわるい見方になる。総合企画部長に見せてはまずいと思われる書類や念書のたぐいが何枚か混入しており、それを抜き取る作業にかなりの時間を要した。  二つのうちのどちらか、あるいはその両方という考え方が成立する。前者も困りものだが、後者であれば由々しいことだと言わざるを得ない。一時的な糊塗《こと》につながる。当然、問題を後に残すことになる。  本部に対して支店長が隠し事をするケースはしばしばある。隠している間に自力で解決出来れば問題はない。が、多くの場合、そうはならず傷がいっそう深くなる。  というのも、本部には専門家がいる。総会屋対策のヴェテランや専属の弁護士、元警察官僚の調査役等々が複数で動く。彼等は時にはプロジェクトチームを作る。しかも、事件に馴れていて手際が良い。  こういういわば手だれの連中にくらべて、日常業務に追われづめで、時間もなく経験も浅い支店長では勝負にならない。隠したことによって問題が深刻化する。残念ながら、そうなるケースが多い。  もちろん、長谷部はそのへんの事情をよく心得ている。自分の経験に照らし合わせて、心情的に隠し事をさせたくない。何事であれ、起こってしまったことは仕方がなかろう。彼の考え方は明快である。むしろ、早く打ち明けて本部に任せ、自分たちは業務に邁進《まいしん》してもらいたいと思っていた。  ともあれ、長谷部は横浜支店長代行の三田村好夫の態度に多少の胡乱さを感じた。そこで「太田川建設」についての関係書類についてはじっくり眼を通した。とくにおかしいところはない。もっとも、何か重要な書類が抜き取られているとすれば話は別である。 「KSエコノミック・アニマルクラブ」のファイルはまだこない。社名からしていささか異常だ。大口不良債権先の名簿の上位に出ているから、なおのことそう思うのかも知れないが、こんな社名を付ける経営者の心情を疑いたくなる。  もし、自分が支店長であったら、こういうふざけた名称の会社に融資はしないだろう。「名は体をあらわす」という。「四十歳を過ぎたら、顔は自分の責任だ」とも言われている。名称そのものに罪はなくとも、命名した人間の性格に瑕瑾《かきん》がある。  多くの無能な人間、考えの浅い莫迦者、ずるい横着者、怠惰な一発屋等々にもそれ相応のチャンスが廻ってきた高度成長期ならいざ知らず、まともな人でさえ苦労する不況期に入れば、こういう手合いは、結局、踏みとどまれず、ひとたまりもない。傷は膿《う》んで、たちまち潰瘍《かいよう》にもなり、やがて癌にもなる。  長谷部は立ち上がった。  支店長室で、いつまでものほほんと待ってはいられないと思ったからだ。  長谷部が支店長室を出たところへ、庶務課の有田あずさが駆け寄ってきた。二人はぶつかりそうになった。 「失礼いたしました」  あずさは急いで身を引き、少し顔を赤らめた。 「どうかなさいましたか?」  長谷部は気遣う。 「いえ、だいぶお待たせしましたので、急いでご連絡をと思いまして。実は、支店長代行が……」  と口ごもる。 「じゃあ、立ち話もなんですから」  と言いつつ、長谷部は閉めたばかりの支店長室のドアを開けた。 「どうぞ」  と促し、先に有田あずさを通した。 「あら」  彼女はまた頬の上の部分を赤らめている。 「申し訳ございません。わたくしが部長さんより先に入ってしまって」  と頭を下げる。 「とんでもない。レディファーストですよ。わたしは田舎者なので、そのへんだけは気を付けるようにしています」  と長谷部は告げた。 「どうぞ、お掛け下さい」  と室内のソファーを奨める。 「けっこうです」  と彼女は遠慮した。 「立ったままではわたしが話しにくい。どうぞ坐って下さい」  と頼んだ。 「部長さんて優しい方なんですね。とてもすてきです」  とあずさは言い、はっと気付いて慌てて口許を押えた。ついつられて、気易い口をききすぎたと思ったのであろう。 「どうも有難う。そんなふうに言って頂けると嬉しいですよ」  と長谷部は言った。  本音である。ふと心が和むのを感じた。人間とは不思議なものだ。その分だけ支店長への不信感が遠退いた。長谷部のような朴訥な、あまり融通のきかない人間にさえ微妙な影響を与える。まさに、感情の動物であると言えよう。  二人は向かい合って坐った。有田あずさは少し眼を伏せる。 「あなたも若い方にしてはたいへん礼儀正しい。よく気がつく。横浜支店長がうらやましいですよ」  と伝えた。本音でもあった。 「まあ」  と言って、いったん上げた顔をまた急いで伏せた。 「ところで、支店長代行がどうかなさいましたか?」  と訊く。 「はい、急用が出来てすぐ出掛けなければならないので、長谷部部長さんによろしくお伝えしてくれ、と言い残して、つい一、二分前に慌てて出て行きました」  と報告する。 「そうですか」  長谷部は少し表情を曇らせた。 「また、ずいぶん急ですね」  と呟く。  どうもおかしいという思いが再び押し寄せてきた。 「申し訳ございません」  あずさは頭を下げた。 「いや、あなたが謝ることはない」  と言いつつ、固くなった表情を元に戻そうとして笑いを浮かべる。 「支店は忙しいですからね。とくに支店長は大変だ」  と慰め顔になる。 「お役に立ちませんで」 「そんなことはありません。本店からのこのこやってきて、長居をするもんじゃない。迷惑になる」  とつけ加えた。 「そんなことはございません」  彼女は真顔で強調した。 「わかりました。有田さんと知り合いになれただけでも大きな収穫です」  と言って、会釈する。 「まあ、ほんとうでしょうか?」  疑わしそうな顔をした。 「もちろん、ほんとうです。間違いありません」  長谷部は大きく頷いてみせた。 「また、あなたに電話して何かお尋ねすることがあるかも知れません。その時はよろしくお願いします」  とつけ加えた。 「はい、何なりとお申し付け下さい」  と彼女も答えた。  長谷部は横浜支店を出ると、タクシーを拾って久保山《くぼやま》の墓地へ向かった。ここまで来たのだから、西巻良平の墓にお参りして行こうと思ったのだ。      2  神谷真知子のニューヨーク暮らしに変化が起きた。  色どりが加わったのである。  色どりとは、若やいだもの、華やかなもの、同じ色彩でも少しは目立つ派手なものなどをあらわしている。  真知子に男友達が出来た。彼の名はリチャード・ジョンソンだ。  ブロードウェイの芝居やミュージカルに出演している俳優だが、新人で、まったくの無名である。その他大勢の役で、出演しているにすぎない。年齢は三十二歳だというから、彼女より二つ年長だ。  それでまだ無名なのは少し気の毒だが、リチャードに訊くと、そういう人は多いらしい。彼だけがとくに遅れているわけではないと教えられた。  西海岸のサンフランシスコから来た青年で、ニューヨークへ移ったのが二十七歳の時だというから、ちょうど五年が経過したことになる。  もう五年というべきか、まだ五年というべきか、真知子には見当がつかない。俳優の修業については、まったくの無知であった。  といって、彼女はミュージカルやオペラや芝居が嫌いなわけではない。主な理由ははっきりしている。時間がなくて日本でもあまり見られなかった。女性ではあるが、真知子は銀行の幹部行員の仕事をしていた。言うまでもないが、かなり多忙な毎日である。  もっとも、ほんとうに好きならば、時間の都合など何とでもなる。そう言われてしまえばそれまでの話だ。げんに銀行員で音楽やオペラのファンは相当いる。  ともあれ、彼女はリチャードと知り合ってから芝居やミュージカルに眼を開いた。わずかなチャンスやきっかけで人の生活や考え方が変わることがある。  もし、そうだとすれば、リチャード・ジョンソンが神谷真知子を変えたと言える。  が、真知子のように勝気で、個性の強い女性がすっかり変わってしまうということはまずあり得ない。  したがって、ほんの表面的な変化かも知れない。また、一時的なものであるのかどうかも現時点ではよくわからなかった。しかし、そういう穿鑿《せんさく》は別にして、彼女のニューヨーク暮らしに色どりが加わったのはたしかだ。  リチャードは真知子よりいくらか背は高いが、欧米人の男性としては小柄な方で躰つきもきゃしゃである。神経質で都会的な繊細さを身に付けている。  少なくとも、がさつなタフガイではない。性格も温和で声も滑らかだ。その代わり、生活力の方は旺盛ではなく、かなりつつましい暮らしぶりである。独身でも、演劇だけの収入ではむずかしく、定期的にアルバイトをしていた。  真知子と知り合った日も、たまたまウォール街にある保険会社で時給の仕事についていて、食事に出た。ビジネスマンたちで混み合うレストランでトレイを持った人の列の後についた。すでに述べたように偶然とはいえ、選りによって真知子のすぐ後ろに並んだのがきっかけになった。  この時、二人は同じテーブルで食事をした。彼が隣りに坐ってよいかと声を掛け、彼女はどうぞと答えた。いわゆるビジネスランチタイムである。両者共慌ただしく食事を終えて職場に戻らなければならない。  それでも、会話のある食事は愉しい。彼はひかえ目に静かな声でブロードウェイの芝居の話をした。彼女はもっぱら聞き役にまわった。とにかく、時間があまりない。多くの事柄を聞けたわけではなかった。  真知子は名刺を渡し、リチャードはメモ用紙にアドレスと電話番号を書いた。二人は改めて会う約束をした。ごく自然にそうなったような気がする。  次の週末、二人はニューヨークヒルトンホテルのロビーで待ち合わせた。ここは五番街からもセントラルパークからも近く、エンパイヤステートビルやかつてのパンナムビルもそう遠くはない。ブロードウェイからだと少し遠いが、それでも歩いて来られる距離である。  二人は午後二時に会い、天気が良いので歩くことにした。セントラルパークの脇をまっすぐに進んでメトロポリタン美術館に向かった。  ここで一時間程過ごして、同じ道を引き返してくる。パークの一部にある動物園にも寄ってみた。二人共、動物園に入るのは久しぶりである。どちらが誘ったわけでもなく何となくそうなった。  この動物園は道路サイドにあって気軽に入れる雰囲気があった。大勢の人が歩いていてそのまま入って行く。ごく自然につられて入り込んでしまったとも言える。動物たちの檻と見物人の距離が異常に近い。間に鉄柵はあるが、鉄の棒一本で大人の腹位の低さだ。  ゴリラの檻の前に、一番大勢の人が集まっていた。巨大な雄ゴリラがすぐ目の前にいる。多くの人たちがぎょっとして足を停めてしまう。  真知子とリチャードも、やはり足を停めて、ほぼ同じ反応を示した。 「すごいですね」 「ほんとうにすごい」  と言い合った。  それからはもう別の檻を覗く気がなくなり、出口へ向かう。  外界への反応が彼も彼女もよく似ていた。改めて説明しなくても、ささいな動作や眼ざしで理解し合える。  美術館と動物園を含むおよそ二時間半の散歩で、こういう細かい反応がいくつかあった。期せずして生じたと言うべきであろう。それがお互いをほっとさせる要素を生んだ。  真知子は自分でも不思議だと思うようになっている。日頃の男まさりの積極性が何処かへ消え失せてしまった。内気な少女とまではいかないが、引っ込み思案の若い女性のようなナイーブな気持ちだ。  これが本来の自分ではないという思いはある。しかし、同時に、別の自分の存在に興味を持ち、眼を離さずにじっと見つめていたいと思ってもいた。 「お疲れになったでしょう」  と真知子は心遣いを見せた。 「いえ、たいして疲れてはいません」  とリチャードは応じた。 「日頃から、立ったり歩いたり踊ったりで鍛えています」  とつけ加えた。 「そうでしたね。うっかりしてましたわ。ミュージカルは大変な運動ですもの」 「人にもよりますが、ぼくの場合はいつも舞台の三倍位の練習をしています」 「まあ、毎日ですか?」  と訊く。 「ええ、時間の許す限り、毎日です」  彼は当然のような顔付きで答えた。 「でも、アルバイトで時間が取れなくなることもあります」  と首をすくめて見せた。  二人は並んで歩きながら、ティファニイの前まで来たが、どちらも関心を示さずそのまま通り過ぎてしまった。 「これから近代美術館の中の喫茶店でお茶を飲むのはいかがでしょう。ついでに、少し中も拝見して、夕食を何処で頂くか相談することにしては」  と提案する。 「けっこうです。実は、ぼくもいま同じようなことを考えていました」  リチャードは頬を綻ばせた。      3  松岡紀一郎は「茉理花」のママのマンションに泊まった。  結局、泊まることになってしまったと言った方がよいだろう。  松岡が「茉理花」を安息の場所にし、銀行の顧客や部下たちを連れず一人で通っている事実についてはすでに述べた。勘定もツケにしたり、銀行の交際費で処理したりせず、自分のポケットマネーで払っていた。  こういうお客はママにしてみれば可愛い。いきおい好意的になり、面倒見もよくなる。単身赴任者だけにささいなことにも感謝され、世話のし甲斐があるというものだ。そのあげく、ママと客とがあまり不自然ではなく男と女の関係に進んで行く。これはもう水の流れのようなものだ。  男の方にも甘える気持ちがあり、性の欲求もある。女の方にはお店の売り上げを増やしたい商売気に、少しばかり母性愛的な傾向が加わる。大小の差こそあれ、誰の心の中にも存在する奉仕の精神が刺激され、急に面倒見がよくなる。  この段階では、相手が犬や猫その他のペットでもあまり変わりはないが、すぐ次の段階へと移行する。  松岡のように単身赴任者で、大銀行の支店長という要職に就いていて、やや小柄だがなかなかの男前で、性格も剽軽《ひようきん》で話すと面白い人物がもてない筈はない。  男の良し悪しや本質を見抜くのがうまいこの手のお店のママには、松岡の頭の回転の早さや質の良さがすぐにわかった筈である。なにしろ、彼は依然として三洋銀行の重役候補者なのだ。  彼女にはパトロンではなくても、頼りになる男を近くに置いておきたいという思いがあった。これもたぶんに女性の本能であろう。  加えて、彼女は三十代も半ばに入った女盛りである。普通の女性より男性体験が多く、男を知り尽くしてもいる。蜂や蝶を招き寄せる花は開ききっていて、いまも花芯の蜜はあふれんばかりだ。  ヒモや甲斐性なし、怠け者やたかり屋、見えっぱりやお調子者、ケチや情け知らずでなければ、男は何人居てもいいという思いさえある。言いかえれば、彼女の体内では男以上に欲望が燃えさかっていると言ってもよいだろう。  要するに、彼も彼女も、松岡も「茉理花」のママ小森理花《こもりりか》も、都合の良い理由をいくつか持ち合わせていた。二人が男と女の関係になっても、のちのちのことはともかく、当面は困る者がいない。  小森理花は商売柄、男性の交通整理は上手な方だし、松岡は博多に来て一年が過ぎるというのに、いままで特定の女性は居なかった。銀行の仕事が忙しくもあったが、見かけよりずっと用心深い方でもある。  転勤してきてすぐ、事情もよくわからぬ見知らぬ土地で、いきなり羽を伸ばすほど愚か者ではなかった。  もう一つ、松岡の場合は通常の支店長とはいささか異なった理由が付着している。並の支店長ならば、少なくとも三年位は同じ支店で頑張ることになるが、彼はせいぜい一年位と予想したのだ。  前方に役員昇格の道が見える。となると、方法は限られる。短期間のうちに業績を上げ、つまらぬしがらみを作らず、品行方正にして取引先に借りを作らぬようにする。  酒やカラオケ、ゴルフ等はほどほどに付き合うが、女性関係は厳禁である。何故なら、誰かに弱味を握られるもとになる。一番まずいのは、身内の支店内で女子行員に手を出すことだ。あんがい、この手の禁を犯す人物が多いのは何故であろう。不思議なくらいだ。  松岡にはしたたかなところがある。タブーには一切近付かず、業績を上げた。不良債権の回収も順調に進んでいた。不況のさ中にあって地場産業も伸び悩んでいるのに、博多支店は意外な健闘を示しつつある。  数字を見れば明らかだ。成瀬頭取の眼にだってとまらぬ筈はない。業務推進部長や担当常務はたびたび激励や賞賛の電話をくれるのに、成瀬からはすでにかなりの長期間、何の連絡もなかった。言いかえれば、成瀬だけが電話ひとつくれないと言える。  それどころか、この前はせっかく上京したのに会っても貰えず、無念の思いを噛みしめて引っ込んだ。正直なところ、情けないという思いが強い。  いまではそれが少し変化し、不貞腐《ふてくさ》れがちである。明らかにわるい兆候があらわれ始めている。  誰にとっても、こういう精神状態は良くない。意欲をくじく。スポーツ選手ほど単純ではないが、それでもこたえる。彼のしたたかさにも、どうやら限界があるようだ。  この夜、マンションに着くと、「茉理花」のママは甲斐がいしく動いた。  すっかり世話好きの女になり、バーのマダムから小森理花個人に変身している。まず、お風呂をわかしてくれて彼を先に入れた。 「失礼いたします」  としおらしい声で言って、十分後に自分も入ってきた。  すぐに背中を流してくれた。意外に色白で豊満な躰つきである。浴室は狭く、湯気の中で躰が擦れ合う。  眼を見張り、いきり立つ彼を上手になだめる。まさに手練手管というべきであろう。愉しみを後に残すよう巧みに言い含めて彼を先に出した。それから、彼女は一つ溜息をついてのんびりと浴槽に漬かった。  とはいえ、あまりぐずぐずしてはいない。数分後には出てきて、バスタオルを羽おったまま、すばやくビールの仕度をする。つまみのピーナツ入り柿の種まで付けて出した。  まことに行き届いている。たしかに、慌ただしくはあったが、俄《にわか》の混浴で初めて同じ部屋に入った緊張感とわだかまりが吹っ飛んでしまった。さすがと言うべきであろうか? 思いきった、上手な方法である。もちろん、何度も試した結果であろう。  やはり、体験がものを言ったのだろうが、松岡にとってはそんなことはどうでもよかった。あまり気詰まりでなく、成りゆきがよければそれでよい。  こうして、男はしばしば女の過去に眼を閉じてしまう。それだけ刹那《せつな》的なのだろうか? 気分が昂揚すればあらかた許してしまうところがある。  ともあれ、この夜、松岡は日頃の憂《う》さを忘れた。豊満な女体に翻弄《ほんろう》されたと言ってもよい。  それでも午前四時頃、一度帰るチャンスはあった。電話でタクシーを呼べることもわかっている。が、女体の芳香と褥《しとね》の暖かさに負けてしまった。  ぐずついているうちにもう一度挑まれ、すっかり精気を吸い取られた。なにしろ、若くはない。五十歳を過ぎている。その後がいけなかった。重い疲労にのしかかられて一気に眠り込む。  かろうじて、八時五十分に眼が覚めた。明らかに睡眠不足だ。慌てて銀行へ電話を入れ、今日は十時に出勤すると告げた。      4  長谷部敏正は自室に入ってドアを閉めた。  手帳を繰って、宮田隆男の大学の電話番号をたしかめる。受話器を取り上げ、研究室に廻して貰った。 「すっかり大学教授が板についてきたようだね。宮田先生と呼ばなければいけないかな?」  ひと通りの挨拶がすむと、長谷部はそう言った。 「冷やかさないでくれ。やっとどうにか格好をつけてるんだ」  と宮田は応じた。 「でも、好きな道へ入れてよかったよ。研究三昧の生活はきみの理想だったから、毎日が愉しいだろう」 「たしかに、いまの生活が厭ではないが、思った程ではないね。当てがはずれたといった方がいい。学生は礼儀しらずで勉強しないし、学内の教授たちは常識知らずで身勝手なエゴイストが多い。おまけに、かなり陰湿な権力争いがあってね」  と訴える。 「ほう、そんなものかね? 楽じゃないな。しかし、権力争いとなると厭だね。銀行とあまり変わらんのじゃないか?」  と訊く。 「本質的にはたいして変わらんね。むしろ、学者間の恨みの方がじめじめしている。根が深くて深刻だよ」  と教えた。 「なるほど」  頷いて、長谷部は少し顔をしかめた。 「今日電話したのはほかでもない。横浜支店時代のことを訊きたいんだ」 「どうもご愁傷《しゆうしよう》さま。支店長が大変なことになったね。犯人はまだはっきりしないんだろう」 「そっちの方は警察に任せてしまったから、進展状況はわれわれもよくわからないんだ。ところで、あなたが支店長だった頃、『KSエコノミック・アニマルクラブ』という取引先はあったかね?」  と尋ねた。 「ああ、あの妙な名前の会社だね」  宮田は覚えていた。 「とにかく、その会社について知ってることをみんな教えてくれ」  長谷部は意気込んだ。 「そうせっつかれても大したことは知らんよ。なにしろ、あの頃は預金取引しかなかったんだからね。もちろん、会社内容の調査もしていない」  と宮田は答えた。 「じゃあ、当時は融資はなかったんだね」  と念を押す。 「その通り、たしか定期預金だけでね。一億円入っていたかな? 調べれば、すぐわかるだろう」  宮田の方が不審気な声をあげた。 「定期預金取引だけで一億円?」  と長谷部は呟いた。  何となく腑におちないのだ。 「ほら、いつかきみといっしょに訪問した病院があったじゃないか? 杉本前頭取と院長が親しかった」  と宮田は言い始めた。 「ああ、あの病院か、聖友会《せいゆうかい》病院のことだろう」 「そうだ。その聖友会病院の院長|福山満寿雄《ふくやまますお》の甥に当たる人物でね。沼部雷太《ぬまべらいた》という青年が社長をしている会社だ。青年といっても三十代半ば位にはなっていたかな」  と教えた。 「すると、福山院長の紹介ということになるね」 「もちろん、そういうことだ」 「きみは会ったんだね」  とたしかめる。 「福山院長といっしょに銀行に来てくれてね。現金で、一億円定期預金にしてくれた。院長とはまったくタイプの違う男でね。男前で、なかなかのやり手という印象を受けたよ」 「ほう」 「新しいタイプの起業家という感じでね。颯爽《さつそう》としていて、頼もしかった」 「なるほど」  長谷部は途惑っていた。 「それで融資の申し込みはしなかったんだね」 「していない。あちこち手を拡げているのでいずれ何かお願いするかも知れないが、その時はきちんと担保を出しますからと言ったような気もするな。こっちはいきなり一億円も預金を貰えて有難かったよ」  宮田はだんだん詳しく思い出してきた。 「そりゃあ見せ金だ」  と長谷部は断定した。 「見せ金?」  宮田は意外そうに言う。 「いま十五億円も焦げついている。横浜支店の延滞先のトップにランクされているんだ」  と打ち明けた。 「呆れたね。一年以内にそんな高額な延滞に。何か裏があるよ。支店長が騙されたには違いないけどね」 「やっぱり、そう思うか?」 「聞いただけでわかるよ。まともじゃないね」  宮田は同意した。 「この件で、何かほかに思い出すことはないかね。ささいな事柄でもいいんだが」  長谷部は未練がましく訊く。 「大学へ移ってしばらくして、お中元の時期になっていたような気がするけど、福山院長から高級ウイスキーが送られてきた。そこで電話をしてお礼を言った。もう銀行とは関係ないんだから、こういう真似はやめて下さいと言っておきたくてね。お礼状ではなく電話にした」 「相変わらず、律儀だな」 「その点はきみといい勝負だよ」 「まあ、まあ」  と受けて、「それで?」と先を促す。 「そうしたら、福山先生はご機嫌でね。今度の北野支店長は話の良くわかる人で、いろいろ面倒を見て貰っております。甥の沼部も張り切っていますよ。たしか、そう言った。それはけっこうですねと言って、ぼくは電話を切ったのを覚えている。その後はもうウイスキーも送られてこなくなり、実はほっとしてるんだ」  宮田はすらすらと言った。 「どうも有難う。大いに参考になったよ。そのうち一度会おうじゃないか? 近頃は同期生もすっかり散っちゃってね。淋しくなるばかりだ」  長谷部はちらりと本音を漏らした。 「わかった。また連絡してくれたまえ。何といっても、ぼくの方が時間はあるから、そちらに合わせるよ」  宮田はそう言って電話を切った。  長谷部はいったん受話器を置くと、すぐまた取り上げ内線番号をプッシュする。  融資部の横浜支店担当次長を呼び出す。 「長谷部だが、ちょっと頼みたいことがある。『KSエコノミック・アニマルクラブ』の本店申請されている関係書類一式を至急、わたしの部屋まで持ってきてくれ」  と頼んだ。 「あ、あの会社は二か月前に管理部の方へ移管しましたので、関係書類はすべてそちらへ行っています」  との声が返ってきた。 「二か月前に移管か?」  と呟く。 「すんなりいったのかね?」  何の気なしに訊いた。 「いや、北野支店長や三田村副支店長との間ですったもんだしました。支店長側はもう少し自分たちで交渉して回収の努力をすると言い張るのですが、われわれは支店の手に負えないと判断して、強制的に管理部へ移管したんです」  と次長は報告する。 「そうか、本部が強制的にやったのか? なるほど」 「はい、何かまずかったでしょうか?」  と次長は気にした。 「いや、そんなことはない。融資部には融資部の判断があるんだから、やむを得んだろう。いつまでも支店に任せておくと回収の時期を失うことがある」  と長谷部は言った。 「現部長もわれわれも、以前、部長にご指導頂いた通りにやっております」  と次長は答えた。 「まあ、そう言うな」  長谷部は苦笑した。  彼はまた受話器を置いて、すぐ取り上げ、今度は管理部長の内線番号をプッシュする。  かいつまんで事情を話し、これからそちらへ行くから、担当者に書類を出すように命じてくれと頼んだ。  いったん、管理部扱いになった関係書類は役員といえども勝手に持ち出せない仕組みになっている。  管理債権と呼ばれ、一般の融資書類とは別扱いになる。回収可能かどうかによって、第一分類から第四分類にまで分けられ、別名「分類債権」とも呼ばれる。  第一分類は何とか回収可能先であり、第二分類は回収がやや危なく要注意信号が点滅しつつある先だ。  これが第三分類になると、諸般の事情からまず回収がむずかしいと判断される。第四分類はまったく回収の見込みが立たない先である。  こうなると、深刻だ。関係者たちの責任問題も当然出てこよう。その上、いつ、どういうかたちで償却するかが問題になり、無税か有税かの判断をめぐって、大蔵省との間で駆け引きが必要になってくる。 「やれ、やれ」  と呟いて、長谷部は立ち上がった。  自室内なので誰にも遠慮せず、大きく一つのびをした。  電話機のベルが鳴った。 「成瀬頭取がお呼びです。すぐ頭取室へお願いします」  女性秘書の声が聞こえてきた。      5  長谷部としては、ひとまず頭取室へ向かわざるを得ない。 「KSエコノミック・アニマルクラブ」の件は後廻しにせざるを得なくなった。  長谷部は手帳を手にして、そのままエレベーターホールへ向かう。頭取室のあるフロアーへ移動するためだ。  以前だと、こういう時、偶然に石倉や松岡とすれ違い、短い言葉を交わしあったり、腹の中を探り合ったりした。いまではそれも、なつかしい思い出になっている。  感慨にふける間もなく、エレベーターは迅速に長谷部を運んだ。  毎度のことながら、頭取室をノックする時は、その都度緊張した。  不思議なことに、杉本頭取の時も成瀬頭取になっても、事態はあまり変わらない。ほぼ同じような緊張感がこみあげてくる。  これが自分だけのものなのか?  石倉や松岡はどう感じていたのか? 機会があったら尋ねてみようと思っていながら、いまだに果たせないでいる。 「どうぞ」  ノックに答えて、成瀬の滑らかな声が聞こえてきた。 「失礼いたします」  長谷部は室内に入って、すぐ一礼する。これも杉本の頃と同じだ。  成瀬は机上の書類から眼を上げ、少し顎をしゃくってソファーを指さした。 「はっ」  長谷部は会釈し、先にソファーまで移動して行ったが、腰は下ろさずそのまま立っていた。成瀬が先に坐るのを待っているのだ。  成瀬の方もそのへんは承知していて、けっして先に坐りたまえとは言わない。平気で待たせておく。  しかし、この日、成瀬は書類チェックに飽き飽きしていたのか、二十秒位で書類の束をばたりと音たてて閉じ、さっさと立ち上がって近付いてきた。  先に坐り、長谷部を促す。 「コブ茶でも飲もうか」  といきなり言う。 「はい」  答えて、長谷部は躰を浮かした。秘書課員に頼もうと思ったのだ。 「頼んでおいたよ」  と成瀬は教えた。 「それはどうも」  と頭を下げる。  ノックの音が聞こえて、コブ茶が運ばれてきた。薄い羊羹が一切れずつ載った皿が付いている。 「疲れなおしにいいよ」  と言いつつ、成瀬は手を出した。 「どうぞ」  と奨めて、羊羹をほおばり、コブ茶を飲んだ。  長谷部はまずコブ茶にだけ手を出す。 「遠慮しないでやりたまえ」  と重ねて奨めた。 「頂きます」  と断わって、羊羹の皿を取り上げる。 「きみにいくつか頼んでおいたね」  と成瀬は水を向けた。 「現段階ではすべてまだ途中の経過報告ですが、よろしいでしょうか?」  長谷部は先に断わった。 「やむを得ん。聞かせて貰おう」  成瀬はソファーに寄り掛かった。楽な姿勢をとったのである。  逆に、長谷部はやや前のめりの前傾姿勢になった。手帳をちらりと見たものの、大半はそらんじている。すぐに始めた。 「まず、横浜支店の問題から入らせて頂きます」  と前置きする。 「うむ」  成瀬は頷いた。 「支店長代行の三田村くんに会って事情を聞きましたが、とくに目新しい事柄はございません。すでに総務部長から報告済みの問題ばかりです。そこで大口融資先、大口延滞先の一覧表をチェックした結果、事件のあった日からさかのぼって、一、二週間のうちに、支店長室に来たのは、このうち二社の社長だけでした」 「ほう」  成瀬は興味を示した。 「どの社とどの社だね?」  躰まで少し起こす。 「『太田川建設』と『KSエコノミック・アニマルクラブ』の二社です。この二社の社長が事件の少し前に支店長室を訪れています」  と長谷部は報告する。 「………」  成瀬は急に押し黙った。 「おや」  と思って、長谷部は成瀬を見た。  頭取の顔は不快そうに歪んでいる。長谷部は途惑った。いままでのところで、何か失言したとはとても思えないのだ。 「横浜支店の件はよろしい」  と成瀬は断定した。 「それより、太平銀行の方はどうなってるんだね? そっちの方がずっと重大だ」  と強調する。 「はい」  と応じたものの納得がいかなかった。  太平銀行への接近はいわば合併工作である。いま早急に進めなければならぬ問題とは思えない。それにくらべて、横浜支店の場合はげんに支店長が入院中で、事情聴取にも応じられないほどの重体であった。  警察とは独自に銀行が事件の糾明に乗り出そうというのであれば、こちらの問題の方が先になる筈だ。長谷部としてはそう考えていた。  彼に調査を命じた時の成瀬にはそういう意気込みが感じられた。それがどうだ。急に風船がはじけてしまったかのような印象さえ受ける。 「たしか、静岡へ出張してオーナーとの会食に成功した。大須賀さんにずいぶん気に入って貰えたそうじゃないか? そこまでは聞いている。その先はどうなったのかね?」  と成瀬は訊いた。  表情の固さがまだ取れていない。質問を切り替え、急いで取りつくろったような印象さえ受ける。 「とくに進展しておりません。あまりせっつくのもおかしいと申しますか、何か意図があるのではと怪しまれてはいけないと考えまして」  と言葉を濁す。 「手ぬるい」  成瀬はぴしりと言い放った。 「何か意図があるうんぬんはわたしの思惑だ。きみの知ったことではないわ」  と一喝する。 「はい」  長谷部はややあっけにとられた。 「もっと、しばしば会って、親しくならなければ話にならん。また静岡へ行きたまえ。毎週一回行ってもいいくらいだ」  と言いつつ、不快そうに口許を歪める。 「わかりました」  と答えて、長谷部は頭を下げた。  大須賀とはユトリロ談議があった。あの後、電話でもお礼を言い、丁重な礼状も出した。絵のコレクションを見せて貰う約束なので、つなぎは十分についている。  それをいま主張してみても始まらない。成瀬の様子がかなりおかしい。ここは下手《したて》に出て引き下がった方が被害が少ないだろうと判断したのだ。  第一、日常の多忙さにまぎれて絵の勉強もしていなかった。少しは知識を身につけてから、二回目の訪問をしないと大須賀に対しても失礼である。一度馬脚をあらわしてしまえばおしまいだという思いも生じていた。 「わかればよろしい」  と成瀬は渋面のまま言った。 「成果が上がり次第、報告してくれたまえ」  とつけ加えて、出口を指さした。  出て行けとの合図であろう。 「失礼いたします」  丁寧に頭を下げてから、長谷部は立ち上がって後ずさり、頭取室を出た。  廊下へ出たとたん、彼は下唇を噛み、首をひねった。      6  長谷部はエレベーターホールまで来て、いっそこのまま直接管理部長の所へ行こうかと考えた。  が、すぐに思いなおした。成瀬から電話が入るかも知れないと予想して、いったん自席に戻ることに決めた。いままで何度かそういうことがあったからだ。  それにしばらく離席していると、あちこちから電話や伝言が入り、机の上はメモ用紙の山ということさえある。  予想通りであった。  すぐに机の上の整理に掛かる。部下の次長、課長クラスが一人、また一人と寄ってきて、伝言や報告を入れる。なかには指示を欲しがる者もいる。いちいち応じて、指示や助言を与えた。  たちまち十四、五分が過ぎた。どうやら、今回は予想がはずれたと思ったとたんに、電話のベルが鳴った。  出ると、秘書課員ではなく、成瀬の声が直接聞こえてきた。 「さっきは急に気分がわるくなってね、失礼したかも知れん」  と言った。  いつもの声に戻っている。やはり、一時的にどうかしたらしい。長谷部はそうと知ってほっとした。 「言い忘れたが、大須賀さんのユトリロの話を思い出してね。この間から、頭取室や役員応接室の絵をね、少しはまともな絵に替えたいと思い始めた。どんな絵を入れればいいか、きみからひとつ大須賀さんに相談してくれたまえ」  と頼んだ。 「承知いたしました。そういうことでしたら、大須賀頭取も乗り気になってくれると思います」  と長谷部は答えた。 「今後、きみの仕事も進めやすくなるだろう」 「はい」 「では、早急に接触してみてくれ。それから、横浜支店の件は警察に任せよう。総務部が担当していることだし、きみはもう手を引いていいよ」  と言い渡す。 「そうですか」  また腑におちぬ思いがこみあげてきた。 「わかったね」  念を押された。 「わかりました」  と答え終わると、電話はきれた。  長谷部はしばらく左手に持った受話器を見つめた。  ──やはり、おかしい。  先程、頭取室内で「太田川建設」と「KSエコノミック・アニマルクラブ」の名を口にしたとたんに、成瀬の表情が変わリ、態度も硬化したような気がする。 「太田川建設」の方は大口融資先というだけで、延滞先ではない。横浜支店内で見た書類もまともであった。  となると、問題は「KSエコノミック・アニマルクラブ」の方だ。どうしても、そこへ絞られる。  それに、この会社の社長が聖友会病院の福山院長の甥だというのも気にかかる。  前頭取杉本富士雄との癒着が目立って、不正融資とまではいかないが、明らかに情実の目立つ融資になっていた。ヤクザっぽい口をきく事務長がいるのも要注意だ。  長谷部はまた融資部の横浜支店担当次長に電話を入れた。 「さっきはどうも。実は、もう一つ訊きたいんだが、聖友会病院の融資はどうなってるのかね?」  と尋ねた。 「あの病院も要注意先です」  次長は即座に答えた。 「延滞先ではないんだね」 「まだ、そこまではいっておりません。しかし」  と言い渋る。 「しかし、何だね?」  と追及する。 「はい、あの病院は院長が投機好きでして、設備資金として融資しているのに、設備に使わず、ほかへ流用しています。なにしろ、返済能力を越えて借りていますので、いつおかしくなるか目が離せません」  と報告する。 「やはり、そうか? 以前とあまり変わっていないな」  と呟く。 「いえ、以前より患者が減り、むしろ業況は悪化しております。したがいまして、これ以上の貸し増しは出来ない状況です」  と次長は指摘した。 「わかった。どうも有難う」  長谷部は受話器を置いた。  頭取は何故か、横浜支店の調査を打ち切れと指示したが、このまま命令に従えばよいのかどうか?  迷いが生じた。  もし、突っ込んでゆけば、かつて杉本と福山院長との密接な関係が浮上してきたように、何かが出てくるのではなかろうか? そんな気がする。  成瀬は無関係なのか、それとも何らかのかかわりを持っていて、発覚を恐れたのか? 糊塗しようとしているのか?  そのへんはまだよくわからなかった。ただ、無関係ならば態度がおかしい。長谷部の口から社名が出たとたんに硬化した。  頭取とコンビを組んでいる取締役総合企画部長としては、言われた通りにすべきであろう。  しかし、銀行の幹部行員としてはどうか? 役員としてはどうなのか?  忸怩《じくじ》たる思いがある。  それにしても、「KSエコノミック・アニマルクラブ」の件を中途半端のまま放置するのは厭だ。性格として出来ない。  幸か不幸か、彼自身がこの会社に興味を抱いてしまった。  結局、長谷部は立ち上がって部屋を出た。行き先はわざと告げない。  もし、成瀬がまた連絡してきて、管理部へ行っているのがわかれば、ぴいーんとくる。勘はなかなか鋭い人物だ。すぐに察しをつけるだろう。  長谷部を油断のならない部下だと思い込んだら、そのままにはしておかない。単に無教養で無能だと解釈しただけで、自分に害を加える心配のない大森を、ことごとに邪険に扱い始めている。  邪魔になると判断したら、容赦はしないだろう。  前頭取の杉本もその点は抜け目がなかったが、成瀬を切るのが遅すぎた。あげくに、大森にも造反された。  成瀬は当事者だけにこの事実をよく知っている。日頃から杉本の轍《てつ》はけっして踏むまいと用心し、部下の役員たちの動向を飽かずにチェックする。当然、そのくらいのことはやっていよう。  長谷部は管理部長に会って、書類の点検にきた事実を内密にして貰い、担当者が用意してくれた書類に眼を通した。 「KSエコノミック・アニマルクラブ」はご多分にもれず、会員制の高級リゾートクラブであるのがわかった。  愛知県下の知多《ちた》半島、大野《おおの》周辺の海浜に豪華ホテルを建設し、これを中心にドリームランドを作る計画で、総額五百億円を要する大計画なのだ。  それがスタートして半年過ぎるか過ぎないうちにおかしくなっている。バブル経済崩壊のせいと言えば聞こえは良いが、けっしてそうではない。趣意書にバブル崩壊によって値下がりした土地を安く購入してと明記してあるように、不況時代に入ってから始まったプロジェクトなのだ。  横浜支店ではまず第一次の資金として十五億円融資している。この分はいわば準備資金なので、担保物件は一年以内に融資額に見合うものが入る予定になっていた。ところが、スタートまもなく、会社そのものが倒産してしまったので、十五億円がそっくり焦げつくことになった。  これでは管理部に移管になるわけである。誰が見ても、支店に任せてはおけない。  事情はほぼ掴めたが、関係書類そのものがどうこうという問題ではなかった。ただ、こんな融資がまかり通ったのがおかしい。  長谷部が支店長なら、こういう会社は受け付けない。そして、融資部長であったら、本店申請されてきた書類に承認の印を押さなかったであろう。  長谷部はコピーされている融資申込書の決裁印欄を調べた。  支店側では貸付係の担当者に書類を作らせ、融資課長、三田村副支店長、北野支店長の印鑑が押捺《おうなつ》されている。  本店側では融資部の担当者の受付印と次長、副部長、取締役等々の印が続き、最後に、なんと大森副頭取の印鑑が押されていた。  何処を見ても、成瀬頭取の印もサインもなかった。見事に頭取の関与だけが見当たらないのだ。 「わたしは何も知らなかったんだ。あれはみんな大森くんがやったことだよ。だいたい、トップがそんな三十億円以下の融資になんかかかわってはおれんよ」  と言われてしまえばそれまでだ。  かりに問題が起こっても、大蔵省も日銀も関東財務局も、成瀬の責任を追及出来ないような処置が取られていた。 「うーん」  長谷部は思わず唸ってしまった。 [#改ページ]  別 天 地 へ      1  高川明夫は急ぎ足で頭取室へ向かった。  原沢一世から声を掛けられたのだ。とにもかくにも急がなくてはならない。  原沢以前の権力者大久保英信はすでに亡くなっている。そのせいもあって、いまや、原沢一世は富桑銀行最大の権力者になっていた。  たしかに、原沢は誰に対しても低姿勢だ。言葉遣いも丁寧だし、部下を「さん」付けで呼ぶ。しかし、それは表面だけのことである。高川にはそのことがよくわかっている。 「いいですね、おたくの銀行は」  銀行協会の会合などで、彼は他行の役員からよくそう言われる。 「別に、とくによくもありませんよ」  わけがわからずそう答える。 「いや、いいですよ」  と主張して譲らぬ専務や常務までいる。 「どこがいいんでしょう」  と逆に問う。 「とぼけないで下さいよ。原沢頭取さんが特別優しいじゃないですか?」 「ああ、そのことですか?」  なあんだと思う。  あなたはどこに眼を付けているんですか、あれが上べだけのジェスチャーだと見抜けないのですか、まさかそうは言えないので、曖昧な笑いを浮かべるのみだ。 「うちはひどいですよ。トップが威張りくさっちゃって、われわれには|くん《ヽヽ》も付けないで呼び捨てですからね」  と打ち明ける。 「そうですか、しかし、却ってその方が気心が知れてよろしいじゃないですか」  と高川は答える。  言外に口先だけ丁寧でもとの思いがあるが、もちろん、相手には伝わらない。それに、こんな手合いに真相を伝える気にもならなかった。 「でもね。頭取に一度でいいから、さん付けで呼ばれてみたいですよ」  と主張してはばからぬ人物がいる。 「ふん」  と鼻を鳴らしたいのを我慢する。  世の中には暢気な幸せ者がいる。しかも、そんな連中がけっこう食いっぱぐれもせず、のうのうと生きていて、いささかもわが身を省《かえり》みず、政治や経済や、学校教育や上役や同僚、他人の家庭等々を堂々と批判する。  たぶん、聞きかじりだろうが、恥じ入りもせずけっこういっぱしのことを言うのである。 「これはどうも、お陰さまで、わたしはいつも頭取にさん付けで呼ばれております」  と高川はにこやかに応じて頭を下げることに決めている。  彼はいま頭取室に向かいながら、そういう場面を思い出して苦笑した。 「やあ、高川さん」  室内に入るや、そう呼ばれた。 「はい」  と返事をして最敬礼する。  丁重な人には丁重にすべきではあるが、原沢はとくに恭《うやうや》しくされるのが好きだ。 「石倉さんのお陰で、『星野田機械』との取引も軌道に乗りましたね」  と原沢は嬉しそうに言う。 「これも、頭取に料亭で一席設けて頂き、ご多忙のところ、わざわざご出席下さったたまものでございます」  ともち上げた。 「いや、わたしも愉しかった。また、石倉さんをお招きして、時々やりましょう」  と提案する。 「有難うございます。彼も喜ぶと思います」  お礼を言った。 「ところで、近く石倉さんは、ニューヨークへ出張すると言ってましたね」  とたしかめる。 「はい、そう聞いております」  と答えた。 「いつ、お発ちになるんですか?」 「たしか、明日の筈です」 「間違いないですね」  と念を押す。 「間違いございません」  原沢は曖昧さを嫌う。石倉から聞いた日を思い出して、はっきり返事した。 「何か、餞別をさし上げましたか?」  と訊く。 「いえ、とくに何もしておりません」  正直に答えた。 「それはいけませんねえ。すぐにさし上げて下さい」  と命じた。 「わかりました。さっそく」  と応じる。 「今日中に、そうですね。今夜にでもご自宅にお届けしなさい。出発前夜ですからいろいろあるでしょう。長居はしないように。玄関先で失礼すればよろしい」  と指示する。 「そういたします。どのくらいしておけばよろしいでしょうか?」  とお伺いをたてた。  こういう場合、むずかしい。タイミングを失うと、総務部長としての才覚を疑われる。といって、トップの意向と金額があまりくい違ってはまずい。やはり、手腕に問題ありと思われる。今度のケースのように、素直に尋ねることが出来れば一番良い。 「そうですね。百万円ほど出しておきなさい」  さらりと告げた。 「は?」  高川は耳を疑った。  たしかに、石倉の尽力で星野田機械との取引関係が出来た。大口の新規取引先が増えたことになる。  しかし、比較的短期間の外国出張のための餞別としては少し常識を外れている。そうとしか思えない。 「現金で百万円、新札がよろしいでしょう。今夜中にね、届けて下さい」  ぴしりと命じた。  うむは言わせない。いつもこうなる。 「承知しました」  高川は一礼する。 「それから、もう一つあります」  原沢は涼しい表情でつけ加える。 「先日、太平銀行の大須賀さん、矢島さんとお食事しましたね」 「はい」 「あの時も、結局、お勘定を払わせて貰えなかった。今度は東京の料亭であのお二人を招待しましょう。といって、わざわざでは申し訳ありませんから、先方が上京される時に合わせましょう。あなたがスケジュール調整をして下さい」  と頼んだ。 「わかりました。では、そうさせて頂きます」  高川は再度、深く頭を下げた。  頭取室を出ると、やはり、ほっとした。 「さん付けで呼ばれて何がいい」  と悪態をつきたい気持ちになっていた。      2  石倉克己は日本航空《にほんこうくう》のニューヨーク直行便を選んだ。  社長の好意でファーストクラスである。隣席に客がなく、ゆっくりとくつろげる。  時節柄、と石倉は遠慮したが、飯沼は聞き入れなかった。 「役員で迎えたきみに、初めて出張して貰うのにビジネスクラスというわけにはいかないよ」  と言い張った。  世をあげて経費節減に走っている。いまどき、腹の太い人物である。  もちろん、飯沼にも思惑があった。現地社長の町井正勝の落度を探させ、何とか解雇出来るような口実を得ようとの魂胆だ。  今度のニューヨーク出張の目的がそのへんにあるのは、すでにはっきりしていた。 「やれ、やれ」  彼としてはそう言いたいところだ。  飛行機が水平飛行に移ってしばらくすると、スチュワーデスが飲み物の注文を取りにきた。  石倉はブルゴーニュ産の赤ワインを頼んだ。飛んでる間はあくせくしても仕方がない。のんびりくつろぐほかはなかった。  キャビアのカナッペを口にしながらの赤ワインはなかなかいい。つい杯を傾けているうちに気分も良くなった。  昨夜、九時過ぎに高川明夫が自宅までやってきた。  出発前夜でもあるので、八時に帰宅した。ひと風呂浴びてビールを飲んでいたところなので招き入れようとしたが、断固、入ろうとしない。  餞別に菓子折りを添えて玄関の台の上に置くと、逃げるように帰ってしまった。 「うちの原沢がくれぐれもよろしくとのことです」  と繰り返す。 「お帰りになったら、ぜひ、ニューヨークの最新情報を聞かせて下さい。原沢もまたごいっしょさせて欲しいと愉しみにしております」  との口上である。  それはけっこうだが、餞別の袋を開けてみて驚いた。現金で百万円、帯封をしたままの新札が出てきた。  とっさに、何かの間違いかとも思ったが、袋の裏には、餞別として金百万円也と書かれていて、原沢一世の名前があった。やはり、間違いではないようだ。  その時になって、高川がいくら奨めても上がろうとせず急いで帰った理由がわかった。この餞別を突っ返されたり、受け取らないとごねられては困る。どうやらそれだ。原沢に念を押されているのかも知れない。  普通、外国行きの場合の餞別は、相手にもよるが、一万円から三万円、多くても五万円止まりであろう。最大でも、十万円というところだ。  げんに、社長の飯沼進からは餞別としてポケットマネーを十万円貰った。 「これは会社の金じゃない。ぼく個人の金だよ」  と言って、飯沼は片眼を閉じた。  しかし、百万円とは、どうだろう。驚くというより呆れる。こうなると、餞別ではなく、何か別の思惑を感じてしまう。  石倉は高川の自宅の電話番号を調べた。およその所要時間をみて、午後十時まで待って電話を掛けた。  まだ帰宅していないと告げられた。別に嘘ではないらしい。  石倉は自分の名を名乗り、お帰りになられたら連絡して欲しいと頼んで、念の為、自宅の電話番号を教えた。  十時三十分になっても、高川からは掛かってこない。 「おかしいな」  と呟いたとたんに、ぴいーんときた。 「そうだ。高川のやつめ、ひょっとしたら、『ぐうたら神宮』にでも行ったんじゃないかな?」  と口に出す。 「よし」  手帳を調べて、すぐ電話を掛けた。  マスターが出た。 「富桑銀行の高川さん、ええ、いらっしゃってますよ」  あっさりと答えが出た。 「ちょっとお待ち下さい。すぐ、お呼びします」  マスターが引っ込むと、待つ間もなく高川本人が出てきた。 「先程は、どうも有難うございました」  石倉はまずお礼を言った。 「あなたと原沢頭取さんの特別のお心遣いに大いに感謝しております」  と事実を告げた。 「ところで」  と言い掛けると、高川がさえぎった。 「わかっています。何も言わないで下さい」  と彼は言う。  そこへ「群青」という歌のやや荘重なメロディーが流れてきた。続いて、誰かが歌い始めた。高川の声よりずっと大きく聞こえる。これでは無理だ。とてもまともな会話は出来ない。 「そうか、きみの狙いがわかったぞ」  と石倉は言った。 「すみません。あの餞別は黙って受け取ってほしい」  と高川は頼んだ。  その声が朗々たる歌声にかき消される。抗議をしてもむなしくなる。 「しかし、いくら何でもおかしい。常識じゃ考えられませんよ」  石倉も言うだけは言う。 「何度でも繰り返すよ」  とつけ加える。 「よくわかっております」  と高川は下手に出た。 「こんなことをすれば、あなたは不愉快になる。当然、抗議の電話も頂く。すべて予想しておりました」  と打ち明けた。 「それだけわかっていながら」  石倉は少し呆れた。 「どうか、お察し下さい。あなただって、かつてはワンマン頭取で有名だった杉本富士雄さんに仕えていたじゃありませんか?」  高川はそう訴えた。  もちろん、石倉にもとっくに察しはついている。金額は原沢が決め、一切の訂正を許さなかったのであろう。 「こういうことでどうでしょう。今回はわたしの顔を立てて下さい。ニューヨークからお帰りになって、どうしても納得いかなければその時はお気の済むようにします」  と提案する。 「いいでしょう」  石倉は譲った。  これ以上、高川を責めてもしようがない。それに、もともと好意から生じたことである。文句を言うのもおかしいのだ。 「助かりました。ご理解頂いてよかった」  ほっとした口調だ。 「では、わたし個人からの餞別を受け取って下さい」 「あなたの」 「歌です。ラヴ・イズ・オーヴァーを歌います」 「ああ、あれね。あなたの得意な歌だ。ぜひ聴かせて下さい」  と石倉は応じた。 「いまセットしました。まもなく始まります。聴き飽《あ》きたらすぐ電話を切って下さい。あえてさよならは言いません。ニューヨークでのご健闘を祈ります。どうかお元気で」  高川が早口で言い終えた時、前奏が流れ出した。  続いて、高川の包容力のある柔らかい声が聴こえてきた。  ──ラヴ・イズ・オーヴァー。悲しいけれど、終わりにしよう。きりがないから。……あたしはあんたを忘れはしない。誰に抱かれても忘れはしない。きっと、最後の恋だと思うから。……  ラヴ・イズ・オーヴァー。悲しいよ。早く出てって、ふりむかないで。……  ラヴ・イズ・オーヴァー。(「ラヴ・イズ・オーヴァー」 作詞 伊藤薫)  石倉は受話器を左の耳に当てていた。高川の声には甘さともの哀しさが加わった。聴いていると魅了される。  恋の別離の歌だが、高川の声を聴いていると、人に使われるサラリーマンの哀しさが伝わってくるような気がした。 「高川さん、わかったよ」  と石倉は小声で呟く。  彼は最後まで聴いていられなくて、ちょうど三分の二が終わったあたりで、そっと受話器を置いた。      3  杉本富士雄と勝田忠は、近頃、かなり頻繁に、ちょくちょくといってしまってもよいほど会っている。  見方によっては、まるで、かつての名コンビが復活したかのような印象さえ受ける。  もっとも、このコンビはたぶんに一方通行的なコンビであった。杉本の出す命令に勝田が従順に従うことによって成り立っているコンビである。  したがって、ほんとうの意味でのコンビと言えるのかどうかわからない。が、こういうコンビも実在するということでよいのではなかろうか?  なにしろ、二人共、いたって健康状態が良好で元気である。相当の退職金を手にしているので、資金力もあった。  それに、時間にいたってはもて余すくらい、ふんだんにある。  さらに、もう一つ加えれば、これが非常に重要な要素になるが、現政権の成瀬昌之、大森英明等に相当の恨みを持っている点をあげておく必要があろう。  二人共、いまや過去の人になってしまった感があるが、頭も働くし、法律にも詳しく、依然としてかなりの人脈を持っている。知恵も人並み以上に出せる。要するに、まだまだ捨てたものではないのだ。  目的ははっきりしていた。明快すぎるくらいだ。成瀬を頭取の座から、大森を副頭取の座から引きずり下ろしてやろう。それも、ただ引きずり下ろすのではなく、出来るだけ恥をかかせてやろうと思っている。  それだけ性質《たち》がわるいというより、むしろ、恨みが深いと考えた方がよいだろう。  老人パワーを侮《あなど》ると大変なことになる。成瀬も、大森も、どの程度、意識しているのか、手強い敵を作ってしまった。  もっとも、杉本や勝田を追い出さなければ、成瀬や大森の今日はなかったのだから、どのみち、彼等は敵と敵になる運命だったのかも知れない。  伊東温泉の「山平旅館」から帰ってくると、二人は早速打ち合わせをした。  彼等にとって、温泉行きはあくまでも骨休めである。本格的な活動に入る前の準備運動なのだ。  健康ではあるが、自分たちは老人だから無理は利かない。はっきりとそう自覚していて、きちんと休養を取りながら前に進もうとしている。  もし、このコンビにハンデがあるとすれば、年齢からくる衰えであろう。ところが、二人共それをよく承知していて、休養によってカバーしていたのだ。 「先日、太平銀行の大須賀さんから問い合わせがあってね。いろいろと訊いてきた。これで二度目だ。一度目はきみにも教えた。わたしはぴいーんときたんだが、なにぶん電話でのやり取りだからね。相手の顔色まで読むわけにはいかん」  と杉本は言う。 「そうでしたか、たしか最初の電話のあと、三洋銀行が接触を望んでいる事実がわかって、これはたぶん、成瀬くんの合併工作であろうとのことでしたが」  と勝田は応じた。 「その通りだよ。あの時はわたしの第六感的な要素が強かったが、今度はね、もう少し具体化している」  と杉本は教えた。 「すると、頭取《ヽヽ》の直感が正しかった。まさに的中したということでしょうか?」  と勝田は念を押す。  彼はいまだに杉本を「頭取」と呼ぶ。正確には「前頭取」と言うべきなのに、わざと「前」を省いてしまう。杉本が正確さよりも、むしろこの種の不正確さの方を好むのをよく知っている。 「まあね、早く言えば、いや、遅く言ったところでまったく同じだが、そういうことになるねえ」  ともったいぶった。  普通の人なら、こういう言い方に接すると、きざな爺いだとしか思わないが、勝田はけっしてそんな風には考えず、尊敬の眼ざしで見返している。  杉本は勝田の視線が好きだ。イエスマンに徹して命令をよくきくのと、命令の正当性を疑ったことがない。それに加えて、この視線があったからこそ、やや愚鈍な印象さえ受ける勝田忠を筆頭の副頭取にまで引き上げたのである。  事実上、二人共銀行を離れたいまも、両者の力関係はいささかも変わっていない。杉本はもちろん、勝田の方も変えようとも思わなかった。有能、無能を通りこして、やはり気が合うのだ。 「ここはひとつ、静岡まで行くことになりそうだな」  わざと声をひそめる。 「ぜひ、お供させて下さい」  勝田はすぐさま申し出た。 「よおし、また、二人で行ってみるか」  杉本の声に力が漲《みなぎ》る。 「およその日程をお教え頂ければ、キップその他の手配はわたくしが」  と勝田は頷いて見せる。 「まず、大須賀さんに連絡して、アポイントを取ろう。新幹線ですぐだが日帰りじゃせわしない。少なくとも、一泊ということになるだろう」 「当然でしょうなあ。一泊ないし二泊で計画を立てます」  と勝田は答えた。 「そうして貰おう。明日の昼過ぎにでも連絡を頼む。それまでに大須賀さんの都合を訊いておく」  杉本は満足気に言った。      4  大須賀勇造は静岡にいる。  太平銀行本店の高層ビルの頭取室にいて、海の方を眺めていた。見飽きた光景だ。  このところ、俄に身辺が賑やかになってきた。  いまや、大須賀は大手地銀の経営者として、押しも押されもせぬ存在になりつつある。長年にわたって着実に業績を伸ばし、地場産業の発展に寄与し、地域経済の活性化と繁栄に努めてきたのだ。当然の結果だと本人は思っている。  彼は静岡県下の超有名人でもあり、実力者でもあった。  こういう実力者の許に、政治家や財界人、ジャーナリスト等々が群がるのは別に珍しい現象ではない。  ところが、ここにきての大須賀をめぐる動きは、従来の動きと少し違う。いや、少しどころではなく、かなり違うと言ってもよい。  もとより、そのことに気付かぬ大須賀ではない。が、彼は平然として何も気付かぬふりをしている。来るものは拒《こば》まず、招かれればスケジュールの許す限り出て行く。  元日銀支店長と三洋銀行の取締役総合企画部長が来た。  次いで、富桑銀行の原沢頭取と取締役総務部長の高川が来て、焼津グランドホテルで昼食会を開いた。  こちらは大須賀の上京を待ち、東京でお返しをしたいと望んでいる。  三洋銀行のトップ成瀬昌之も会いたいと希望し、頭取室や役員応接室の絵の入れ替えをしたいので協力して欲しいとの申し出である。もともと、彼は絵が大好きなので一家言持っている。望むところだ。  今度は以前からの知り合い杉本富士雄から連絡が入った。前副頭取の勝田を連れて静岡へ行きたいと告げた。もちろん、大歓迎である。ぜひどうぞ、お待ちしておりますと返事をしておいた。 「まったく、どうなっておるんだろう」  大須賀は苦笑した。  が、内心は喜んでいる。  大須賀のように自己顕示欲が強く、他人に誉められるのが好きな人物は、無関心でいられるより注目される方を望む。相手が何を考えていようと、どんな意図を持っていようとおかまいなしだ。  自信家の常で、たかをくくっている。もし、問題が生じるのなら、その時になって対処すればよいと気軽に考えていた。  金融界に身を置いていながら、経営が順調で、東京や大阪、名古屋、横浜、福岡、札幌《さつぽろ》あたりが本店所在地でなかったのが有利に働いたのか、幸いしたのか、厄介な問題を一切引き起こしていない。  どんな銀行でもささいな問題はしばしば起こる。借りた金を返さぬ主義の人もいるし、悪質な詐欺師も多い。銀行員にも不心得者がいて、平気で銀行の金を盗む。不正融資をしてリベートを取る者も出てくる。  しかし、この種の事柄はあまり大事にならない。少し時間を掛ければ、何とか解決出来るからだ。トップが責任をうんぬんされるたぐいのことではなく、担当者に任せればよい。そのために、担保や保証人を取り入れているのだ。  骨身を惜しまずに働く担当者も大勢いた。有名大学卒の優秀な人材を次々と採用し、彼等を適材適所に配置して鍛え、常に叱咤激励している。日本の銀行員は実によく働く。一部の不心得者を除けば、大多数の行員たちが給料以上の働きをして、銀行を支えてくれる。  ともあれ、大須賀勇造は近頃、とことん追いつめられたことがない。  そのため、表面的にはすべてに鷹揚で、自信を持っている。もちろん、裏へ廻ればきれい事だけではすまない。当然、したたかで小ずるいところもある。が、通常、それは他人には一切見せていなかった。 「どうやら、面白くなってきたぞ」  と彼は呟いた。 「さいわい、お客さんが大勢いる。おまけに、見物人まで増えてきた」  とつけ加えて、ほくそ笑んだ。  ふと、気を取りなおして、秘書課に通じるインターホーンを押す。 「矢島常務をすぐ呼んでくれ」  と命じた。  二分後、ノックの音がして矢島隆也があらわれた。 「ああ、矢島くんか、そこへ掛けたまえ」  小会議用の椅子の一つを指さす。  自分も近くへ来て、坐った。が、すぐに立って周辺を行ったり来たりする。 「きみはどう見る?」  いきなり訊いた。 「は」  矢島は途惑った。質問の意味がよくわからない。前段階が故意に省かれているからだ。 「きまってるじゃないか」  とたしなめる。 「もしや、富桑銀行の原沢頭取と高川取締役のコンビの件でしょうか?」  と尋ねた。  矢島としては勘違いしたまま突っ走りたくない。一時的には恥をかいてもたしかめる方を選んだ。 「コンビだと?」  大須賀はじろりと睨んだ。 「連中がどんなコンビを組もうと知ったことか!」  と言い放った。 「はあ」 「きみは木をみて森を見ておらん」  と説教する。 「どうも申し訳ありません」  矢島は頭を下げた。 「よろしい。素直に詫びるのであれば仕方がない。教えてやろう」  大須賀は気を取りなおした。 「ここにきて、三洋銀行と富桑銀行が相次いで接触してきた。富桑の方は原沢頭取がわざわざ静岡までやってきた。この忙しいのに、あの人は焼津グランドホテルのフランス料理が食べたくてお出ましになったのかね?」 「………」  矢島は黙っていた。こんな時、何か言えば揚げ足をとられる。大須賀は人の揚げ足取りが大好きなのだ。 「一方、三洋の方では成瀬頭取が来たわけではない。しかし、来てくれと言えば飛んでくるだろう。名画の買い付けをわたしに頼んできた。わたしの鑑識眼の高さを正しく評価しておる。その点はえらい。敵もさる者と言えよう。わたしとしては、この際認めてやってもよい。が、あれは一種の罠だ」  と言い切った。 「罠と申しますと」 「陥《おと》し穴だ」 「は?」 「大きな穴を掘って、わたしをその中へ落とすつもりだよ」  と教える。 「まさか?」  つい口に出した。 「まさかとは何だ。きみにはもののたとえがわからんのか?」  と詰《なじ》る。 「いえ、わかります」  言い張った。 「さっぱりわかってはおらん」  と断定する。 「申し訳ありません」 「うむ、まあいい。きみがわからんのも無理はない。もし、わたしほどにわかったら、危なくてとても近くへ置いてはおけん。とっくに出向だ」 「それはどうも」  矢島は仕方なく苦笑した。 「常務取締役になれたのも、そんなところだ。あんまり第六感が働かんせいだよ」  皮肉とも、揶揄《やゆ》とも取れる言い方をする。 「仕方がない。急いでも無駄だ。ここしばらくはなりゆきを見るほかはなかろう」  大須賀はもう矢島の方など見向きもせず、改めておのれに言いきかせた。      5  すでに触れたように、神谷真知子のニューヨーク暮らしに、色どりとふくらみが加わった。  ブロードウェイの演劇青年リチャード・ジョンソンが、少しずつ単なる友人ではなく恋人のような役割を果たし始めていたからだ。  日本にいる時、彼女には特定の恋人がいなかった。仕事に生き甲斐を感じ、多忙な毎日を送っていると、その必要は感じない。  結婚するつもりもないから、お見合いを奨められても生返事をしていた。若い男は自尊心が強い。気乗り薄なのが相手にも伝わり、誰しも熱心に口説く情熱を失う。 「その内、気が変わったらお電話下さいな。いい方を紹介するわ」  と言ってくれる友人がいる。 「どうも有難う。お心遣いに感謝します」  と真知子は素直に礼を言う。 「その代わり、気が変わったら、まっ先にお知らせするつもりよ」  と約束した。  しかし、自分でもそう簡単に気が変わるとは思わなかった。仕事が面白いうちはその気にならないだろう。漠然とそう思った。  ニューヨークでの生活が、期待外れに終わった事実については、かいつまんで述べた通りである。張り切りすぎたり、期待が高すぎたりすると、しばしばこうなる。  が、いまになって事態は少し変わった。  リチャードの影響で、彼女は演劇に関心を持つようになり、いっしょにブロードウェイに通い始めた。コンサートへも行く。オペラも見に行った。  この方面の趣味が一度に満たされた。銀行の同僚たちは彼女の変化を喜んだ。何となく扱いにくかったのに、これでかなりまともになった。多くの同僚たちがそう考えた。  ただ、一か月が過ぎ、二か月が過ぎ去る頃まではこういう傾向はいささかほほ笑ましい。三か月が経過すると、新しさがなくなり日常生活の一部になる。  リチャードの存在もほぼ同じである。二人の仲が次の段階へ発展してゆかない限り、いっしょに芝居を見たり、お茶や食事を共にしたり、散歩を繰り返したりするだけでは、単なるボーイフレンドにすぎない。  二人は歩く時、腕を組むことはあったが、それだけだ。リチャードは必要以上の接近を試みようとしない。一か月が過ぎ去ろうとする頃から、真知子はそのことに気付いていた。何故か、三か月が過ぎても事態はさして変わらなかった。  あまり意識せぬようにしようと試みたが、それは無理というものだ。自分には女性としての魅力が乏しいのか? もっとはっきり言ってしまえば、性的魅力が皆無なのか? そんなふうに自問せざるを得なくなる。  リチャードは彼女を誉めたたえた。口ではとても魅惑的だとも言った。花束をくれたり、チョコレートをくれたりする。  真知子も贈り物をした。シャツやセーターやネクタイなどで、彼女の選ぶものの方がずっと高価な品だ。  それは仕方がない。真知子の方がはるかに収入が多いのがわかっていたので、当然だと思っている。  さらに一か月が経過すると、真知子は苛立ちを覚えるようになった。欲求不満と言えよう。  そのくせ、二人は週に一度か二度は会っている。連れ立って出掛ける。それでいて、機会はいくらでもあるというのに、男と女としての接触がないのだ。ただの一度も……。  彼女は引っ込み思案の女ではない。一計を案じた。リチャードを旅行に誘ったのだ。二人だけでの旅である。見方によっては、ハネムーンといささかも変わらない。そういう旅であった。  一週間の休暇を利用して、思いきってニューヨークを離れる。出来れば、まったくの別天地がよかった。  マイアミやカリブの海も良いが、ニューヨークからだと少し近すぎるし、いかにもありふれている。ニューヨークのビジネスマンたちが週末にあまりにも気楽に出掛けて行く場所である。  真知子にははっきりした目的があった。リチャードと性の快楽を共にしようとの意図である。出来ればまったく違う所の方がよい。世界が変わる。たしかに、海や太陽はあっても、ニューヨークの暮らしぶりそのものを引きずって行ったのではあまり意味がない。  となると、むしろ、アメリカ国外へ出た方がよいのではあるまいか?  メキシコシティか、ペルーの旧インカ帝国か、それとも?  真知子は想像力を働かせて、ついに、これならばという候補地を見つけた。  ブラジルのリオ・ディジャネイロを選んだのだ。  コパカバーナか、イパネマの海岸、どちらでもよいと思った。いずれにせよ、ブラジルは情熱の国である。ニューヨークから約八時間のフライトで着くのもわかった。リオ行きの直行便が毎日飛んでいる。  リチャードに話すと、眼を輝かせた。 「一度行ってみたいと願っていた所だよ」  と息を弾ませる。 「でも、遠いね。旅費が掛かるだろうな」  彼はたちまち暗い顔付きになった。 「その点は大丈夫よ。飛行機代と滞在費、すべてわたくしが持つわ」  真知子は少し顎を突き出した。 「それは?」 「気にしないでね。平気よ。お金はたっぷりあるの。あなたはただ一週間のスケジュールを空けて下さればいいのよ」  と彼女はせまった。  押し問答はさらにしばらく続いたが、結局、リチャードは承諾した。 「ずっと以前、高校生の頃にシスコで古い映画を見た」  と彼は言う。 「まあ、どんな映画?」 「『オルフェ・ネグロ』という映画だよ。フランスの監督が作った映画でね。リオ・ディジャネイロのスラムが舞台になっていた。その時以来、行ってみたいと思うようになったんだ」  と教えてくれた。 「わたくしはその映画知らないけど、でも、面白そうね」  彼女も興を覚えた。 「ホテルはどこにする? コパカバーナとイパネマのどっちがいいの?」  真知子は挑発する。 「イパネマにしよう。『イパネマの娘』という有名な歌がある」  とリチャードは決めた。 「わかった。サンバのヒット曲ね。すぐに予約を入れるわよ」  真知子は珍しくはしゃいだ。 [#改ページ]  波《は》 瀾《らん》 含 み      1  松岡紀一郎は何となくさっぱりした顔付きをしている。  近頃の彼は福岡支店内でもあまり苛立つことがなく、行員たちにいちいち小言も言わなくなった。何故か、以前より温厚な人になっていた。  もちろん、自分でも少しは自覚していて、博多暮らしに馴れたせいであろうと考えた。が、それはあくまでも表面的な理由だ。ほんとうのわけははっきりしている。 「茉理花」のママ小森理花の存在である。彼女が大きな役割を果たしていた。彼の苛立ちや欲望をたちまち吸収してしまうのだ。しかも、さり気なく着実に吸い取っている。  おかげで、彼はあまり意識せずに微温湯《ぬるまゆ》に漬かったような状況の中にいた。居心地はわるくない。それどころか、なかなか良いと言える。一日が早く過ぎ、夜になるのが待たれる。夕方に近付くと、なおさら機嫌が良くなった。  副支店長以下の行員たちはこういう変化を喜んでいる。当然であろう。上の者が苛立ってかりかりし、ささいな事柄ですぐに叱りつけられるより、温厚で、いつも笑顔を浮かべて見守っていてくれる方がよほどよい。  ただ、むずかしいのは、温顔で笑顔主体の毎日が続くと、部下たちは油断し、いい気になり、図に乗って上司を小莫迦にする。緊張を忘れ、ミスを犯し、そのミスに馴れてすっかり弛緩してしまう。  あげくに、優しい上司を批判する。こうなると誰もが錯覚を起こす。多くの人が強力な指導者のきついムチを待ち望んでいるとしか思えなくなるからだ。  上司たる者、やはり、アメとムチを交互に、上手に使いわけるほかはあるまい。  だが、松岡の場合はこういう配慮をしたわけではない。  前頭取杉本富士雄の合併案潰しに加わり、成瀬昌之のブレーンとして動いた。その成瀬が新頭取となって、いよいよ脚光を浴びる時代が来たと喜んだのも束の間で、福岡支店に飛ばされてしまった。  赴任当初は忿懣とやり場のない怒りが頭をもたげた。福岡支店のスタッフに恨みはないが、どうしても、日常顔を合わせる副支店長以下の行員たちがとばっちりをくう。松岡も強気でことに当たってきたが、一皮むけば弱い人間だ。そういう人間の弱さが露呈したと言えよう。  彼は苛立ちを隠さず、部下行員たちに当たり散らした。とくに成績のわるい行員、規律を乱す者、遅刻や早退、休みの多い者、不平や文句を口にする者たちを容赦しなかった。  朝礼や全体会議で名指しで面罵し、ボーナスも大幅に下げた。  こうした荒療治、もしくは徹底したムチが効を奏し、福岡支店の業務成績はじりじりと上昇し始めた。なにしろ、松岡は前業務推進部長である。支店長になって業績が上がらなければ目も当てられない。  そういう事情があったにせよ、強力なムチが思わぬ効き目をあらわしたのはたしかだ。  松岡はそれを知ると勢いを得た。期せずして効果が上がったのをみて、これだと思い込んでしまった。ゴマは絞れば絞るほど油が出るとは昔の人の言いぐさだ。しかし、当然のことだが限界はある。  松岡の眼は支店内に向いてはおらず、東京の本部の、しかも中枢部に向かっていた。早く本部に戻りたいとの熱望が常に心の底にあった。ほかのことは二の次になる。  そのため、部下行員たちの我慢の限界のことなど考えもしなかった。  もし、このまま二年目に突入して行った場合、どうなるのか?  部下の謀叛《むほん》、ないしは反乱、あるいは本部への直訴、怪文書の配付等々の不名誉な事件がもち上がらないとも限らなかった。そうなれば、せっかくの業績も帳消しになり、マイナス点がつくだろう。当然、支店長失格の烙印も押される。  勝田忠と杉本富士雄の突然の訪問には驚かされた。はっきりした意思表示はひかえたものの、心が動いたのはたしかだ。成瀬がこれ以上ないがしろに扱うのであればとの思いがどこかにある。  小森理花が思いがけぬ役割を果たしてくれた。彼の苛立ち気味の荒《すさ》みかかっている気持ちをやんわりとくるんだのだ。もちろん、彼女は松岡の置かれている立場をよくは知らない。積極的に知ろうとも思わなかった。  何故なら、知っても彼女自身がどうにも出来ぬ現実をよく心得ていたのだ。彼女は己れの立場をわきまえている。自分のサービスや奉仕に限界がある事実を始めから承知していた。  彼が何かを訴えたり、話したりするのであれば、彼女はためらわず聞き役になる。別に知恵を出すわけではなく、単なる聞き役であり、慰め役だ。  その代わり、彼に快楽を与える。肉体で慰めることには自信を持っている。男性経験が豊富なおかげであろう。相手のしぐさやささいな反応でおよその見当がついた。このタイプの男が何を嫌い、何を好くのかよくわかるのである。  単身赴任者の性的不満と他人には悟られたくない、むろん、言いたくもない孤独感まで、ごく自然に癒やされてゆく。それも当人があまり意識せぬうちに、いつの間にか癒やされていたのに気付くことになる。  したがって、支店内での松岡の態度が少しずつ軟化し始めた時も、当人はあまり意識しておらず、まして、ムチをアメに替えたとは思っていなかった。  勝田忠から電話が掛かってきた時、松岡は現実に引き戻された。弛緩気味の表情がいくらか引き締まった。 「先日の件覚えているでしょう」  と勝田は言う。 「どの件でしたっけ」  とっさにわからず訊き返した。 「一番大事なことですよ」  と勝田は強調する。  そう言われてもぴんとこない。要するに、成瀬に対する巻き返しを図るため、杉本、勝田のタッグチームに入れとしきりに勧誘された。かなりしつこかったのを覚えている。その後も勝田は何度か電話をくれた。 「困るね。そんなことでは」  勝田は苦言を呈した。 「新たな合併問題ですよ」  とつけ加える。 「え!」  松岡は息を呑んだ。 「合併とおっしゃいましたか?」  と訊き返す。 「この前耳打ちしたでしょう。成瀬くんが合併の相手先を探していると」 「あ、あの件ですか?」  と言い淀む。  たしかに、その件は上京の折り、長谷部に訊くつもりではいたものの、果たせぬまま帰ってきた。というのも、長谷部の周辺や本部内で、前回の時と違いそんな気配がまったく感じられなかったからだ。  何となく老人たちの作り話のような気がして、あまり気にならなくなっていた。なにしろ、小森理花と親密な仲になるや、苛立ちがおさまり、人を疑う気持ちが減少している。鋭さが消えて、丸味が増してきたと言ってもよいだろう。 「あの件はないでしょう。これは重要な問題ですよ」  と念を押す。 「わかっております」  と答えた。 「なにしろ、成瀬くんは徹底した合併反対論者だった。われわれの合併案も潰しておる。しかるに、自分がトップに立つと、さっそく合併先を探し始めた。納得出来ない。杉本顧問も憤慨しておられる」  と勝田は言い張った。 「実は、先日上京した時にそれとなく探ったんですが、あまり気配が感じられなかったもので、立ち消えになったのかと考えておりました」  と応じた。 「改めて言うまでもなく、合併話は深く潜行しますからね。とくに初期から中期段階ではそうなるでしょう」 「たしかに」 「実は、新しい情報が入ってね。近いうちに静岡へたしかめに行きます」  と勝田は告げた。 「静岡に?」  松岡は怪訝《けげん》な声をあげた。 「今度の静岡行きでかなりの部分がはっきりしますからね」  と勝田は断言した。 「長谷部くんも静岡へ出張していますよ。調べればわかることです」  得意気につけ加えた。  急に肩を強く叩かれたような気がして、松岡は顔をしかめた。 「長谷部が」  と絶句する。 「またお知らせしますよ。とにかく、あなたは博多で頑張って下さい」  と勝田は言った。  その言い方が、面白くない。まるで、きみはずっと九州で縁の下の力持ちを続けなさいと言っているように聞こえる。 「………」  思わず、むっとした。  気が付くと、電話は切れていた。      2  長谷部敏正は横浜支店の事を気に掛けながら、静岡へ向かった。  行き先ははっきりしている。静岡駅前に巨大な本店を持つ太平銀行だ。頭取の大須賀勇造に会うのが目的である。  前回、大須賀は歓迎の色を見せた。紹介者が日銀関係者であったせいか、長谷部が気に入られたのか、たぶん、その両方であろうという気がする。  購入したばかりのユトリロの名作を見せてもくれた。長谷部が興味を示したのを喜び、まるで同好の友があらわれたかのように愛想がいい。  それを思い出すと、気が楽になった。今度も秘書課長に電話を入れると、大須賀が直接電話口に出てきて、気持ち良く時間を空けてくれた。 「わたしの方でもいろいろとあなたにお尋ねしたいことがありましてね。近くご連絡しようと思っておったところです」  と大須賀は言った。 「せっかくですから、どうでしょう。夕方、五時過ぎにでも来て頂いて、夕食をごいっしょし、一泊して下さい。なあに、ホテルはこちらでおさえておきます」  とつけ加えた。  またとない申し出である。こういう場合、親しくなるためには思いきって相手の好意に甘えた方がよい。後で、返礼はいかようにでも出来る。もし、断わったりすれば成瀬に叱られるだろう。  果たして、頭取室へ行って報告すると、成瀬は機嫌の良い笑顔を浮かべた。 「それはよかった。きみが気に入られたんだよ。大須賀さんの指導で役員室の絵を入れ替えよう。相手のふところへ深く踏み込むチャンスだからね」  と眼を輝かせて言いつのる。 「一泊でも二泊でもかまわんよ。そうだ。その後岐阜へ廻りなさい。土、日にひっかければ少しはのんびり出来る。すべて出張扱いで行きたまえ」  と言い添えてくれた。  おかげで、木曜日の今日は静岡に一泊し、金曜に岐阜へ向かって、金、土、日と久しぶりに家に帰って泊まれる。月曜日の朝出て、十一時過ぎには本部へ入るというスケジュールが決まった。  東京では大学生の息子と同居している。岐阜の家には妻と娘が居た。一か月に一度位は帰る約束がこのところあまり守られてはいない。仕事に追われづめで、すでに三か月近く帰れなかった。  成瀬はそういう長谷部の日常を知っていて、気を遣ってくれたらしい。  長谷部は何となく気分良く東京駅で新幹線のこだま号に乗り込んだ。のぞみ号やひかり号に乗ってもっと遠くへ向かう時にくらべて、ほっとする。こちらから押し掛けるかたちにはなったが、少なくとも招かれざる客ではないと信じている。  実は、長谷部自身も大須賀勇造の磊落《らいらく》で、面倒見のよい人柄に魅力を感じ始めていた。絵画への造詣が深いのはたしかだが、それだけにとどまらず文化的な匂いも感じられる。銀行経営者にありがちな業績一辺倒派ではなかろうという気がする。  杉本富士雄に成瀬昌之、そして富桑銀行の原沢一世、少なくとも三人の前及び現頭取を直接、間接に知っている。  実は、これらの頭取たちもそれぞれにくせがある。いずれもなかなかの人物であり、能力や知恵の発揮だけではなく、運にも恵まれた人たちだ。悪人ではないが、けっして人柄が良いとは言えない。機を見るに敏で、要領がよく、常に狡猾で、時には老獪《ろうかい》でさえあった。  だからこそ、生き残ってこられたと言えよう。人を踏み台にしたり、利用したり、平気で見捨てたり、犠牲を強いても平然としていられたからこそ、彼等の今日がある。倒れ込まずに、己れの両足で立っていられるのだ。  それにくらべて、いや、大須賀とてこういう要素を持っているに違いない。その点はたしかであろう。改めて疑う余地もなかったが、前記の三人とはいくらか違うような気がする。  これらの三人が大学を出て、大勢のサラリーマンの一人として入行し、優秀な人材との競争に打ち克ち、健康も維持し、すでに触れたように運にも見放されず、一直線に進んできたのにくらべて、大須賀は地方に本店を持つ中堅銀行という有利さもさることながら、親譲りのオーナートップとして、早くから堂々と君臨してきた。  したがって、自分の自由時間も持てた。読書時間も外国旅行も多く、ごく自然に教養も身につく。趣味の幅も大きく拡がっている。とくに絵画についてはプロ級の鑑識眼を持ちつつある。  その違いであろうか?  どうも、それだけではないような気もする。が、いまの長谷部にはまだよくわからなかった。  おそらく、こういう謎も大須賀の魅力の一つであったに違いない。  ともあれ、大須賀が銀行経営者としては相当スケールの大きい人物であるのはたしかだ。列車が静岡に近付くにつれて、しきりにそんな気がしてきた。      3  同じ日の午後四時、横浜支店の支店長代行を命じられた三田村好夫が、しきりに時計を気にしながら本部に着いた。  成瀬頭取に呼び出されたのだ。  長谷部が午後三時過ぎに出発するのを、成瀬は知っている。その留守を狙ったのかどうかはわからないが、午後四時と時間を指定された。  支店長は多忙だ。日常の業務に追われる。まして、三田村の場合はずっと副支店長を務めてきて、いきなり支店長代行の辞令を貰った。正直なところ荷が重い。  北野支店長は入院したままである。普通の事故ではなく、何者かに狙撃された。依然として犯人は不明で、事件はまだ解明されていない。  銀行の人事部は新しい支店長を赴任させるより、支店の事情に詳しい副支店長を昇格させ、一時的に支店長代行にした。むろん、これは臨時の処置であり、近く、正式な支店長発令がなされるであろう。  三田村は秘書課の脇にある応接室に案内された。ここは頭取以下の役員たちに面会するために訪れる者用の待合室の感があった。とはいえ、そう広くはなく十名も入れば坐る場所がなくなる。  どういうわけか、客は三田村一人だ。むしろこれは珍しい。ほっとしたものの、時間の経過と共に退屈してきた。急いで駆けつけたのに、四十分待たされた。  頭取室に入ると、成瀬がじろりと睨んだ。ほんとうに睨まれたのかどうかはよくわからないのだが、少なくとも三田村はそう感じて縮み上がった。表情も躰も固くなる。 「なにをびくびくしてるんだね」  と成瀬は言った。 「もっと、近くへ来て、そこへ掛けたまえ」  そう言って、頭取用の大きな机の反対側にある補助椅子を指さした。 「はい」  と頷いて、三田村はおずおずと坐った。 「ふん」  と成瀬は鼻を鳴らした。 「どうして、そんなにおどおどするんだ。何かわるいことでも仕出かして、必死に隠そうとしているとしか思えんよ」  と揶揄するように言う。 「どうも申し訳ありません」  三田村はまともに受け取って、深く頭を下げた。 「ほかでもないが、きみはどうして『KSエコノミック・アニマルクラブ』の名を長谷部くんに教えたんだね?」  と低い声で訊く。 「わたくしは、教えてはおりません。わたくしは」  と三田村は答えた。 「きみが教えもしないのに、どうして長谷部くんが知っているんだね」  と問いつめた。 「さあ」  三田村は途惑った。 「きみのほかに、支店内に告げ口でもする者がいるのかね?」 「いえ、そんな者はおりません。いない筈です」  と言い張った。 「そうかね?」  疑わし気に呟く。 「あの会社のケースは少し特殊だ。詳しい事情を知っているのは北野支店長ときみぐらいだろう。ほかには誰かな? 融資課長も少しは知ってるかね?」  とたしかめる。 「いえ、彼は申請書類を作成しただけですから、あまり知らないと思います」 「それなら、きみがしっかりしておればよろしい」 「はい」  三田村は頷いた。 「今日来て貰ったのはほかでもない。北野支店長の不幸な事件の原因が、いままでわたしにはよくわからなかった。もちろん、細かい問題はたくさんある。これだけの大銀行になると、全国の支店や出張所で毎日いろいろなことが起こる。わたしの耳に入ってこない事柄だってあるに決まっている。しかしそれはそれとして、銀行の支店長が拳銃で撃たれるなんて、いかにも異常だ。今後もあっては困るし、二度と起こってはいけない事件だよ」  と強調する。 「わたくしもそう思います」  三田村は神妙に答えた。 「本題に入ろう。先日、長谷部くんの報告を聞いているうちに、おや、と思った。理由ははっきりわからんが、ひょっとしたらと思えてきた。『KSエコノミック・アニマルクラブ』の社長沼部雷太は、『聖友会病院』の院長福山満寿雄の甥だ。あの病院にはやくざ者のような事務長もいた。クラブはとっくにおかしくなっていて、当行の融資も焦げついておるし、借金はあちこちにある。沼部は逃げ廻っているとの報告も受けた。病院の経営も思わしくない。彼等が最近になって、北野支店長に何か難題をふっかけていたというような事実はないのかね?」  と尋ねた。 「沼部さんも、福山さんも何度か支店にお見えになりました。支店長は銀行以外の場所でもあの二人にちょくちょく会っています。関内の料亭やチャイナタウンの高級中華料理店に呼び出されておりました」  と報告する。  成瀬は腕組みした。 「すると、彼等が事件とかかわりを持っているかも知れぬ。何も犯人とは言わぬが、そういう可能性も考えられる」  とつけ加えた。 「え、沼部が犯人?」  三田村は驚きの声をあげた。 「めったなことを言ってはいかん。わたしが指摘したのは可能性の問題だ。北野くんが脅迫されていたような事実はないのかね?」 「さあ」  三田村は首をひねった。 「いますぐでなくてもよいが、事件の前一か月位の出来事をよく思い出してわたしに知らせなさい」  と成瀬は命じた。 「支店長はわたしには何も言ってくれませんが、事件の一週間位前からちょっと変でした。疲れきっていた様子でしたし、精神状態も少しおかしくなっていました」  と教えた。 「うーむ」  と成瀬は唸った。そして、もう一度腕を組みなおした。      4  長谷部は歓待された。  先夜とは違う料亭が押えてあった。 「明日岐阜へ行かれると聞きましたので、ホテルは駅前に変更してあります」  と大須賀は愛想よく言う。  長谷部は上座に坐らせられ、大須賀と二人だけで向き合うことになった。  始めはいささか気遅れを感じたものの、すぐに馴れた。年齢も財力も地位もかなり違うが、何となく相性が良い。話し込んでいるうちに、心が通い合うような気がしてきた。  不思議なもので、一方がそう思うと、ほぼ同じような感情がごく自然に相手にも伝わるものらしい。厄介なのは、この反対の場合であろう。  話せば話すほど違和感が生じ、黙っていればいたで、沈黙の重さが増してきて居たたまれなくなる。顔付きや声音、ものの食べ方や歩き方に始まり、ささいな動作や態度までがいちいち気に障る。こうなると、もういけない。むしろ、少しでも早くかかわりを絶った方がよい。下手に出て何とかなどと思わぬ方が身のためである。  さいわい、大須賀と長谷部の間はきわめて友好的になっている。もし、逆になったら悲劇であろう。とくに、長谷部はある役割を背負わされてやってきた。たちまち、その役目が果たせなくなる。  大須賀は約一年前の富桑銀行との大型合併が失敗に終わった原因について、いくつか質問をした。長谷部は知っている限り答えた。すべては過去の出来事だ。いまとなってはもう隠さなければならぬ事柄ではなかった。  大須賀がとくに興味を持ったのは、長谷部、石倉、松岡等同期生三人のその後である。 「なるほど、身につまされる話だ。誰にとっても大きな試練が待ちかまえていたことになりますな」  と大須賀は言う。 「まったく、うちの役員や幹部行員たちに聞かせてやりたい。なにしろ、当行の行員たちは上から下まで、ずっと四六時中、飽きもせずに微温湯《ぬるまゆ》に漬かっているようなものですからね。進歩も危機感もない。それですんでしまうんですから始末がわるい」  歯がゆそうにつけ加えた。 「そんなことはありません。皆さん優秀な方たちですよ。もちろん、トップの指導力が抜群という幸運に恵まれておられるのはたしかですが、なにしろ、あれほど着実に業績を上げておられるんですから、行員の方々の質も超一流ではないでしょうか」  長谷部は思ったままを口にした。誉めているという感覚があまりない。それが大きな効果となった。 「何をおっしゃる」  大須賀は照れた。 「そんなふうに言って下さる人はあまりありません。お世辞にしても有難いことです」  と礼を言う。 「ほんとうのところ、静岡に本店があるのはうらやましい限りです。わたしも地方に住んでいますので、地方の良さがわかります。早く東京を離れたいと思っています。太平銀行さんのように東京から一歩離れて堂々とやっておられる。これが一番すばらしいんじゃないでしょうか?」  長谷部は熱っぽく言った。 「そうですか、実はわたしもそう思っているんですよ。あなたとわたしはまさに同じことを考えていた」  言いつつ、大須賀は右手をさし出す。  二人は固く握手した。 「ところが、わたしの部下たちの多くはあなたのようなしっかりした考えを持っていない。困りものです」  と顔をしかめる。 「そうでしょうか?」 「東京及び東京の人たちにコンプレックスを抱いていて、憧れてもいるし、羨ましがってもいる。とてもかなわないと始めからギブアップしてしまう。このタイプは簡単に騙されます。反対に、東京の人間は冷たくてずるくて嘘つきだと思い込んでいる連中もいましてね。これも困る。用心深いのは仕方がないとしても、彼等を東京支店へ出しても仕事になりません。多かれ少なかれ、どちらかに入ります。新幹線に乗ればすぐに着くのにこのありさまですよ。まったく、不思議な位だ」  と言い張った。 「たしかに、二つのタイプがあるようです」  長谷部は同意した。  彼は岐阜に自宅があるし、名古屋支店長を務めた経験もあった。まわりを見廻すと、大須賀が言うほど極端ではないにしても、思い当たるふしがあった。 「ところで、石倉さんはいまはメーカーに、松岡さんは福岡支店長でしたな」  と訊く。 「そうです。もう一人同期生で学者タイプの宮田隆男が大学教授になりました」  と教える。 「なるほど、実に多彩だ」  大須賀は感じ入ったように頷いた。 「わたし共の銀行でしたら、あなたを筆頭に石倉さん、松岡さんはいきなり常務取締役でお迎えする用意があります。もちろん、一期二年で専務に昇格して頂く。宮田さんの場合はげんに大学教授をしておられる訳だから、非常勤の監査役にでもなって頂いて、年に何回か、幹部行員を対象に経済情勢を分析した講義をお願いしたい」  真顔で言う。 「これは買いかぶりです。彼等がいまのお申し出を聞いたら喜ぶでしょう」  長谷部は冗談として受け取った。 「これは冗談ではありません。いますぐには無理でしょうが、いずれ実現する日が来るのを大いに期待しております」  大須賀は真面目くさった表情をいささかも変えずに言った。 「どうも恐れ入ります」  今度は長谷部の方が照れた。 「そのうち、ぜひ、石倉さん、松岡さん、宮田さんもご紹介下さい。あなたも含めて同期会をやりましょう。ちょっと邪魔でしょうが、わたしもぜひオブザーバーとして参加させて貰いたい」  と頼んだ。 「わかりました。機会を見て紹介させて頂きます」  長谷部は応じた。  こんな調子で両者の会食は順調に進んでいる。むしろ、あまりにも順調すぎる気配さえあった。  食事は終わりに近付き、果物が出た。地元名産のいちごである。 「ところで、御行《おんこう》さんの成瀬頭取が急に御好意を示して下さり、わたくしに役員室の絵の世話までさせて下さるのはどうしてでしょう。わたしはまた、そういうことが大好きでしてね。この部屋にはこんな絵がふさわしいなどと考えるのが生き甲斐なんですよ」  と言い始めた。 「ご迷惑じゃありませんか?」 「とんでもない。大きな喜びです。それだけに成瀬頭取の御好意に甘えてしまってよいのかどうか? 迷いもあります。何か考えておられるんでしょうか?」  と探りを入れた。 「たぶん、御行さんともっと親密になりたいと考えているのではないんでしょうか。近く本人にご挨拶させますので、なんでしたら直接お訊きになって下さい」  と長谷部は答えた。 「そうですな。ご本人に尋ねればはっきりする」  と大須賀はにやりと笑った。 「さすがだ」  とつけ加える。 「どうも奥歯にものの挟まったような言い方で申し訳ありません」  と長谷部は詫びた。 「なあに、それでいいんですよ。口は災いのもとだ」  と大須賀は断定する。 「ところで、この前、富桑銀行の原沢頭取と高川取締役がお見えになりましたよ」  と何気ない表情で告げた。      5  リオ・ディジャネイロは快晴である。  北半球のニューヨークから南半球のリオへ、わずか八、九時間の飛行で行ける。そうは言っても東京—ジャカルタ間位の距離はあった。  北アメリカの中心部での暮らしに馴れた者にとって、南アメリカは別天地だ。  とくに、リオ・ディジャネイロはかつてブラジルの首都であり、早くから観光地として開けた。大西洋に面したコパカバーナやイパネマの海岸線は見事というほかはなく、さまざまな色の灯のきらめく夜景は、ナポリ、香港と並び、世界三大美景の一つと言われている。なかでも、リオは独特のエキゾチズムをそなえていて、訪れる人たちを魅了する。  神谷真知子とリチャード・ジョンソンも、リオの魅力に取り憑かれたカップルと言えよう。  真知子のやや強引な誘いにリチャードが乗ったかたちになったものの、彼も後悔はしていない。リチャードは訪れる前からリオへの憧れを隠しはしなかった。  二人はイパネマ海岸のほぼ中心部に位置している「シーザーパークホテル」に入った。真知子がニューヨークで予約した日系の超高級ホテルである。  空港からタクシーに乗った二人は、ニューヨークとはまったく違う風景に思わず驚きの声をあげた。海から沖合に突き出た二つの奇妙な山がある。「ボンデアスーカ」(砂糖の山)と呼ばれている擂り鉢型の山だ。車はコパカバーナの海岸線にさし掛かる。  ここでもまた眼を見張り、感歎の声をあげることになった。  海辺にはホテルが建ち並び、円形の派手な模様を描いたタイルの歩道が白い砂浜まで続いている。遠浅の海は波が高く、飛沫があがっていた。  車は長い海岸線を走り抜け、少し迂回するとすぐにイパネマの海岸に出た。雰囲気が変わった。砂浜の幅がコパカバーナの半分ほどしかないが、海の色が濃い。すぐに深くなっているのだ。  車はスピードを落とし、瀟洒《しようしや》な高層ホテルの前で停まった。一階は総ガラス張りでロビーが見える。 「ようこそ、イパネマへ」  褐色の肌のドアボーイが気取った声で言った。すぐに別のボーイが二人、荷物運びのために駆け寄ってくる。 「これから一週間、この海辺にいられるのね」  と真知子は言った。 「その通り」  リチャードもご機嫌で言い返した。  部屋は海に面していた。眼下に青い波が白く泡立ちながらせまってくる。ツインの部屋だが、大きなソファーがあり、調度品も豪華だ。しかも、かなり広かった。 「すばらしいわね。イパネマの海岸もこのホテルもお部屋も気に入ったわ」  真知子は嬉しそうに室内をスキップしながら行ったり来たりする。 「ぼくも同じだ。きみの選択は間違っていなかった」  リチャードは窓際に近付いて、立ったまま海を見下ろした。 「ホテルの中にサウナもプールもあるわよ。もちろん、アマゾン風のバーラウンジもコーヒーショップも、それから、ちょっとゴージャスなレストランもあります」  彼女はホテル案内のカラーページを次々と繰ってみた。 「ぼくはホテルより街に興味がある」  リチャードはそう言うと、持参したブラジルの旅行案内書を手にしてソファーに坐り込んだ。 「まあ、飛行機の中でさんざん見たのに、また読むの?」  真知子は呆れ顔で言う。 「たぶん、興奮したせいだろうね。すっかり忘れてしまった」  彼は南米風に両の掌を裏返しておどけてみせた。  正午に近いが、機内食のせいでまったく空腹感がない。二人は軽装に着がえた。とにかく、カメラを持って街に出ることにしたのだ。 「ボンデアスーカにも行ってみたいが、まずコルコバードだね」  行き先は彼が決めた。 「あの大きなキリスト像のある丘ね。いいわ、お任せする」  と彼女は応じた。  二人とも、軽装で表情が生き生きしている。揃って急に三、四歳若返ったような印象を与えた。  ホテルの前からボーイの呼んだ英語の出来る運転手のタクシーに乗った。治安の悪化はかなりのものだ。出掛けようとするとマネージャーが出てきて、わざわざ注意した。このタクシーを待たしておいて移動した方がよいという。 「言われた通りにしましょう」 「オーケー、ドルに対してクルゼイロは限りなく下落している。おそらく、タクシー代は予想よりずっと安いよ」  と彼は答えた。 「いいの、高くても。安全の方を優先すべきだわ」  言い返してタクシーに乗り込んだ。  今回の旅費および諸経費はすべて真知子が負担していた。リチャードとしては安くあげようと気を遣っている。  コルコバードの丘の上に両手を拡げて立つ巨大な純白のキリスト像は、リオ・ディジャネイロの象徴のようなものである。それほど有名で、いまでは街の名物になっていた。リオに来てここを訪れない観光客はまずいないだろうと言われている。  丘というより、むしろ、山に近い丘陵の頂上に設置されていて、見晴らしが良い。ここに立って周辺を見下ろすと、俯瞰図を見るようだ。  二人はキリスト像の間近まで来た。ひどく大きい。下から見上げると、キリストは立派な顔をしていた。リチャードが何枚も写真を撮った。このカメラも彼女のもので、日本製のキヤノンである。  二十分ほどキリスト像の足許にいた二人は、周辺の景色に馴れてきて、山を下る気になった。ケーブルカーが見付かったので、運転手に先廻りして貰うことにした。  かなりの急斜面である。  最前部に乗った二人は、ロープ式のケーブルカーがスピードをあげ始めると、軽いめまいと共に地の底へ向かうかのような感覚を味わった。後になっても、真知子はよく、この時の奇妙な薄気味のわるい気配を思い出した。  何となく不吉な感覚である。実は、この時にはまだ彼女は殆ど何も気付かなかった。が、夜になって思い当たることになる。  ホテルの最上階での夕食はすばらしかった。予約しておいたせいか、チップを期待したのか、窓際の見晴らしの良い席に案内された。白ワインもシーフード料理もデザートも申し分ないと言える。  問題は深夜になってベッドインしてからである。正確にいうと、リチャードは彼女のベッドに入ってこなかった。  それだけではない。彼は苦し気な表情で、自分はホモセクシャルで、女性を性の対象としては、まったく必要としていない事実を打ち明けたのだ。      6  高川明夫は原沢頭取からの呼び出しが掛かると、少し顔をしかめた。  もっとも、他人が見ればあまりよくわからない。多少なりとも表情が歪むというたぐいの変化ではなかった。彼の内部で秘かに起こる反応である。けっして目立ちはせぬが、本人にだけはよくわかる。  以前はこんなふうにはならず、むしろ、いそいそと席を立った。原沢一世が傑出した人物であるのはたしかだ。が、権力を手中にしてからかなり変わった。  言葉遣いだけは相変わらず丁寧だが、中身は相当したたかな人物に変化している。おそらく、亡くなった会長の大久保英信はそのへんを見抜いていたのであろう。晩年になって、原沢にバトンタッチしたのを後悔していたふしがある。  とくに原沢の自宅に拳銃の弾が撃ち込まれた事件があってからは、不審の目で見るようになった。三洋銀行との合併にも反対していた。もう一度自分がと思ったのかどうか、実のところ、そこまではよくわからない。ともあれ、大久保は変な意欲を見せて毎日会長室に出勤するようになり、不幸にもそれが健康に障り、死を早める結果になってしまった。  大久保が亡くなった時の原沢の冷たい態度、冷笑ぶりを、高川はよく知っている。たぶん、原沢は人知れず、喜んでいたのだろう。うっとうしさが消え、ようやく快晴を見た思いにひたったに違いない。とても、自分を引き上げてくれた前頭取に対する態度ではなかった。死者の霊に失礼である。  銃撃事件についても、原沢は新聞、週刊誌、テレビ等の取材に対して、まったく身に覚えがない、何故こんな目にあうのかわけがわからぬと言い張った。もっとも、これ以外の答えを出せばつけ込まれる。騒ぎを大きくするだけだ。こういう場合は、当然、消火作用へとつながる配慮が必要であろう。  とはいえ、行内でも、総務部のごく限られた部署の人間に対しても、原沢の答えは変わらず、まったく同じであった。  高川にはその点も腑におちない。何か秘密があるのではなかろうかという気がしてならなかった。この種の疑惑も、結局は不信感につながる。  しかし、気配を気取られてはならなかった。原沢は敏感で、シャープだ。それに疑ぐり深かった。容易に人を許さないようなところがある。それだけに、いったん疑われると厄介であった。  高川はすばやく立って、早足でエレベーターホールへ急ぐ。頭取室に向かったのだ。すでに逡巡の気持ちを追い払っている。 「高川さん、いらっしゃいましたか」  原沢は愛想良く迎えた。  たしかに、表情もにこやかだし、言葉も丁寧だ。きちんと「さん」を付けてくれる。 「石倉さんはニューヨークへお発ちになったんですね」  とたしかめる。 「はい、発ちました。過分な餞別を頂いたと大いに恐縮していたようです」  と答えた。 「そうでしたか、それはよかった。現金というのは魔物のようなものでしてね。いったん受け取ると、まず返せません。何といっても、少ないより多い方が効果があります。なるほど、喜んでくれましたか」  と得意気な顔をする。  高川は石倉の自宅まで行って餞別の包みを置いてきた時の嫌な気持ちを思い出してむっとしたが、もちろん、顔には出さない。 「金額が多いので、彼は途惑い、返したいと言ってきました。が、わたしは断固受け取らず、とにかくおさめておいてくれ、ご不満ならニューヨークから帰って改めて申し出てほしいと突っぱねたんです」  と伝えた。 「それでよろしい。上手な方法でした」  と原沢は誉めた。 「とにかく、何度も言うようだが、現金は魔物だ。返しにくい。石倉さんは受け取ってくれるでしょう」  とつけ加える。 「はあ」  高川は仕方なく頷いた。 「石倉さんを押えておけば、とりあえず、『星野田機械』との取引は安泰でしょう。しばらくはそれでよろしい」  まるでその後に何かあると言わぬばかりの口ぶりだ。 「取引の方はスタートしたばかりですが、順調です。三洋銀行さんもほぼ同じ時期に取引を始めましたが、石倉さんがバランスを取ってくれたのか、ほぼ同じです。当行の方が低くはありません」  と報告する。 「なるほど、本来なら、うちが下なのが普通だ。もう効果があらわれておる」  原沢は満足していた。 「もっとも、石倉さんは三洋銀行を追い出されたわけですからね。うちなら、同じケースになっても追い出したりしません。せっかくの優秀な人材を外に出してしまった。もったいないことをするものです」  と憤慨した。 「実は、わたくしも彼が急に銀行界から去ったのが何となく残念な気がいたします。急にライバルを失《な》くしたような淋しさを感じました」  と高川は答えた。 「そうでしょう。たしかに、石倉さんときみはよきライバルだった。お互いにそれを意識して競争すると、両者が共に伸びる。良きライバルとはそういうものでしょう。片方だけが優秀な人材に育つということはまずありません。わたくしだって残念ですよ」  と原沢は言う。  どうやら、石倉にかなりの好意を抱いている。そうでなければ、とてもこんな言い方は出来まい。餞別の金額がいささか常識を越えていたのも、何らかの思惑に好意が加わった結果であろう。にわかに、そんな気がしてきた。  もし、あの時、三洋銀行との合併が実現していたら、どうなったのか?  頭取は杉本富士雄に決まっていたから、原沢は代表権を持つ会長に就任する。そこまでははっきりしている。依然として、権力の座を離さない。  そして、将来は石倉を「頭取」に、高川を「副頭取」に、と前回石倉を招待した席で、告げた。  この時の言い方にはいくらか冗談っぽい雰囲気が感じられた。前段階の合併そのものがあえなくご破算になっていたので、なおさらそういう感が強い。  ところが、これはあながち冗談ではなく、まして、単なる誉め言葉でもなかった。あんがい原沢の本心だったのかも知れない。  いまにして、思い当たる。すると、当然のことながら、高川への評価の方が低くなる。原沢は高川より石倉を上に見ているといえよう。これではライバルどころか、いずれは蹴落とされてしまう。メーカーへ転出してくれてよかった。 「そうそう、大須賀さんの上京の日をたしかめて下さい。この前ご馳走になってますからね。早くお返しをしないと」  原沢は頼んだ。 「承知しました」  と高川は答えた。 「石倉さんがニューヨークから帰ってきたら、また三人で食事でもしましょう。最新情報を聞かせて貰いたいと思います」  と原沢はつけ加えた。      7  石倉克己はニューヨークに着いた。  空港には現地法人の部長が迎えに来てくれた。  社長の飯沼進は不意の訪問を望んだが、そうもいかない。事前に連絡を入れた。  飯沼は現地法人の社長をしている町井正勝の失策を見付けてくれという。それを理由に町井をいまの地位から追い払いたい。何でもいいから、とにかく、彼を馘首《くび》に出来るようなミスを探し出して欲しいと頼んだ。  町井は飯沼と同期入社のライバルで、なかなかしたたかな人物らしい。いままでにも、飯沼がほぼ同じ目的で送り込んだ監査役たちを次々と籠絡《ろうらく》してしまった。  飯沼の話によると、接待攻撃ですっかり丸め込んでしまったという。 「なにしろ、女まで抱かせてしまうんだから性質《たち》がわるいよ」  と述懐する。 「それで、何も見付からなかったんですか?」  と尋ねた。 「その通りだ。結局、シッポも出しやしないよ」  飯沼は吐き出すように言った。 「きみも町井のペースに嵌まらんように、十分に気を付けてくれ」  と言い渡した。 「それは大丈夫ですが、そういう人物を一度のニューヨーク出張で縛り上げるのはむずかしいと思います」  と石倉は正直に述べた。 「一度でむずかしければ何度でもアプローチして貰おう。ああいう男をのさばらしておいては会社のためにならん」  と飯沼は強調する。 「わかりました。短期間なので成果の方は確約しかねます。出来るだけのことはやってみます」  と石倉は約束した。 「それでいい、頑張ってくれ」  飯沼は激励のつもりか、分厚い掌で強く肩を叩いた。  ニューヨーク出張の真の理由はわかったが、当然、その部分は秘密である。表向きはあくまでも本社の総務、経理を担当する新任取締役としての挨拶廻りだ。帳票類や決算書類の点検もする。説明も聞くことになる。が、いずれも形式的なものだ。  したがって、もし、裏の依頼がなければ、むしろ暢気で楽な出張と言えた。  三洋銀行ニューヨーク支店勤務の神谷真知子にも会って、近況を聞き、激励してやりたいと思っていた。 「実は、大口の取引がまとまりそうになっておりまして、町井はいまメキシコシティへ出張しております」  と部長は報告した。 「それはどうも」  と石倉は答えた。  目的完遂のためには、町井の留守が良いのか悪いのかよくわからない。とっさに判断がつかなかった。 「せっかく石倉さんに来て頂いたので、町井も出来るだけ早く帰ると言い置いて出掛けましたが、たぶん、あと三日位は掛かると思います。その間はわたくしが何処へなりとご案内させて頂くつもりです」  副社長を兼ねる部長の牧野令三《まきのれいぞう》は言い訳がましく言う。 「どうぞ、気を、遣わないで下さい。お互いに仕事第一ですから」  石倉はにこやかに言い返した。 「その方がわたしも気が楽です」  とつけ加える。 「どうも申し訳ありません。そう言って頂くとほっとします」  牧野は頬を綻ばせた。  丸形のありふれた顔付きをしている。イエスマンタイプの温和な人物である。どうやら、町井とは正反対の性格なのではなかろうかと思えてきた。やり手の人物は、部下に自分と同型の積極型を望まない。むしろ、従順で何でも言うことを聞くタイプの方を好む。何故なら、必要以上に、警戒心が強いからだ。たぶん、取って替わられるのを恐れているのであろう。  牧野なら安心出来る。人が好くて誠実であった。親身になって世話をやく。しばらく接しているうちに、石倉にもそのへんの事情がのみ込めてきた。  星野田機械・アメリカは、アメリカだけではなく、メキシコやブラジル、アルゼンチンなどの南米をも営業圏に入れている。したがって、現地社長ともなれば、当然、出張も多い。その留守に、勝手な取引をしたり、本社に告げ口をされたりしてはたまらない。  いきおい、ナンバー2は牧野令三のような人物が好まれる。事実、いったん赴任してみるとよくわかる。とにかく、長続きするのだ。  日本航空のニューヨーク直行便がケネディ空港へ着いたのは、午前十一時過ぎである。 「いかがでしょう。ホテルにチェックインをしてから近くで昼食でも」  と牧野は奨める。 「その後、すぐ会社の方にご案内したいと思います」  と言い添えた。 「いいですね。お任せしましょう」  と石倉は応じた。  機内食のおかげであまり食欲はなかったが、牧野の方は昼食を食べていない。石倉が食事を拒否すれば食べそこなう。 「ホテルは取りあえずニューヨークヒルトンを予約しておきましたが、それでよかったでしょうか?」  牧野は心配そうに訊く。 「けっこうです。あそこは地の利もいいし、何かと便利な所なので助かります」  と石倉は答えた。  結局、ホテルのレストランで食事をすることになった。  話しているうちに、石倉と牧野はまったく同年齢であるのがわかった。牧野は東京の私大の商学部を出て星野田機械に入り、名古屋、大阪、広島の順で支社勤務を続け、ニューヨークに来て十年になる。 「それはすごい。ニューヨークの生字引みたいなものですな」  と石倉は感心した。 「そんなことはありません。商社マンの中にはこの街を知り尽くしている人もいます。わたしなど、ただぼんやりと年数を重ねただけです」  と謙遜する。  石倉は謙虚であまり出しゃばらぬ人が好きなので、牧野に好意を持った。もっとも、打算がないわけではない。町井正勝の能力や人柄、くせなどがよくわからないだけに、この際、牧野を味方に付けておきたいという思いもある。  会社はウォール街の近くにあった。三洋銀行のニューヨーク支店からもあまり遠くはない。神谷真知子にも早く連絡してやろうという思いがこみあげてきた。  会社に着くと、石倉用に個室が用意されていた。 「どうかご自由にお使い下さい。それと、必要なものは何でもおっしゃって頂ければ取り揃えます」  と牧野は言った。口先だけではなく、そのつもりらしい。  石倉は部屋に落ち着き、運ばれてきたコーヒーを飲んだ。そして、現地法人の経営状態を把握出来る関係書類を見せて貰うことにした。本社から来た監査役としては当然の要求である。  牧野も心得ていて、係員に手伝わせて帳票類を運び込んできた。 「今日は長旅でお疲れでしょう。少しだけご覧下さい。説明が必要な場合はいつでもまいります」  牧野は愛想が良い。 「あ、それから、部屋をお離れになる時はご面倒で恐縮ですが、重要書類が多いのでキイを掛けて出て下さい」  と頼んだ。 「わかりました」  と答えた。  広い部屋だ。一人になると、ソファーへ移動し背筋を伸ばす。さすがに、少し疲れた。  石倉は書類の山を見ても顔色ひとつ変えなかった。こういう仕事には馴れている。始めからすべてを見る気などない。直感でどれとどれを見ればよいのか、彼にはすぐわかる。万一、粉飾がなされていても見破る自信があった。      8  杉本富士雄と勝田忠は連れだって静岡へ出掛けた。  大須賀勇造の招待を受けたかたちになってはいるものの、実際は押し掛けたのである。  もっとも、招かれざる客ではなかった。大須賀は常々、友人、知己の訪問を歓迎していた。もともと話し好きだし、何気ない雑談のうちに入手出来る「情報」の価値をよく心得ている。  たしかに、多くの人に接すれば接するだけのことはあった。時間の浪費やわずらわしさの方を先に考えてしまうと、物事の判断を誤ることになる。  大須賀はそのへんをよく心得ていて、来る者を殆ど拒まない。  もちろん、太平銀行が静岡に本店をかまえているというのも大きな理由の一つであった。東京や大阪ならごく自然に入ってくるニュースが、静岡だと入ってこないか、あっさり通過してしまう。そのために、東京支店を出してアンテナの役割を果たすように仕向けてはある。  が、実のところ、それだけではこころもとない。トップの大須賀自身が積極的に多くの人に会い、率先して情報を集めていた。東京の金融機関に対抗するためには、そのくらいの用意と覚悟が必要であった。  ほんとうは大須賀の方が出掛けて行ってもいいのに、相手がわざわざ静岡まで来てくれる。となれば、歓迎しなくてはなるまい。大須賀はそう考えて、役員や部課長クラス、秘書課員等にもよく言い含めてある。  したがって、太平銀行の本店を訪れる人たちはたいてい、気を良くする。接触する役員や秘書課員、受付嬢の一人一人に暖かく迎えられるからだ。  杉本と勝田も、夕方の四時半頃に本店に着いた。受付をへて、役員応接室に案内された。  大須賀はすぐにあらわれた。一分位しか待たせていない。これもまた訪問者たちに良い印象を与えた。改めて口に出さなくても、ごく自然にお待ちしていましたという実感がにじみ出る。  杉本も勝田も、歓迎されていると思った。素直な感想だ。  そう感じると嬉しくなった。早い話、二人共事実上引退の身である。多くの先輩たちのように、おとなしくしていれば、とくに厭がられることはない。むしろ、尊敬されるかも知れなかった。  ところが、現在の二人のように動き廻ると、いささか事情が異なってくる。どうしても生臭い感じが付きまとう。立場にもよるが有難迷惑にもなるし、招かれざる客にもなりかねない。  もちろん、両者共そのことをよく承知していた。とくに、杉本は成瀬昌之への報復という明確な目標をかかげ、信念を持って取り組んでいる。  勝田は引きずられたかたちになった。銀行時代の習性が出たと言える。引退したにもかかわらず、杉本に声を掛けられると、待っていたかのように、いそいそと出掛けた。時間を持て余していたのもたしかだが、むしろ、嬉し気な表情で出て行く。  杉本にしても、勝田にしても、生き甲斐を見付けたのはたしかだ。  事実、二人共すこぶる体調が良い。表情にも張りがあり、いくらか若返ったような印象さえ与える。 「これは驚いた」  大須賀は目を見張った。 「杉本さんも勝田さんも二、三歳、いや、四、五歳若返っている」  と感想を述べる。 「いったいどういうわけですか? 秘訣を教えて下さい」  と身を乗り出す。 「これは困った」  杉本は照れた。 「自分ではとても若返ったとは思えないんですが」  と勝田も嬉しそうに言う。 「ご自分でそう思うか思わないかはともかく、わたしの実感ですからね。これはもう間違いない」  と大須賀は言いきった。 「有難うございます。おかげでなおさら元気が出てきました」  杉本は笑顔のまま頭を下げた。  勝田もつられて頷き返す。  こうして、三人の会合は笑顔で始まり、順調な滑り出しとなった。  市内の料亭に席を移してからも状況はあまり変わらない。  気が合うというのか、相手が良いのか、おそらくその両方であろうが、三人共雑談をしていて愉しい。時間の方が予期せぬ早さで過ぎてゆく。  だが、杉本も勝田も雑談をしに来たのではない。  大須賀の方も、お互いの健康とか若返り等々世間話の域を出ない話題ばかりでは接待する甲斐もなかった。彼の場合は情報収集が目的なのだから、これでは困る。まさに時間の無駄である。  期せずして、双方がそう思い始めていた。そのへんの呼吸をよく心得ている杉本が先に口をきった。 「うちの成瀬くんがしきりにお近付きになろうとしているようですな」  と言って、大須賀の顔色を見る。 「そうなんです。どういうわけか、わたくしなんかにいろいろと気を遣ってくれましてね。却って申し訳ないと思っております」  と大須賀は答えた。 「成瀬くんはなかなかのやり手ではありますが、実は、相当の野心家でしてね。その野心をもっと早く見抜けなかったのがわたしの失敗でした」  と杉本は打ち明けた。 「ですから、急に大須賀さんに近付いていったとなると、何か、必ずある」  とつけ加えた。 「そうですか? 杉本さんのお言葉となると、間違いないでしょうな」 「わたくしにも間違いはあります。げんに一年前には成瀬くんを甘く見た。それだけに、いまは却って以前よりものがよく見えてきました」 「なるほど、これは頼もしい」  大須賀は少しおだてた。 「成瀬くんには何か魂胆がある」  杉本はわざとかどうか、声を落とした。 「どんな魂胆でしょう?」  大須賀は身を乗り出す。 「それは成瀬くんの口から直接お聞きになった方がよいと思います。万一、わたしの憶測が間違っていた場合は逆にご迷惑をお掛けすることになりかねない」  と謙遜する。 「いや、それはないでしょう。何事であろうが、杉本さんがお間違いになる筈はありません」  また持ち上げる。 「では、申し上げます。ずばり、狙いは合併でしょうな」  杉本は自信たっぷりな口調で告げた。頬がいくらか紅潮している。 「うーん」  と大須賀は唸った。 「やはりね」  と頷く。 「そんなことではないかと考えてはおりました」  とつけ加える。 「ぴいーんときたわけですな」  杉本はたしかめる。 「確信はありませんが、おそらくという感じです」  と大須賀は答えた。 「それで、どうなさるおつもりですか?」  と杉本は訊いた。 「いまの段階では、まだ何とも答えようがありませんな。もっとも、最近になってうちに急激に接近してきたのは三洋銀行さんだけではありません」 「ほう、すると三洋以外にも」  杉本は意外そうに両の眼をしばたたいた。 「富桑銀行さんですよ。こちらは頭取と取締役総務部長がわざわざ静岡までやってきましたからね」  少し得意気に教えた。 「原沢さんが来たんですか?」  杉本は驚いて尋ねた。      9  長谷部敏正は頭取室にいた。  壁際のソファーで成瀬昌之と向かい合っている。  二人共、浮かぬ顔付きで押し黙ったままだ。 「原沢さんと高川くんが静岡に行ったのは間違いないんだね」  成瀬が念を押す。 「間違いありません。太平銀行側から常務取締役の矢島隆也が加わり、焼津グランドホテルで、二対二の四人で食事をしております」  と教える。 「ふん」  成瀬は忌々しそうに鼻先を鳴らす。 「まるで、合併を前提としたお見合いの席のようじゃないか?」  と自嘲気味に言う。 「それは違います。単なる昼食会だと大須賀さんははっきり言っておりました」  長谷部はきっぱりと言った。 「昼食会ねえ」  成瀬は皮肉っぽく呟く。 「具体的な話は何ひとつなく、雑談しただけだそうです。そういう親睦会を時折り開きたいというのが原沢頭取の希望であったとも聞いております」 「けっこうな親睦会だ」  成瀬は機嫌がわるい。 「………」  長谷部は黙っていた。すでに情報を伝えた。これ以上余計なことは言わない方がよいと思った。 「やはり、原沢一世も合併を狙っているんだろう」 「そうとは限りませんが」  つられて長谷部は答えた。 「いや、原沢は狙っている。杉本と手を組もうとした男だ。それにしてもしつこいな。懲りない男は始末がわるい」  と言い放った。 「………」 「面白い。原沢が勝つか、わたしが勝つか、ひとつやってやろうじゃないか? いいかね、これは高川明夫ときみの闘いでもある。かつて石倉くんと高川くんは協力し合った。が、きみは立場が違う。原沢とわたし同様、高川ときみは敵と味方になる」  と言いきった。 「はい」  長谷部は仕方なく頷いた。 「もともと、富桑銀行と当行は競争相手でもあったし、仲もわるかった。それが協力して合併するなんてそもそも始めから無理な話だ。その無理を無視して合併工作にうつつを抜かした阿呆もいる」  成瀬は口許を歪めた。 「だが、今度は闘いだ。なにしろ、相手は阿呆の片割れだ。いずれにせよ、三洋銀行の進路の前に立ちふさがる連中に対しては手加減はいらん。それが富桑銀行と原沢一世なら、なおのこと敵に不足はない。今度こそ、懲らしめてくれる。この際、きみも覚悟を決めたまえ」  と強い口調で言う。眼ざしにも表情にも怒りがこめられていた。 「こうなったら、わたしもなるべく早く大須賀さんに会いたい、静岡でも東京でもかまわんからセットしてくれたまえ。やはり、お茶より食事の方がいいね」  成瀬の言い方が変わった。  どうやら、気持ちを切り替えたのだ。怒りを呑み込み、戦略をたてなおす気になったのであろう。 「わかったかね?」  と念を押す。 「わかりました」  長谷部は頷いた。 「正面の太平銀行の方だけ向いているわけにはいかんよ。脇か後ろか知らんが、富桑銀行の動きをチェックしなけりゃあならん。場合によっては、原沢頭取の自宅に銃弾が撃ち込まれた事件についても調べる必要が出てくるかも知れん」  と成瀬は言い出した。 「あの件は警察でもまだ結論が出ていないようですが」  と長谷部は応じた。  あまりあからさまではなかったが、警察の手にも負えないのだと伝えたつもりだ。  しかし、成瀬はそうは受け取らず、もっと積極的な考えを示した。 「警察の調べがはっきりしていなければチャンスかも知れん。なんなら、こっちで調査してもいいんだ」  自信たっぷりな言い方をする。 「………」  長谷部はまた黙り込んだ。  横浜支店の件も片付いていない。げんに狙撃された北野支店長は植物状態になり掛かっていた。事件の真相は解明されぬままだ。言いかえれば、現在の状態は深刻である。要するに、自分の頭の上を飛ぶハエさえ追い払えずにいるのと同じであろう。  こういう時に、一年以上前の原沢頭取の自宅銃撃事件などに係わり合う余裕はない。長谷部としては、はっきりそう告げたいくらいであった。  が、喉元までこみ上げているのに肝心の言葉が出てこない。やはり、言いにくい。成瀬がいつの間にか身に付けている頭取の権威が大きく立ちはだかっていた。一歩も前には進めない感じである。  となると、方法は一つだ。沈黙するほかはなかった。 「原沢頭取と高川くんの動きもチェックして貰う必要があるな」  と成瀬は言った。  長谷部の沈黙など気にする気配も見えなかった。 「石倉くんを使いたまえ」  と命じる。 「え、石倉を」  と長谷部は訊き返した。 「石倉くんの骨折りでうちと『星野田機械』との取引が始まった。ところが、ほぼ同じ時期にやはり彼のおかげで、富桑銀行も取引を始めたというじゃないか?」  とたしかめる。 「はい、その通りです」 「高川くんが動いたんだな」 「そうです」  と答えた。 「合併工作の際、あの二人は双方の頭取の連絡係を務めた。その接触を通じて親しくなったんだろう。うちと富桑を並べて同時に取引を開始したと聞いた時はかちんときたが、いまとなっては却って都合がいい。え、そうじゃないかね?」  と眼を剥《む》く。 「石倉くんを通じて、向こうの情報がいくらでも取れるだろう。さいわい、きみは石倉くんとは親しかった。いまだって、親しいんだろう。違うかね?」  と訊く。 「別に仲違いはしておりません」  と長谷部は答えた。 「それはけっこう。大いにけっこう」  成瀬の表情が緩んできた。 「これからは石倉くんを利用したまえ。利用といってわるければ、活用でもいい。とにかく、成果をあげて貰わないと困る。頼みましたよ」  成瀬は最後だけ丁寧な言葉を使った。      10  石倉克己はニューヨークにいる。  現地法人社長の町井正勝はまだメキシコシティから帰ってこない。  したがって、社長の飯沼進から命じられた事柄については、依然として、まったく手が付いていなかった。  町井に上手に逃げられたのか?  たしかに、そういう印象も受ける。が、それとて、いまの段階ではよくわからない。もっとも、メキシコでの取引が正当なものなのかどうか、調べればわかる筈である。  しかし、逃げたのかどうかがはっきりしたところでどうにもなるまい。そんな些事《さじ》に気を遣っているうちに本質を見失う。町井の狙いもその辺にあるのかも知れない。  飯沼が言うようなしたたかな人物なら、おそらく、すべてを見通している。下手な抵抗を試みても無駄であろう。  ただ、自信家ほど油断をする。もし、チャンスがあるとすれば、そこを狙うほかはあるまい。石倉はそう考えた。  それに、なまじ戦略をたてても簡単に見抜かれてしまうだろう。なにしろ、ここはニューヨークだ。相手は長年この地に住み、立派にビジネスをこなしてきた。何らかの不正行為を働いているのかどうかはいまのところよくわからないが、少なくともすぐ目に付くような愚は犯していなかった。  だとすれば、これからもめったにシッポは出すまい。先方が取り揃えてくれた書類や帳簿の点検で、何かを発見出来るとはとても思えない。  石倉はわざと書類の山を見ようとしなかった。時折り、抜き出してチェックする。あまり熱心な監査役ではないとの印象を与えようとしたのだ。  おそらく、町井はメキシコシティからしばしば牧野に連絡をしてきて、石倉の様子を細かく訊いているだろう。忠義者の牧野はいちいち詳しく答えているに違いない。  やがて、牧野への質問でその事実が判明した。町井は日に二度も電話を掛けてきた。そして、その都度、石倉の動きを尋ねる。  ほぼ、石倉の予想通りであった。  牧野が誠実な人物である事実についてはすでに触れた。親しさが増すにつれて、牧野は石倉に心を許すようになっていた。  牧野に何か吹き込めば、それがたちまち町井に伝わる。その点もはっきりしてきた。これは面白い発見だ。もし、町井がメキシコシティに出掛けていなければ、牧野といまほど親しくはならなかった。  したがって、こんな関係が生じる筈もなく、牧野を通じてのコントロールなどとても考えられない。こうして、わずか二日間で、およその状況を掴むことが出来た。 「町井社長から連絡が入ったら、そちらでのお仕事を第一にして下さるように伝えて下さい」  と石倉は頼んだ。 「わたくしのために、慌ててニューヨークにお戻りになる必要はまったくありませんからね。とくに、その点を強調なさった方がよろしいでしょう」  と知恵をつける。 「留守は牧野さんが立派に守っておられる。心配はありません」  とつけ加える。 「有難うございます。そうおっしゃって頂けると、気が強くなります」  牧野は嬉しそうな顔をしている。  石倉は牧野をおだてて喜ばせておいて、神谷真知子に連絡を取った。三洋銀行ニューヨーク支店の電話番号は手帳にメモしてある。彼女がどんな様子で仕事をしているのか、自分の眼でたしかめたかった。  というのも、彼女の仕事ぶりが気になっていた。ニューヨーク支店への転勤を人事部長に申請したのは、ほかならぬ石倉であった。  初の|MOF《モフ》(大蔵省)担女性として注目を浴びた神谷真知子ではあるが、合併失敗のあおりを受けた一連の人事異動で、彼女も動くことになっていたからだ。  もともと、彼女は、杉本頭取—石倉部長ラインの人材と見られたからである。もちろん、石倉の推薦があり、杉本がこれを了承しなければこんな人事は成立しなかったのだから無理もない。  杉本が事実上の引退に追い込まれ、石倉が銀行を去るのがはっきりした時点で、石倉としては彼女の去就が気になった。  後から考えると、彼女のニューヨーク支店勤務は石倉のプレゼントのような感がなくもない。有能なMOF担として動き、他行の男性エリートたちを制してよく活躍したお礼と言ってもよい。  それだけに、石倉は気に掛けていた。彼にも責任の一端がある。ニューヨークに来た以上、声を掛けずには帰れない。  二日目の夕方に、石倉はひと区切りついたところで電話を掛けた。  聞き覚えのある神谷真知子の声が聞こえてきた。どうかしたのかな? どうも、あまり元気がないなと彼は思った。それが彼女の声に接した第一印象だ。 「まあ、石倉部長さん」  と真知子は声を弾ませた。 「何処からかけていらっしゃるの? え、ニューヨークですって、ほんとう!」  俄に元気な声になった。 「実はね、きみの銀行からあまり遠くない、同じウォール街の一角にある会社から掛けているんだ」  と石倉は教えた。 「すごいわ! いったい、いついらっしゃったの?」  と大きな声で尋ねる。 「昨日の午後だよ」  と答えた。 「あら、ひどい。どうして着いたらすぐ連絡して下さらないの?」  と詰《なじ》る。 「いや、すまん」  と石倉はまず詫びた。 「なにしろ、昨日は着いたばかりなので、いろいろあってね」  と言い訳する。 「すみません。ついご無理を言ってしまって。冗談です」  と彼女も言い添えた。 「ほんとうかい。冗談にしては声が尖っていたぞ」  と石倉は追及する。 「どうも申し訳ありません。大変、失礼いたしました」  今度は彼女が詫びる。 「どういたしまして」  と言い返す。  ようやく、以前の上司と部下であった頃の調子に戻った。 「ところで、いつまでニューヨークにいらっしゃるんですか?」  と真知子は真剣な声で訊いた。 「早ければ一週間、たぶん、十日位いることになるね」  と事実を告げた。 「よかった。なるべく何日もいて下さい。これでも先住民ですから、わたくし、あちこちへご案内いたします」 「ぼくは仕事で来たんだからね。観光旅行じゃないんだ」 「わかっています。でも、少しはお時間あるんでしょう」 「たくさんあるよ」 「なあんだ」  彼女の声が明るくなった。 「まず、そちらの都合を教えて貰おうか? 忙しいんだろう。ぼくの方で合わせるよ」  と提案する。 「わたくし早い方がいいわ。今夜はいかが?」 「こっちは空いている。しかし、いいのかな? そんなに急で」  石倉の方が気遣った。 「大丈夫です。六時半以後なら、いつでも出られます」 「じゃあ七時にしよう。銀行まで迎えに行くよ」 「わかりました。イタリア料理はどうでしょう。よろしければ、わたくしが予約を入れておきますが」  と先廻りする。 「了解、先住民に任せます」  と応じた。  石倉は六時五十分に支社を出た。歩いても五、六分しか掛からないのを確認してある。牧野はまた世話を焼いた。 「けっこうです。今夜はデートですからご心配なく。先方の女性が何かと面倒を見てくれることになっています」  と伝えると、牧野は眼を見張った。 「いったい、何処にそんな女性が?」  といささか呆れ顔だ。  真面目に説明するのも面倒なので、石倉は右の眼を閉じて見せた。牧野はぎょっとした顔をしている。 「エイズに気を付けて下さいよ」  などと厭味を言った。  石倉はやはりここまで来たからには、支店に寄って支店長に挨拶すべきであろうと考えた。かつては自分も同じ銀行にいたのである。むしろ、支店長、次長ぐらいは食事に誘うべきかも知れない。そう思うと、少しばかり面倒臭くなった。  たしかに、元上司ではあったが、保護者然とした顔付きで、神谷真知子をよろしく頼みますなどと言うのも、何だか変だ。まあいい、支店の雰囲気を見てからにしようとたかをくくった。  ところが、三洋銀行ニューヨーク支店の入っているビルを見つけ、中へ入り、エレベーターホールまで来た時、事態が変わった。  急に脇から女性が突進してきた。とっさによけようがない。  あっと思った瞬間、その女性はとびつくようにして、石倉の左腕に掴まった。ぶら下がったといってもよい。見ると、神谷真知子だ。 「おい、おい」  思わず、途惑いの声をあげた。  彼女は石倉の腕をしっかりと抱え込み、早くもビルの出口へ向かおうとしていた。      11  松岡紀一郎の博多暮らしに色どりが加わった。 「茉理花」のママ小森理花の登場で、というより特別に親しい関係になってから、松岡の表情が柔らかく温和になったのである。  支店内でもあまりぎすぎすせず、赴任当初のように、すぐ怒らなくなったので評判が良くなった事実についてはすでに述べた。  単身赴任の苛立ちと欲求不満が、主な原因である。小森理花の男を扱い馴れた開放的な明るさと、色白でむっちりとした豊満な肉体で、こうした不快なもやもやが、すべて蹴散らされ、薄められ、雲散霧消してしまったと言ってもよいだろう。ありていに言えばそういうことになる。  ただ、松岡には生理的な問題とは別に重大な関心事があった。銀行本部での成瀬頭取を中心にした動きである。いわば中心部の巨大な渦の行方が気になるのだ。  もともと、彼の大きな心労の一つはこの渦に原因があった。こともあろうに、自分だけが問題の渦巻の外側へはじき出されてしまったのではなかろうかとの不安が日増しに膨らんできたのだ。  杉本と勝田の予期せぬ博多訪問は、その心の隙間をいくぶん広く、かなり無理やりに押し拡げることになった。  最初の途惑いが少しずつ変形して、確信にまでは辿りついていないが、その中間あたりに漂っている感じだ。松岡自身が浮遊物となって浮かんでいると言ってもよい。  はっきり言えば、この浮遊物は風の吹き具合でどちらにでも向かう。もし、強い風が吹いてくれば、たちまちその風に乗って動き出す。かなり厄介なしろものなのだ。  松岡紀一郎にはしたたかなところもあるし、臨機応変の知恵もヴァイタリティもあった。迅速で小廻りもきく。相手の心を読むのも巧みだ。敵に廻すと面倒だが、味方に付ければ心強い。  成瀬昌之はそのへんを見抜いて大いに利用した。松岡の使い道はよく心得ている筈である。身近なところに置いておくと便利な人材と言えよう。  松岡の方も以心伝心で、成瀬が自分を手放す筈はないと信じ込んでいた。  ところが、事態は変わり、いまや、松岡の側に不信感が生じてしまった。  これは成瀬の怠慢であるが、同時に自信の強さをもあらわしている。ほんとうのところはやや自信過剰であるが、成瀬本人はそうは思っていない。むしろ、当然だと考えているふしもあった。  権力を手にした者の傲慢さであろう。人は傲慢になると気儘になり、身勝手になり、図に乗る。その結果、いままで見えていたものまで見えなくなる。むろん、当人はこういう変化に気付かず、平気で先へ進む。陥《おと》し穴があるのかも知れないのに、実に平然としている。  他人から見るとかなり滑稽だが、何故か、本人だけがそれに気付かず、エゴイズムを振りかざす。こうなると、誰にも救えない。権力者だけに始末がわるい。問題が生じ、これがしだいに膨らんで破裂するまで突き進むほかはないのだ。  今度のケースでも、成瀬は松岡の忿懣や苛立ちをまったくといってよいほど察知していなかった。松岡が博多へ単身赴任し、福岡支店で成績を上げている。けっこうなことじゃないかという程度の認識しかなかった。  新頭取としてのさまざまな仕事に忙殺されているのもたしかだが、言いかえれば、松岡のことなどかまってはいられないのが実情であろう。その点を差し引いてもなお、多くの権力者が手中にするあの傲慢さを、成瀬もまた身に付け始めたのである。  その日、大口取引先の不動産会社社長が予告もなく松岡を訪ねてきた。  挨拶廻り以来、何度か会っていて顔見知りであった。色黒で精悍な顔付きをしており、なかなかのやり手でもある。ただ、この会社も長引く不況で業績が思わしくなく、融資額が多いため、返済もとどこおりがちだ。  大口だけに不良債権にでもなったら、影響が大きい。いずれにせよ、これ以上は貸し出し出来ない先である。支店の融資会議でも俎上にあげ、担当者にも通告済みだ。  アポイントなしの訪問であったが、先方は図々しく支店長室に入ってきた。黒川弥八《くろかわやはち》には独特の迫力がある。受付の女子行員も圧倒されて通してしまった。  瞬間、松岡は厭な顔をした。日頃から訓練はしていても、とっさのこととて感情が顔に出てしまったのだ。 「支店長さん、困りますな。なにも黒川が不意に来たからといってそんな顔をせんでもいいでしょう」  と馴れ馴れしく言う。  すっかりこちらの心情を見透かされてしまった。さすがの松岡も少し落ち着きを失い、間がわるそうに苦笑した。 「その笑い方、ちょっと皮肉っぽくて、しかも無理して笑っている。そういう笑い方はいけませんなあ。この間の夜のような笑顔になって下さいよ。お願いしますわ」  ぺこりと頭を下げる。  猪首で、小太りの躰で、どしんと音立てんばかりの勢いでソファーに坐った。 「あの夜は顔中が嬉しそうに笑っていましたよ。あれから、どうしたんですか? わかってます。お愉しみだったんでしょう。しっぽりとね」  とにやついた。  松岡はややあっけにとられたものの、すぐ立ち直った。 「何の話ですか? さっぱりわかりませんが」  わざと渋面を作る。 「ほんとうですか? 支店長も人がわるいな。わかっているでしょう」  揶揄《やゆ》するような言い方だ。  はてな、と松岡は思った。初めて少し気になり、微かな胸騒ぎを覚えた。 「観念して下さい。女の身元はもうバレていますよ」  と言い放った。 「何の話ですか?」  松岡は顔をしかめた。 「そう恐い顔をしないで下さいよ。東京からわざわざ単身赴任で来ておられるんだから、いくらお固い銀行の支店長さんでも、女の一人や二人はおりますわな」  とにやにや笑いを続ける。 「よくわかりませんなあ」  と松岡はとぼけた。 「では、お教えしましょう。相手の女はスナックバー『茉理花』のママ小森理花、さすが名支店長さんですなあ。博多の夜の世界でも指折りのいい女を口説いている。この通り、脱帽しました」  しゃあしゃあと言って、わざと大げさに頭を下げた。 「………」  松岡は黙り込んだ。 「どうです。ずばりでしょう」  黒川は満足気ににやりと笑った。 「身に覚えがないとは言わせませんよ。この間の夜、支店長とママが仲良く腕を組んでお店の前でタクシーを拾うのを見ましたからね。このわたし自身がはっきりと見ているんだから間違いはない」  と断言した。  松岡はぷいと横を向いた。なあんだ、つまらぬと言わぬばかりの顔をする。 「おあいにくさま。たまたまタクシーでいっしょに帰っただけですよ。よくあるでしょう。ママやホステスを車で送るなんてことは、お客の常識ですからね」  としらをきった。 「支店長さんもあきらめがわるいね。あの時のタクシーの運転手はうちの社員の弟ですよ。それに、お店のバーテン、女の子、みんな知ってます。博多は広いようで狭いんですよ。わたしが、よくたしかめもしないでこんな話を持ち込むと思っているんですか?」  黒川はなめるなとばかりに、少し凄んでみせた。 「なるほど」  と松岡は呟いた。  今度は肯定も否定もしない。  その間、時間を稼いで、相手の真意を探ろうとした。  が、よくわからない。小森理花との関係を認めた方がよいのか、あくまでしらをきるべきか。とっさにそのへんの判断もつかなかった。  ただ、追い込まれたことだけははっきりしていた。 [#改ページ]  複雑な仕掛け      1  石倉克己と神谷真知子は、ウォール街からあまり遠くないイタリアレストランにいた。真知子が予約した店である。  もともと、ニューヨークのイタリア料理店は評判が良い。本場にくらべても、いささかもひけは取らない。イタリア系移民の多い街ほど店も繁盛し、味も磨かれる。  他の料理にくらべると、安くて美味で量が多い。まことにけっこうなことだが、日本人の胃にはあまりにも多すぎる。限界をはるかに越えているのだ。  真知子はスープ代わりのスパゲッティを、二人で一皿取って、これを半分ずつ食べようと提案した。そうしないとメーンの料理が食べられなくなるという。となれば、石倉にも異存はない。  真知子は石倉の腕に飛びついてきた瞬間から、はしゃいでいた。上機嫌でやたらにしゃべる。気分がハイになっているのはわかるが、少しおかしい。客観的に見ると、いささか度を越しているような気がする。  何故か、理由はよくわからない。なにしろ、つい先程、久しぶりに会ったばかりなのだ。神谷真知子がニューヨークへ発った日、石倉と長谷部と松岡が成田空港まで見送りに行った。  その時以来であるからすでに一年以上になる。赴任後まもなく、真知子の方から一度電話がきた。石倉も星野田機械に移ってすぐに連絡した。いずれも挨拶の域を出ない短い会話であった。  それにしても、以前の真知子とは少し違うような気がする。何かあったのかなとの思いが生じた。  もっとも、いきなり核心にせまるような訊き方は出来ない。彼女はそうさせまいとして、あえてはしゃぎ続けているのかも知れなかったからだ。 「ニューヨークを好きになる人と、嫌いになる人がいる。夏が好きか嫌いかと訊くようなもので、あまり意味がないかも知れないが、きみはどっちだね?」  と石倉は尋ねた。  かなり遠まわしな言い方だが、彼は一歩踏み出した。  真知子は急に押し黙って下唇を噛んだ。石倉は横目でちらりと見たものの、そ知らぬふりをする。効果ありと判断して気付かぬ風を装った。  真知子は少し恨めしそうな眼ざしで石倉を見た。元上司がほぼ的確に彼女の心情を見抜いたような気がしたのだ。この人には何事も隠せないのかしらと思うと、どういうわけかほっとした。  だが、石倉も真知子の微妙な心の変化までは見通せない。何か感付いたらしいと察してポーカーフェイスのままメーンの肉料理と格闘する。 「さすがはあなたの奨めるお店だ。さっきのスパゲッティボンゴレも美味《うま》かったが、これもなかなかの味だね」  と石倉は誉めた。 「まあ、嬉しい。よかったわ。気に入って頂けて」  と真知子は応じた。  が、何となくそらぞらしい。気持ちが別のところへ飛んでいる。  たしかに、料理は美味しかったが、それにこだわるつもりはない。石倉の関心も違う方向へ向かっていた。  二人共、料理の皿を前にして咀嚼《そしやく》にこだわっているうちはごまかしが利く。給仕や黒服のマネージャーの動き、店の雰囲気や装飾、人種のるつぼのようなお客たちの話し声やざわめき、テーブルや椅子、照明器具などに結びついている独特の匂い、いろんな人の足音や、皿やスプーンのぶつかりあう音など、いずれも気が紛れるもとになる。  しかし、それも珍しいうちだけであろう。時間の経過と共に事態は変わる。やがて眼も耳も馴れてきて、たちまち、何でもなくなってしまう。  デザートのアイスクリームが出て、コーヒーが運ばれてきた。食事は終わった。満腹感が満足感に変わり、気持ちもいくらかおおらかになり、穏やかになっている。  両者共にエスプレッソを頼んだ。普通のコーヒーより濃くて刺激も強い。 「ぼくの質問にきみは答えていない」  と石倉は言った。  潮時がきたような気がしたからである。 「返事を聞かせて欲しいところだが、ぼくの方で言おう」  とつけ加える。 「まあ」  と真知子は眼を見張った。 「わたくしの代わりに答えを出して下さるわけ?」  やや皮肉っぽく、少し詰《なじ》るように言う。  三十代に入った女性の熟れ始めた魅力が漂っている。 「その通り」  と石倉は答えた。 「では、おっしゃって」  彼女はいくらか身を乗り出してきた。 「きみはニューヨークが嫌いだ」  と彼は断定する。 「どう、間違いないだろう」  と念を押す。 「ええ」  と彼女は頷いた。 「おっしゃる通りよ。ニューヨークなんて大嫌いだわ」  と吐き出すように言った。 「そうか、やはり」  石倉は力なく呟く。続いて、殆ど無意識に眼を伏せた。 「どうしてですか? どうして部長ががっかりなさるんです」  と真知子は詰め寄った。  もし、テーブルをへだてていなければ、石倉の胸にぶつかったかも知れない。 「いや、がっかりしたわけじゃなくてね」  つい言い訳口調になった。 「何となく、申し訳ないような気がしたんだよ」 「何故です?」  彼女は追及の手を緩めない。 「きみをニューヨーク支店勤務に推薦したのはぼくだ。きみは実に颯爽としていた。あの時点では、ニューヨークこそきみの新天地にふさわしいと思ったんだよ」  と教えた。 「そうでしたか」  と彼女は答えた。激しさが急にしぼんでいった。 「合併工作は失敗したが、あれは誰のせいでもない。前頭取の杉本さんが強引すぎたのはたしかだが、長年のライバル行との合併に、幹部行員も一般行員も拒否反応を起こした。きみもその一人だった。ぼくにはわかっていたよ。ぼく自身も本心は別のところにあった。しかし、事態を収拾するためにはどうしても報復人事になる。当時の総合企画部は部長以下全員がスケープゴートだ。それがわかっていたからぼくは潔くやめた。犠牲を最小限に止《とど》めたかったんだよ。きみのニューヨーク行きは一種の栄転だからね。それが決まった時は嬉しかった」  石倉は淡々と言った。 「………」  真知子はうなだれた。  つい先程の勢いとはしゃぎぶりはもうどこにも見当たらない。 「そのきみがニューヨーク暮らしをあまり愉しんでいないとしたら、どうやら、責任はぼくにある。急にそんな気がしてきたんだ」  とつけ加える。 「申し訳ありません」  真知子は頭を下げた。 「きみが謝ることはない。詫びるのはぼくの方だよ」 「とんでもありませんわ」  と彼女は言いつのる。 「わたくしだって、張りきって赴任したんです。始めは自分でもびっくりするくらい生き生きしていました。でも、結局、こちらの生活に馴染めなかった。それはすべて誰のせいでもなく、わたし自身の問題です」 「そうかも知れないが、やはり、きみにはアメリカよりヨーロッパの方がよかったのかなあ」  石倉は首をひねった。 「さあ、どうかしら? ほんとうのところ、自分でもよくわからないんです」  彼女は途惑いながら答えた。  二人はイタリアレストランを出た。 「少し歩きましょう」  と真知子は提案する。 「二ブロック先にホテルがあります。そこまでなら歩いても安全です。タクシーもホテルの前で拾えます」  と教える。 「任せるよ。いざとなったら、きみだけは何とか守る」  と応じた。  二人共ゆっくり歩いたつもりだが、二ブロックはすぐにきた。 「部長さん、わたくし女として魅力ありませんか?」  真知子は唐突に尋ねた。 「魅力? あるね。大いにある。じっと見ると誘惑されそうだ。ぼくがきみからすぐ眼をそらすのはそのせいだよ」  イタリアワインが利いてきたせいか、石倉は軽く応じた。 「じゃあ、もっと見つめて下さい」  彼女はつと身を寄せて、石倉の腕に掴まった。 「何でしたら、今夜、部長さんのお部屋にお供しましょうか?」  早口で告げた。  石倉の腕にすがった躰がかなり揺らめいている。 「おい、おい、冗談はそこまでだ。それに、その部長さんはやめてくれ。もう、きみの部長じゃない」 「そうでしたわね。部長はいまや大メーカーの取締役さんですもの。とても豪《えら》いんです。わたくしなんか相手にならない」  と拗《す》ねた。 「きみは酔っている。いまタクシーを拾う。マンションの前まで送ろう。二、三日頭を冷やした上でまた会おうじゃないか? 今度はもっと突っ込んだ質問をするからね。覚悟をしておいてくれ」  きっぱりと言って、石倉はタクシーを確保し、先に真知子を乗せた。      2  長谷部敏正は名古屋支店の融資課長からの電話を受けた。 「珍しいね。元気でやっている?」  なつかしさがこみあげてきた。 「おかげさまで、相変わらずです。実はいま全店の融資課長会議で本部へ来ています。休憩時間になりましたので電話を入れさせて頂きました」 「そうか、たしか今日と明日の二日間だったな」 「はい」 「よおし、今夜どうだね? 久しぶりに食事でもするか?」  と誘った。 「よろしいんですか?」 「ちょうど空いているんだ。よかったよ。そっちの終了時間は六時だったな」  とたしかめる。 「その予定です。でも、二、三十分延びるかも知れませんが」 「いいよ。終わったらわたしの席まで来てくれ。何もなければ、七時頃には出られる筈だ」  と教えた。 「甘えついでに、仲間を四、五人連れて行ってもよろしいでしょうか? 長谷部取締役のお話が聞けるとなると、みんな喜ぶと思います」  と融資課長は図に乗って言いつのる。 「どうぞ。たいした話も出来ないよ」  長谷部は苦笑した。  どういうわけか、彼は若手の部下行員たちに好かれた。支店長時代も本部の部長になってからも、さらに役員のはしくれに連なったいまも、状況はあまり変わらない。  何事にも素直で飾り気がなく、温厚で威張らず、親身になって話を聞く。そういう長谷部の性格に由来する姿勢や態度が人気を呼ぶのではなかろうか?  もっとも、本人は地でいっているだけである。とくに部下に気を遣うこともなく、特別に努力するわけでもなかった。ただ、いつも出来るだけのことをしてやろうと思っていた。思いやりがあると言いかえてもよいだろう。  いったん受話器を置くと、長谷部は手帳を繰って、近くの小料理屋に予約を入れた。ここも銀行の取引先で、安くて美味い店だ。刺身でも天ぷらでも量がたくさんある。若い連中だからその方がよかろうと判断した。  七時過ぎ、長谷部は五人引き連れて出掛けた。いずれも支店の融資課長たちで、年齢も三十五歳から四十歳位の働き盛りだ。近い将来の支店長、部長候補者たちである。彼を入れて六人なので一部屋取れた。  まず、ビールで乾杯した。あとはウイスキーの水割り、焼酎等々各自が自分に合った飲み物を注文する。料理も次々と運ばれてきた。 「今夜はわたしは聞き役だからね。何でも気軽に言ってくれたまえ」  と長谷部は最初に言った。  気楽な雰囲気を作ろうとしたが、それでも始めは全員が固くなっていた。しかし、酒が入り、長谷部の態度が口先だけではないのがわかってくると、変化が起こった。  融資課長たちが会議では言えない本音を口にし始めたのだ。支店によって事情も違うし、置かれた状況も異なっている。上司や同僚、部下たちとの人間関係もかなり微妙だ。とはいえ、共通項もある。 「目下のところ、各支店共不良債権をかなり抱え込んでいますが、その責任がすべて融資課長にあるかのようなムードが漂っています。もちろん、われわれにも責任がないとは言えません。大いにあります。けれども、原因はケースバイケースで多岐にわたっているんですから、いまになってわれわれだけに責任を押し付けられても困るんです」  と大宮《おおみや》支店の融資課長が訴えた。 「本部の役員の紹介案件もありますし、支店長が接待攻勢にあったあげく、無理やりに融資をしろとせまられるケースもけっこうあるんです」  と千葉支店の課長が同調する。 「これはちょっとおかしいと思っても拒否出来ません。仕方なく、債権保全上、いくつか厳しい条件を付けます。すると、決裁が下りた時、せっかくの条件がカットされてるんです」  仙台《せんだい》支店の課長も口を尖らせた。 「月末の預金が足りなくなると、早く融資をして当座預金へ入れてくれと矢の催促でしょう。必要な書類がすべて揃わないうちに融資をさせられる。悪質なお客はそれを逆手に取りますからね」  大阪支店の課長も渋面を作った。 「うちも長谷部取締役が支店長をしておられた時は、いま皆さんがおっしゃったようなことはなかったんです。でも、いまは事情が変わりました」  名古屋支店の融資課長も表情を曇らせる。 「困ったね。それじゃあ、まるで人災じゃないか?」  と長谷部は応じた。  その時、彼の携帯電話のベルが鳴った。あまり大きい音ではないが、なかなか執拗な音である。  長谷部は小型の受話器を耳に当てた。秘書課長の声が聞こえてきた。 「恐れ入りますが、すぐ頭取室へお出で頂けないでしょうか?」  と言う。 「わかりました」  と長谷部は答えた。  秘書課長は下手に出て、お出で頂けないかと言ってはいるものの、これは直ちに駆けつけよという命令である。時計を見ると、八時五十分になっていた。 「ちょっと銀行に戻らなけりゃあならん。じき戻れると思うが、行ってみなければわからない」  と長谷部は告げた。 「ここの勘定はわたしが持つ。九時三十分頃までいて、わたしが戻らなかったら、六本木のカラオケバーへ行ってくれ」  と言って、「ぐうたら神宮」の場所を教えた。 「美人で親切なママさんのいる気さくなお店だよ」  とつけ加えて、長谷部は立ち上がった。 「ご馳走さまです」 「お世話になります」  と口々に言う後輩たちの声を背中で聞きながら、長谷部は帳場に寄ってサインをし、小料理屋を出た。      3  長谷部は銀行に戻ると、まず洗面所へ行って顔を洗った。お湯は出さず、わざと冷たい水で音立てて頬をこする。ついでに、四、五回|嗽《うがい》もした。  ビールを飲み、料理も突つき、酒も飲んでいる。頭取の前に出るのだから、多少なりとも気配を消す必要があった。  成瀬がすでに夕食をすませたのかどうかわからない。が、少なくとも宴席に出たわけではなく、行内にいるのはたしかだ。  ノックをして頭取室に入ると、成瀬はじろりと見た。長谷部の頬の赤味に気付かぬ筈はないが、その件については何も言わなかった。 「石倉くんはニューヨークへ出張しているそうだが、いつ帰ってくるのかね?」  といきなり訊く。 「約二週間の予定と聞いております。星野田機械に問い合わせましたら、あるいはもう一週位延びるかも知れないとのことです」  と長谷部は答えた。 「目的は何かね?」 「さあ、そこまではよくわかりません」  と返事をする。 「きみは石倉くんの親友だろう。そのくらいのことがわからんのかね?」  と詰った。 「出張目的は企業秘密です」  と長谷部は訴えた。 「それはそうだ」  成瀬も同意する。 「石倉はなかなかしっかりしております。口も固い方です。親しい友人にもめったなことは教えません」  きっぱりと告げた。  長谷部は言外に自分も同様だと伝えたつもりだ。 「まあ、いい」  成瀬はやや不快そうに顔をしかめた。 「大須賀さんとの食事はたしか来週の半ばだったね」  とたしかめる。 「はい」 「その結果にもよるが、場合によっては富桑の原沢一世に会ってもいいと思っている」  と教えた。 「え、原沢頭取に」  長谷部は少し驚いた。 「そうだ」  と成瀬は応じた。 「会う前に、例の銃撃事件も含めて、原沢一世の周辺に関する情報を出来るだけ多く集めておきたい。きみもそのつもりで積極的に頼むよ」  と命じる。 「何か、弱味があれば面白いんだが」  成瀬は上唇を嘗めた。 「………」  長谷部は黙っていた。アンフェアーだという思いがないわけではなかったからだ。 「あ、それから大須賀さんとの会合場所だがね。ホテルはありふれてる。東京で一番高い料亭にしよう」 「はあ」  今度は頷いた。 「先方は一人か二人か確かめて秘書課長に連絡しておいてくれ。こちらはきみとわたしだ。この部屋や役員応接室の絵の入れ替えもあるからね」 「わかりました。絵画については大いに乗り気でしたから、協力して頂けると思います」  と答えた。 「何なら、絵が先になってもかまわないよ。とにかく、早く進めてくれたまえ」  と成瀬は催促した。  自席に戻ると、九時三十分になっている。いま小料理屋へ駆けつけても行き違いになる。三十分ほど仕残した仕事をして、十時を過ぎたら直接「ぐうたら神宮」に向かうことにした。  すでに全員が居なくなっていた。広いフロアーの一角にある壁を背にした部長席に、一人取り残されたようにして坐っていると、不思議な気持ちになった。  かつては同じ席に石倉克己が坐っていた。同じ総合企画部長ではあるが、自分は取締役になっている。石倉をはじめ、松岡、西巻、宮田など優秀な同期生たちとの競争にどうして生き残れたのか? ほんとうのところ、よくわからない。  果たして、残ってよかったのかどうか? それさえはっきりしなかった。  亡くなった西巻は例外としても、メーカーへ移った石倉は取締役になり、かなり生き生きしている。宮田も大いに満足しているようだ。  結局、残った松岡がかなりあからさまに不満を口にし、長谷部も名古屋支店長時代の方がよかったと思っている。  珍しく仕事が手に付かない。ビールや酒を飲んだせいであろうか? それだけではあるまい。  では、何か?  追及するのがためらわれる。少し恐いような気さえする。  電話のベルが鳴った。ぎくりとした。昼間より音が大きい。  手を伸ばし、耳に当てると、カラオケらしい音楽のリズムが聞こえてきた。融資課長の一人が「ぐうたら神宮」から掛けているのかと思ったとたん、聞き覚えのある声が耳朶《じだ》を打った。  松岡の声だ。しかも、明らかにそれとわかるほど酔っていた。 「豪いなあ、取締役さんは、まだ働いているのか?」  いきなり、突っ掛かってきた。 「ご機嫌だねえ」  と長谷部はいなした。 「まあね、毎晩、酒の力を借りて酔って、何とかやっているというのが現実ですよ」  トーンが落ちた。  どうやら、からむつもりで電話を掛けてきたわけではないらしい。彼の背後で演歌の伴奏が始まり、中年男の濁《だ》み声が聞こえてきた。 「元気らしいね」 「カラ元気だよ」  松岡はすぐ言い返した。 「こっちも似たようなものだ」 「そうかな? 合併工作で忙しいんじゃないの」  松岡はずばりと言った。 「うっ」  と長谷部は喉を詰まらせた。  不意打ちである。とっさにどう応じるべきか迷った。 「博多にいても情報は入ってくるからね」  と松岡はふてくされた。 「前回は合併反対に廻ったきみが、今度は賛成かね? いったい、どうなってるんだ」  と皮肉っぽくつけ加える。 「その件は」  と長谷部は口ごもった。 「わかってるよ。マル秘だと言いたいんだろう」  松岡は先廻りする。 「石倉もそうだったが、どうも総合企画部長というのは、人が替わっても、合併推進派じゃないとやっていけないのかね? おまけに、今度も富桑銀行と競合している。富桑と張り合って、静岡の優良地場銀行を取り込もうという魂胆らしいが、勝ち目はあるのかな? それにしても、蟻が地面を這い廻るような地道な仕事をしている支店の一般行員たちの意志を無視してるね。ぼくは支店側だからね。はっきりそう言えるよ」  と言い添えた。 「よく知ってるようだが、現段階でははっきり方向が出たわけではない。前回とは状況がまったく違う」  と長谷部は強調した。 「そうは思えないね。杉本前頭取も成瀬頭取も結局は同じだ。権力を手中にすると、堕落して傲慢になる。考えが短絡的になり、依怙地《いこじ》になって他人の意見をきかない。視野が狭い上にエゴイストだから、どうしても近道を走りたがる」  松岡は断定する。 「合併は必ずしも近道ではない」  と長谷部は言い張った。 「それはきみの勝手な見解だ。一般的には業容拡大の近道だと思われている。この件できみと議論する気はない。ただ、ぼくとしてはフェアーにやりたいから警告を発しておく。成瀬頭取のペースに乗っかって、あまり性急にことを進めると、前回の二の舞いになるよ。いま言いたいのはそれだけだ」  松岡はぴしりと言った。  つい先ほどのいかにも酔ったような気配は、いまやどこにも感じられない。あれはカムフラージュだったのか? カラオケの演奏と音程のはずれた中年男の間延びした歌声だけが、いささかも変わらずに聞こえてきた。      4  高川明夫は原沢頭取に面会を申し込んだ。連絡事項が生じたのである。  三十分後、許可が下りた。 「やあ、高川さん、お元気そうですね」  原沢は愛想がいい。  場合によっては毎日、間があいてもせいぜい一日か二日位で顔を合わせている。お元気そうもないものだが、そこは気付かぬふりをした。 「おかげさまで」  と高川も丁寧に頭を下げた。 「わたしの方にもちょっと用がありましてね。実は、声を掛けようと思っておったところです」 「は、何でございましょうか?」  礼儀として先に訊いた。 「石倉さんですがね。いつニューヨークから帰るんですか?」  と訊く。  また石倉かとの思いが生じたものの、むろん、顔には出さなかった。 「予定の二週間が少し延びるのかどうかは、向こうへ行ってみないとわからないそうです」  高川は本人から聞いた通りを伝えた。 「なるほど」  原沢はしたり顔で頷いた。 「出張にはそういう要素は付きものでしょうが、それは行く前の話で、ニューヨークに着いて動き始めたとなると、事情が変わります。いまではもう予定がはっきりしたでしょうね」  と断定する。 「おっしゃる通りかと思います」  と高川は賛同した。 「あなたは石倉さんの滞在しているホテルを知っていますか?」  と尋ねた。 「いえ、ちょっと聞き漏らしましたが」  と答えた。ほんとうは知っていたが、何となくためらいの気持ちが生じたのだ。 「そうですか?」  一瞬、非難がましく見つめた。 「まあ、いいでしょう」  と一人で頷く。 「うちと『星野田機械』は取引こそ浅いが、友好関係にあります。まして、仲介したのは石倉さんだ。あなたが訊けば秘書課長が教えてくれるでしょうね」  とつけ加えた。 「はい、大丈夫だと思います」 「でしたら、ちょっと訊き出して、電話を入れてみて下さい。時差を考えて、石倉さんの迷惑にならないように」  と注意する。 「承知しました」  と答えざるを得なかった。  わざわざニューヨークまで電話をして、石倉の帰国予定を訊き出して何になるのだとの思いがこみあげてきた。むしろ、うるさがられるだけだろうという気がする。少しばかり餞別をはずんだからといって図に乗るものではない。 「さっそく、トライしてみます」  心とはうらはらな返事をした。 「やってみて下さい」  原沢は微笑を浮かべた。 「石倉さんが掴まったとして、何か伝言がございましょうか?」  高川はあえて訊いた。 「とくにありませんね。よろしくと伝えておいて下さい」  あっさりした答えが返ってきた。 「ところで、あなたの方の用件は何でしょう」  と尋ねた。 「太平銀行の矢島常務と、大須賀頭取の上京と会食について日程その他を詰めましたところ、ちらりと小耳に挟んだことがございまして、やはりお耳に入れた方がよいのではと考えました」 「ほう」  原沢は興味を示す。 「いったい、何ですか?」  少し身を乗り出した。 「三洋銀行の頭取室や役員応接室の絵画を、近く総入れ替えするそうで、その絵を選ぶのが大須賀頭取だとのことです」  と教えた。 「頭取室の絵?」  原沢は怪訝な顔をする。 「大須賀頭取は絵画や彫刻に造詣の深い方でして、名画のコレクターとしてもよく知られております」 「そうらしいね」  と頷く。 「コレクターの常として、高価な絵、すばらしい絵を買うのが大好きで、たぶん趣味の域を越えております」 「だろうね」 「たとえ、他人が所有する絵画であっても、自分が口出しをして買うということになりますと、独特の満足感が生じます」  と説明を続ける。 「そういうものかな」  不承ぶしょう納得する。 「成瀬頭取はそこへ目を付けました」 「なに、成瀬が?」  原沢はいささか動揺したのか、|さん付け《ヽヽヽヽ》を省いてしまった。 「はい」  と高川は頷いた。 「成瀬頭取はコレクターの心理を知って、巧みに弱味を突いたことになります」  と言いつのる。 「うむ」  原沢は不快そうに下唇を噛んだ。 「大須賀頭取が喜ぶのを見越して、頭取室や役員応接室の絵の入れ替えを決め、その選択を全面的に大須賀頭取にお任せしたいと申し出たのです。もちろん、大須賀さんは喜んで引き受けました」  と伝えた。 「見えすいたことをしておる」  吐き出すように言った。 「たしかに、見えすいておりますが、効果はあったようです」  と感想を述べた。 「うーむ」  原沢は腕組みした。 「それから」  と高川は前置きする。 「まだあるのかね?」  いくらか険を含んだ言い方である。 「もう一つだけございます。三洋の杉本前頭取と勝田前副頭取が静岡まで出掛けて、大須賀頭取と食事をなさったそうです」  高川は報告を終えた。 「杉本さんが」  原沢は首をひねった。 「あの人はもう引退したんじゃなかったのかね?」  小声で呟いた。      5  松岡紀一郎は「茉理花」にいる。  昨夜もこの店に来ていたが、今夜もまた同じ店に来てしまった。  ママの小森理花の、かなり強引な吸引力のせいであろう。そうとしか思えない。松岡は理花との関係が深まってから、しばしば「茉理花」にあらわれるようになった。  もちろん、それ以前も時折りは寄っていた。が、ママとの間が一線を越え、男女の仲になってみると、なおのこと、足がこっちに向いてきた。  昨夜、松岡は殆ど衝動的にこの店のカウンターから電話を掛けた。三洋銀行本店総合企画部の長谷部敏正直通のナンバーをプッシュしたのである。  午後九時五十分になっていたから、たぶん、長谷部は席にいないだろうと思った。むしろ、居てくれない方がよいと思いつつ受話器を握りしめた。  ところが、本人が出た。とっさに、皮肉を言ってしまった。酔いのせいもあったが、何となく淋しく、かなり被虐《ひぎやく》的な気持ちにもなっていた。  始めは合併問題について探るつもりだった。が、つい口が滑って松岡の方から切り札を出すはめになった。途中で、勝田から得た情報を試そうという気が起きた。あげくに、言うだけ言ってしまった。  いま、振り返ってみると、その言い方がどうも気に入らない。アンフェアーであったとも思える。おそらく、長谷部は厭な気持ちになったであろう。彼に厭味を言う気はなかったのだ。が、結果としてそうなってしまった。  昨夜は勢いにかられた。酔いも手伝い、後味もまあまあだったが、今夜は違う。何となく気が滅入る。カウンターの同じ椅子に坐っているのに、すっかり気持ちが沈んでいた。  原因は長谷部とのやり取りだけではない。ほかにもあった。  今日、黒川弥八の経営する不動産会社に追加融資をしたのだ。要注意先としてこれ以上の融資をしないと申し合わせたばかりである。それを支店長自らが破ってしまった。二億円の申し込みを一億五千万円に値切るのがせいいっぱいであった。  黒川に弱味を突かれた。深夜、店の前で二人いっしょにタクシーに乗るところを見られていた。その時の運転手が黒川の会社の社員の弟だという。嘘のようなほんとうの話だ。あげくに、小森理花との関係をうんぬんされて、何となく追い込まれたかたちになった。 「さすがは名支店長さんですなあ。博多の夜の世界でも指折りのいい女を口説いている。この通り、脱帽しました」  ぬけぬけとそう言った。  とぼけても効果はなく、黒川のいけ図々しさに押し切られた格好になった。  もし、今回の融資申込みを断固拒否していたら、あるいは、面倒なことになったかも知れない。黒川なら何かやるだろう。必ずしも、それを恐れたわけではなかったが、結果として長いものに巻かれたかたちになっている。  してやられた口惜しさとやり場のない忿懣が残った。  すでにウイスキーの水割りを四、五杯飲んでいるのに、さっぱり酔えなかった。不快感ばかりが拡がってきた。 「どうなさったの?」  と理花が気遣った。 「どうもしないよ」  とぶっきらぼうに応じる。 「今夜は、何だか変だわ」  と彼女は言う。  実際、かなり変ではあった。彼の不安定な精神状態が態度にあらわれている。何となく面白くないのだ。 「どう、一曲歌ってみたら?」  と理花は奨める。 「厭だね。歌う気分になれん」  ぼそりと応じた。 「まあ、重症ね。銀行で何があったの? 女には言えないこと」  彼女は追及する。 「その通り、女には言えん」  と答えた。 「あら、ご挨拶だわね」  理花は睨んだ。 「いいの、そんなことを言って」  と凄む。 「当たり前だ。断じて、教えるわけにはいかん」  松岡は言い返した。 「あ、そう」  と彼女は脇を向いた。  こんな男の相手になんかなっていられないとばかり、立ち去ろうとしながら、つと近寄って耳許に口を寄せる。 「待ってらっしゃい。今夜、言わせてあげるから」  と囁いて遠ざかる。  その瞬間、ぎくりとした。躰の一部が官能の火に炙《あぶ》られたような気がして、思わず身をよじった。 「おやっ」  と思う。  先程から、ずっと彼を押え続けていた、あの執拗な不快感が、すうっと遠ざかってゆくのがわかった。  それに代わって妄想があらわれた。理花の色白で豊満な裸身がせまってくる。 「うっ」  思わず息を呑んだ。  そこへ店内を一巡した理花が戻ってきた。また耳許に口を寄せる。 「今夜はお店を早く閉めるわ。十一時半には閉店よ」  告げて遠ざかる。  松岡は思わず左手首の腕時計を見た。十時三十分である。 「あと一時間か、長いな」  と呟いた。      6  新橋の料亭「米村《よねむら》」には面白い趣向がある。一階のテーブル席の右側に小舞台を思わせる座敷がせり出している。  この座敷の端がカウンターになっていた。せいぜい十二、三席しかないが、ここに坐るお客は特別料金を取られる。  それもその筈だ。カウンターは特等席といってよく、予約が必要だ。すぐ前の座敷に妙齢の綺麗なおねえさんが三人あらわれてにこやかにお酌をする。むろん、話し相手にもなってくれる。  いずれも新橋の有名な芸者さんで、しばらくお酌をした後で、あでやかな踊りを披露する。酒を飲み、懐石風の料理を突つきながら踊りを愉しめる。あまりおおげさではなく、気軽なところが受けている。  午後七時、勝田忠が杉本富士雄を案内してあらわれた。  勝田は銀行時代から「米村」の常連であった。杉本もかなり前に一、二度来たことはあるが、改装後こういう座敷が出来たのは知らない。  二人はカウンターの中心部に案内された。予約席である。  並んで坐るとすぐ、見事な着物姿のおねえさんがあらわれた。三人が二人の前に坐り、競ってお酌をする。 「いかがです」  と勝田は耳うちした。 「けっこうだね。大輪の花が一度に咲いたようだ。ほら、よく言うじゃないか? いずれあやめかかきつばたって。年寄りには目の保養になる」  機嫌よく言い返す。 「まったくです。若返りの妙薬というところでしょうか」  勝田も嬉しそうに同調する。 「きみも隅に置けんなあ。銀行じゃあまり仕事をしなかったが、穴場だけは実によく知っておる」  杉本はけなしたのか誉めたのかよくわからない言い方をした。 「これはどうも」  勝田は照れて右手で頭をかいた。誉められたと思ったのだ。  とにかく、気に入ったらしいと感じると満足感を覚えた。ずっと以前からの習性である。長年、ナンバー2として、何事についてもナンバー1の気に入るように努めてきた。いまはもうそれほど気を遣う必要はないのに、あまり変わらぬ接し方をしている。  杉本の方も勝田に対する態度をいささかも変えていない。遠慮する風もなく、相変わらず命令口調でものを言いつける。  見方を変えればよいコンビと言えた。杉本は何事であれ、他人に命じるのがクセになっており、勝田は命じられるのをことのほか好む。  したがって、二人は連れ立って出掛けるのをいささかも苦にしない。むしろ、望ましいかたちになっていて、絵に描いたようなギブアンドテイクが成り立つ。両者共、電話を掛けあって会ったり、いっしょに出掛けたりするのを大いに愉しみにしている。  今夜もそのたぐいであったが、声を掛けたのは勝田の方である。もっとも、もう一日か二日遅ければ、逆に杉本の方が電話をしてきたであろう。  杉本は料亭と聞いて声を和らげたが、こういう展開になるのを予想していない。綺麗どころが早くあらわれすぎてしまって、密談が出来なくなった。 「やれ、やれ」  という顔付きをした。 「頭取!」  と勝田が呼び掛けた。 「踊りが終わりましたら、上の座敷へ移って、果物と抹茶はそちらで貰いましょう」  とすかさず言う。 「そうだな。それがいいね」  と杉本は応じた。  勝田はまたもや自分の読みが当たったのを感じて満足感を覚えた。  料理がひと通り出たところで踊りが始まった。最初は一人ずつで、次いで二人、最後は三人が一緒に踊る。  終わって、おねえさんたちが引っ込んだ。勝田はタイミングよく立ち、杉本を二階へ案内した。 「やはり、この方が落ち着くね」  杉本は座敷に入って上座に坐るとすぐそう言った。 「それでは、もう一度飲みなおしましょうか?」  勝田はそつがない。 「いや、もうけっこうだ。茶そばでも貰って、あとは果物とお茶でいい」  と杉本は言う。 「綺麗な人に注がれていささか飲みすぎたよ」  とつけ加えた。 「どうも申し訳ありません」  と頭を下げる。 「きみが謝ることはない。図に乗ってつい飲んでしまった。これも気分が良くなったせいだろう」 「それならよろしいんですが」  勝田は揉み手をした。 「この間、大須賀さんは原沢さんが来たと言ったね」  とたしかめる。 「はい、あれには驚きましたよ」  とすぐ応じる。 「となると面白くなってくる。原沢さんの狙いと成瀬くんの思惑はほぼ同じだろう」 「そうだと思います」  と同意する。 「それだったら、原沢さんに協力してもいいんじゃないかな」 「はあ」 「頼りないな」  とたしなめた。 「共同戦線を張ってもいいと言っているんだよ」  と言い添える。 「わかりました。その方が戦力が高まると思います」  身を乗り出して答えた。 「成瀬君は慌てるだろうな」  杉本は嬉しそうに言う。 「彼の勝ち目はなくなりますね」 「うむ」  と頷く。 「原沢さんはわたしの意図をよくは知らん筈だ。およその想像はつくだろうが、この際、きちんと知って貰った方がいい。やはり、一度打ち合わせをするべきだね」  と断定した。 「わたくしもお供させて頂きます」  と勝田は申し出た。 「そうだな。なるべく早く原沢さんに会ってみよう」  と結論を出した。 「明日にでも、きみが電話をしてみるか?」  と言ってから首を横に振った。 「いや、待て。わたしが自分で電話を入れよう」  杉本は訂正した。      7  石倉克己は「星野田機械」のニューヨーク支店にいる。正式には現地法人になっていて、社長は町井正勝である。  町井は、メキシコシティに出張中で、まだ帰ってこない。石倉をさけるような行動を取っていた。  その町井から電話が入ってきた。濁み声だが威勢のいい声だ。 「いやあ、どうも失礼、あなたにはまことにすまないと思ってますよ。入れ違いにこっちへ来てしまったので、まるで逃げられたような気持ちでしょう」  しゃあしゃあと言う。  やはり、なかなかのしたたか者だ。飯沼進が厭がるわけである。まだ町井の顔を見ていないのに、声だけ聞いているうちに飯沼の気持ちがわかるような気がしてきた。 「ところでね、どうです、メキシコシティまで来て頂けませんか?」  と誘った。 「目下、大事な商談が進行中でしてね。どうにも手が離せんのです。あなたにもこちらの人脈を紹介したいし、いかがでしょう。ニューヨークからひと飛びで来られますからね。そうして頂けると有難いんですが、ぜひお願いしますよ。気分転換にもなりますし、酒も女も料理もいいですからね。ほんとうに、心からお待ちしております」  一方的にしゃべりまくった。 「有難いお誘いですが、メキシコまで足を伸ばすのはちょっとね」  石倉は圧倒されながら辞退した。 「まあ、そう言わないで、ひと飛びで、がらりと世界が変わるんです。いろいろ穴場にご案内しますよ。マリアッチのリズムに乗って下さい。心が浮き浮きしてきて、すぐに十歳位は若返りますからね」  つけ加えて、豪快な笑い声をあげた。  石倉は押されっぱなしになったが、とにかく、押し返した。そして、ひとまずは断わった。が、町井は強引だ。簡単には諦めないだろう。明日になればまた掛けてくるに決まっている。おそらく、勧誘の口調や文句までほぼ同じであろう。  石倉は東京本社の飯沼社長に電話を入れた。事情を説明し、町井が依然としてメキシコシティに出張中である事実を報告する。 「わたしにメキシコシティまで来いと言っています。うるさく誘われましてね。負けそうですよ」  と教えた。 「いかん、いかん」  と飯沼は力んだ。 「メキシコの酒と女で君を籠絡するつもりだよ」 「まさか?」  と反論する。 「その、まさかだよ。まさかで、皆落城だ。いままで派遣した監査役は全員が誘惑されてしまった。見事なものだ」 「話には聞いてますが、現実には信じられませんね」 「きみは町井の本質を知らんから暢気なことを言ってるんだよ」  飯沼は少し気色ばんだ。 「ところで、社長、円高が急激に進行しそうな気配が高まっています。ウォール街の周辺であちこち嗅ぎ廻りましたが、状況は芳しくありません。現地法人の経理にはひと通り目を通しましたが、とくに問題はないようです。注意事項や改良すべき点はいくつか指摘しておきました」  と知らせた。 「うむ、有難う。ごくろうだった」  とねぎらう。 「それで、いかがでしょう。町井社長をメキシコシティまで追い掛けるか? 東京へ引き返して円高対策その他に取り組むか? 結論を出して下さい。わたくしならためらわず後者を選びますが」  と伝えた。 「わかった。帰ってきてくれ」  と飯沼は言った。 「そういう状況ならなおさらだ。きみに居て貰わないと困る。町井なんぞ放っておけ。いずれ、決着をつけてやる」  といきまいた。 「わかりました。明日の午前中のフライトを掴まえます」  と石倉は答えた。  それから、急に忙しくなった。なにしろ、今夜がニューヨーク最後の夜になる。  石倉はすぐ、神谷真知子の電話番号をプッシュした。彼女との約束を取り付けてから、明日、町井が電話を掛けてきて、さぞ驚くだろうと思うと、いくらか溜飲が下がってきた。あのいけ図々しい濁み声をもう耳にしたくないものだと思った。  石倉は牧野令三にも口留めした。明日になってから、メキシコシティへ連絡すればよい。急に石倉が東京に帰ってしまった。いささかうろたえてそう伝えればよろしいと教え込んだ。 「わかりました」  と頷いて、牧野はすばやく右眼を閉じてみせた。  石倉も頷き返した。手なずけておいただけのことはあった。いまの段階では完全な味方かどうかはわからないが、石倉の意向に従っている。 「あなたの経理処理はきちんとしている。その点については、間違いなく飯沼社長に報告しておきましょう」  と石倉はおだてた。 「有難うございます。これからもよろしくお願いします」  と叩頭する。 「わかりました。こちらこそ、よろしく。場合によっては、東京から、夜、あなたのマンションに電話を入れます」  今度は石倉が右の眼を閉じた。 「いつでも、どうぞ」  と牧野は答えた。  夕方、真知子の方が石倉の会社に来た。  その夜、二人はチャイナタウンへ行った。あまり清潔とはいえない油じみた古い店が多い。サンフランシスコや横浜のチャイナタウンの方がずっと綺麗でレベルが高い。  何といっても、中華料理は日本人の舌に合っている。外国に居て次々と馴染み深い料理が出てくると正直なところほっとする。それに、安くて気軽で栄養価も高い。 「わたくし、一週間に一度位はここへ来てるんですよ」  と真知子は告げた。 「やはりそうか」  石倉は納得した。 「でも、ショックですわ。明日、お帰りになってしまうなんて」  と彼女は訴えた。 「もう少し長くいるつもりだったけど、予定が変わった」 「お引き留めしても、無駄でしょうね」  と真知子はこだわる。 「申し訳ないね。ほんとうは、危うくメキシコシティまで飛ぶところだった」 「まあ」 「大きな理由は最近の円高傾向だよ。これでも経理部担当だからね。利益がどんどん吹っ飛ぶ。深刻だよ。これ以上円高が進むようだと、打つ手もなくなるけど、とにかく、東京の本社にいないとね」  と説明する。 「わかりますわ」  彼女は頷いた。 「一つ、お願いしてもいいでしょうか?」  とつけ加える。 「どうぞ」  と石倉は促した。 「実は、わたくしも、出来るだけ早く東京へ帰りたいんです。近頃はとくにニューヨークにいるのがつらくなりました」  と打ち明ける。 「わかった」  と石倉は短く答えた。 「きみをニューヨーク勤務にした張本人はぼくだからね。責任がある」  と認めた。 「いえ、部長に責任はありません。わたくしが勝手にニューヨーク嫌いになったんです。始めはずいぶん好きになろうと努力したんですけど」  と言いつのる。 「そのことはいいよ。誰だって好き嫌いはある」  と石倉は慰めた。 「わたくし、|MOF《モフ》担の頃は自分でも飛んでる女のような気がしていたんです。ところが、ニューヨークに来てみたら、羽がないのに気が付きました。羽もないのによく飛べたものだと不思議な気持ちです」  彼女は淡々と言う。 「なるほど、飛んでる女ねえ」 「こっちへ来てようやくわかったんですが、飛べたのは、石倉部長がいてくれたからでした。言いかえると、部長が上手に上昇気流に乗せて飛ばせてくれたんです」  と主張する。 「そんなことはない。飛んだのはきみだ。きみ自身だよ。きみには実力もあったし、熱意もあった。前向きに、果敢に仕事に挑戦したんだ」  真面目な顔になった。 「また、おだてる。そうやって真剣な表情でわたしを乗せたんです」  真知子は嬉しそうな笑みを浮かべた。 「何を言う。大人をからかっちゃいかん」  石倉はたしなめた。 「でも、部長さんにそんなふうに慰めて頂けると嬉しいわ。心が和やかになります」  今度は真顔で言った。 「ついでにと言っては申し訳ありませんが、わたくしのニューヨークでの恋愛体験、聞いて頂けますか?」  真知子は、いくらか挑戦的な眼ざしで石倉を見た。      8  長谷部敏正は衝撃を受けた。  頭取の成瀬と自分しか知らない筈の、太平銀行へのアプローチが、松岡紀一郎にそっくり知られていた。しかも、それだけではない。松岡は富桑銀行の原沢頭取の接近ぶりまで知っている。  いくら何でも、これは福岡支店長の守備範囲を大きく越えているのではなかろうか?  前回、東京に出てきた時には、松岡の言動にとくに不審な点はなかった。それとも、何か見逃したのか?  ただ、松岡は成瀬頭取に会えないのを残念がっていた。いや、残念がるというよりは、口惜しく思ったのではないか?  その点について多くは語らずにいたものの、内心、面白くなかったであろう。かなりの忿懣を抱いて博多に帰り着いたのではなかろうか?  もともと松岡は頭の回転の早い、機を見るに敏な人物だ。調査能力も持っている。朴訥な長谷部とは対照的といっていい。  それにしても、ニュースソースはどこだろう。じっくり考えてみたが思いつかない。 「うーむ」  長谷部は唸って、腕組みした。  成瀬本人及びその周辺から漏れたのか? そうは思えなかった。 「どうも、よくわからん」  と彼は呟いた。  成瀬に報告して、心当たりを尋ねてみればもう少しはっきりするかも知れない。が、その場合、松岡の立場はどうなるのか? およその想像がつく。  目下のところ、松岡は何となく成瀬に疎《うと》んじられている。理由はよくわからない。二人の間に何かあったのかどうかは長谷部の知るところではなかった。  一年前、松岡は合併反対派として活躍し、成瀬の後押しをしている。明らかに、成瀬—松岡ラインが成立していた。  ところが、目的がかない、成瀬政権が誕生するや、松岡は福岡支店長になって赴任した。これは成瀬の一時的なカムフラージュであろう。自派の部下をいきなり役員にするのを遠慮した結果である。  誰もがそう考えた。長谷部もほぼ同様の解釈を下した。松岡自身も同じ考えらしく、博多に長くとどまる気はなく、単身で出掛けた。彼としては、いきなり中枢部へ入りたかったのであろうが、ホンネを殺し、タテマエを尊重したのであろう。実に飄々《ひようひよう》としていた。  颯爽とまではいかなかったが、けっして顔色はわるくない。他日を期し、自信に満ちた表情で赴任して行った。  したがって、東京と博多との距離はあるものの、成瀬と松岡は依然として密接なつながりを持っている。多くの者たちがそう思っていた。もちろん、長谷部とて例外ではない。  それだけに、少し以前に松岡が久しぶりに上京した時、成瀬が会おうとしなかったのは意外である。その時から、どこかおかしいという思いはあった。  しかし、どうやら事態は単なる不仲ではなく、もう少し先まで進んでいる。  しかも、松岡はすでに情報収集を終えていて、最近の動きをかなり正確に知っていた。  長谷部が首をひねり、危惧の思いを抱くのも無理はなかった。  彼の立場だけを考えれば、早く成瀬に伝えて、今後の対応を相談した方がよい。むしろ、進んでそうすべきかも知れない。  だが、そんなことをすれば、松岡の立場がなくなる。成瀬はこれさいわいと松岡を見放すだろう。いや、もっと厳しくのぞみ、何らかの処分を下しかねなかった。最近の成瀬の自信とある種の傲慢さを思い合わせれば、甘い判断を下すべきではない。  言いかえれば、長谷部の進言ひとつで、同期の親友の将来を左右することになる。 「困った」  長谷部は再び呟いた。  やはり、ここは沈黙を守ってしばらく様子を見るほかはなかろう。少なくとも、自分の手で友人の未来を閉ざすわけにはいかない。それだけはやめようと決意した。  長谷部は夜になって、マンションの自室から、博多の松岡の部屋に電話を掛けた。彼もマンション住まいで単身赴任者なので、置かれた状況はよく似ている。ただ、長谷部は大学生の息子といっしょに住んでいた。  午後十時四十分である。外で会食をしても、そろそろ自室に帰り着く頃だ。  呼出し音は鳴ったが、誰も出ず、しばらくすると留守番電話に切り替わった。 「松岡です。ただいま留守にしております。ご用のある方は」  やや憂鬱そうな声が聞こえてきた。  その声音から、これを吹き込んだ時の松岡の顔付きと、あまり冴えない精神状態が想像出来る。  わが身に照らし合わせてみて、何となく同情の気持ちが生じた。たぶん、留守番電話の声は松岡のも自分のもあまり変わらないのではあるまいか?  ピイーッという音が聞こえた。長谷部はワンテンポ遅れて吹き込んだ。 「長谷部です。先夜はどうも。とくに急用ではありませんが、ちょっと声を聞きたくなってね。十二時頃までに帰れるようでしたら、連絡してみて下さい。お願いします」  言い終えて受話器を置く。  全部入ったのかどうか気になったが、前半だけでも録音されていれば、意図の一部ぐらいは伝わったに違いないと思った。  十二時になっても、松岡からの電話は入ってこない。こちらからもう一度掛けるのはしつこいような気がする。 「まあいい」  長谷部は馴れた手付きでブランデーのお湯割りを作った。  近頃はこれを飲まないと寝つきがわるい。疲れているのに、しらふだとなかなか眠れないのだ。横になると眼が冴えてしまって、ついよけいなことを考える。  長谷部はブランデーの香りを愉しみながら、ゆっくりと飲む。昼間、銀行で起こったことを頭の中から追い払う。すっきり追い払えればよいが、それが出来ないまでも、じくじくと思い出さないようにしたい。  躰の底が暖かくなってきた。この分だと今夜はよく眠れそうだ。  十二時十五分になった。 「よし」  小さな掛け声で立ち上がる。ベッドルームへ移動しようとした。  この時、電話のベルが鳴った。 「もし、もし」  長谷部が先に言う。 「いや、すまん。松岡だ。いま帰ってきたところだよ」  しっかりした声が聞こえてきた。 「忙しいところ、こちらこそすまない。急ぐわけではないんだが」  と言葉を濁す。 「わかっている。この間は言いすぎた。酔いもあったが、何だか気持ちが荒《すさ》んできてね。自分でもわかっていながら、きみに当たり散らした。まったく、いかん。すまないと思っている。許してくれ」  と松岡は詫びた。 「誰にでも虫の居所のわるい時はあるさ」  と長谷部は応じた。  急いで成瀬に相談したりしないでよかったという思いがこみあげてきた。 「そう言って貰えれば助かる。ほんとうだ。改めて謝罪する」  と松岡は言いつのる。 「そんなに大げさなことじゃないよ。あまり気にしないでくれ」  長谷部は少し照れた。  気配が伝わったのか、松岡はほっとしたらしい。 「やはり、古くからの友人だなあ。ほかの人間じゃとてもこうはいかない」  しみじみと言う。 「お互いさまだ。こっちだっていつつまらんことで突っ掛かるかも知れん。その時は許してくれ」  と長谷部も言った。 「いや、そんなことはない」  と松岡は否定する。 「きみはぼくよりずっと温厚で冷静だよ。それに紳士だ」  とつけ加えた。 「さあ、どうかな? 自分でもさっぱりわかりませんよ」 「少なくとも、ぼくよりはきみの方が格が上だね。最近になって、その点がはっきりしてきたよ」  ともち上げる。 「ところで、この間きみが口にした合併工作の話、あれはいったいどこから仕入れてきたんだね?」  長谷部はさり気なく訊いた。 「あれか?」  松岡は一瞬ためらった。 「ぼくから聞いたとは言わんでくれ。絶対に困るよ」  と念を押す。 「もちろんだ。約束するよ」  長谷部は落ち着いた声で請け合った。 「実は、杉本前頭取と勝田前副頭取、この二人がわざわざ博多まで訪ねてきてくれてね。いっしょに食事をした。こっちで一席設けたんだ。その時、初めて耳にして以来、たびたび情報をくれる」  と教えた。 「杉本さんと勝田さんが」  長谷部は絶句した。意外な気がしたのである。 「だって、あのお二人は引退した人たちでしょう」  と呟く。 「いったんは引退したものの、まだ躰は丈夫だし、頭も働く。第一、暇で時間は十分にある。おかげで、いままで以上にものが見えてきたとしたら、動きたくもなってくるよ。それに、二人共、成瀬昌之には相当の恨みを持っている」 「なるほど」  長谷部は頷いた。いくらかわかるような気がしてきた。 「最近になって、静岡まで出掛けたらしい。杉本さんは以前から太平銀行の大須賀勇造とは親しい仲だからね。そこで、富桑銀行の接近まで教えられた。翌日、直ちにぼくの所まで情報が入ってきた。ざっとこういう仕掛けですよ。どうです? これなら納得出来るでしょう」  松岡は説明した。 「よくわかった。ついでに、もう一つだけ訊きたいんだが」  長谷部は言葉を濁す。 「どうぞ」  さらりと言った。どうやら松岡は何でも話す気になっているらしい。 「成瀬頭取との関係はどうかなったのかね?」  ずばりと訊いた。 「どうもしっくりいかないんだ。だんだんおかしくなってきた。ぼくを避けているというより、むしろ、問題にせず、完全に無視している。そうとしか思えない」  と打ち明けた。 「それは客観的に見た上で、かね?」  とたしかめる。 「その通り。始めは自分だけの思い込みかも知れないと考えた。ほんとうのところ、そう思った方がらくだからね。しかし、違う。現実は厳しいよ」 「………」  長谷部は黙っていた。 「成瀬さんにとって、松岡紀一郎はもう必要のない男だ。過去の部下なんだよ。いまは無視しているものの、本心はもっとシビアーで、早く捨ててしまいたい。なまじ、自分のある部分を知った部下などうっとうしいだけで、邪魔になるだけだ。そう言えばわかるだろう。だぶん、真相はそんなところじゃないのかな?」  松岡は他人事のように分析する。 「それで、杉本さんの方に付くというのかね?」  長谷部は突っ込んだ。 「いや、まだはっきり決めたわけではない。なまじ旗色を決めれば不利になる。いまのままなら情報も取れるし、どちらの側にも付ける。いまの時点で言えるのはそこまでだよ。ただ、われわれ二人の間では、お互いに足の引っ張り合いはやめよう」  松岡はそう提案した。      9  原沢一世は杉本富士雄から電話を受けると、思わずにっこり笑った。 「これはどうもお久しぶりです。お元気でいらっしゃいますか」  と丁重に言う。 「おかげさまで、いたって元気です。やはり、すっかり暇になったのが健康にとてもよいようですな」  杉本はいくらか皮肉っぽく答えた。 「それは何よりです。怠け者のわたくしと違って、杉本さんは実によく働かれましたからね。いつも感心して、見習おうと思いつつ、なかなかうまくいきません」  と謙遜する。 「これは困りましたな。原沢さんにはいつもおだてられて、つい、いい気になってしまいます」  杉本は嬉しそうに言う。 「ところで、いかがでしょう。一度、ゆっくりお食事でも」  原沢の方から誘った。 「却って恐縮です。実は、わたくしも出来ればと思っておりました」  と杉本は答えた。 「それはちょうどよかった。いま、スケジュール表をチェックいたします」  言いつつ、二か月ほどさきの空欄を探し始めた。 「先日、太平銀行の大須賀さんにお会いしましてね。耳寄りな話を聞きました」  杉本はさらりと言った。 「そうでしたか?」  と応じて、いきなり眼を転じた。一週間以内の日程表をじっと睨んだ。  何処にも空欄はない。秘書課長によってびっしりと予定が書き込まれている。問題はどれをキャンセルするかだ。  三日後に政治家との昼食予定が入っていた。原沢はその上にボールペンでクエスチョンマークを加えた。 「いかがでしょう。三日後のお昼ということでは?」  と提案した。 「そんなに早く」  杉本は少し驚いた。  自分の頭取時代、申し出を受けた同じ週のうちで、昼食にせよ、夕食にせよ、食事時間を空けることは出来なかった。  もっとも、近頃は政治家の値打ちが下がっている。以前なら、原沢も中堅政治家との昼食会を変更することはなかったが、いまは違う。さっさと変えて、副頭取に任せてしまう。その方が下手な約束をしないですむ。 「せっかくですから、早くお目に掛かりたいと思いましてね。場所はこちらで決めさせて頂いてもよろしいでしょうか?」  丁寧に訊く。 「おまかせします」  と杉本は答えた。 「では、のちほど秘書課長に連絡させましょう」  原沢も機嫌良く言った。  三日後の正午、二人は築地の料亭で待ち合わせた。あまり目立たない店である。  期せずして、二人は十一時五十五分に着いた。両者共、長年にわたって、時間厳守を実行している。今日もけっして例外ではなく、相手を待たせまいとして五分前に来たのである。  原沢は頭取専用車で到着し、杉本は地下鉄を利用した。杉本は、五、六分の道をのんびりと歩いた。車に乗らなくなってから健康になったような気がする。が、そのことはあえて言うまいと決めていた。当てつけと取られても困るからだ。 「この店は知る人ぞ知るで、あまり知られていないんですよ」  と原沢は言う。 「そうですか、わたしも知りませんでした。察するところ、原沢さんの穴場でしょうな」  と杉本は調子を合わせた。 「まあ、そんなものです。もし、気に入られましたら、ぜひお使い下さい」  と奨める。  原沢はまず女将を呼んで、杉本を紹介した。 「これからは杉本さんが来られたら、わたしに対するのと同じ扱いをお願いします。頼みましたよ」  と念を押す。  料理は洗練されていて、量が少なく、老人向きと言えた。 「どうでしょう。気に入って頂けましたか?」  と原沢は気にする。 「気に入りました」  と杉本は答えた。 「それはよかった。ここへ来るとほっとします。満腹しないですむからです」  と理由《わけ》を述べた。 「静岡まで行かれたそうですね。大須賀さんはお元気でしたか?」  と訊く。 「少し元気すぎますなあ。やはり、空気の良い所に住むと違いますよ。寿命も延びるんじゃないでしょうか」  と応じた。 「実は、わたしはそれほどではありませんが、杉本さんは、以前から大須賀さんと昵懇《じつこん》でしたね」 「そうです。何となく、彼とは気が合いましてね。相変わらず、行ったり来たりしております。と言いましても、こちらは引退した身ですから、暇です。そこで、スケジュールはもっぱら先方さんに合わせております」  と答えた。 「ちょっと小耳に挟んだばかりですが、おたくの成瀬さんが大須賀さんにしきりに取り入ろうとしておられる。目的は何か知りませんが」  わざと言葉をにごした。 「わたしは三洋銀行とはもう殆ど関係ないと言ってもいいくらいですが、やはり、古巣のことなので気になります」  と杉本は訴えた。 「ごもっともです」 「近頃、成瀬のやっておることは、どうもよくわかりませんなあ」 「そうですか?」 「楽をして成果を上げようとする。安易な融資だけではなく、どうも後ろ向きのよからぬことを考えている。そうとしか思えませんよ」  口を尖らせた。 「ほう」  原沢は驚いて見せた。 「何を考えておられるんでしょうか?」  わざと訊いた。 「あの男の頭の中は、どうもよくわかりませんなあ」  と杉本はとぼけた。 「大須賀さんが絵画に目がないのをうまく利用しようとしていますな。何でも、大須賀さんの指導で頭取室や役員応接室の絵を総入れ替えするとか」  誘いを掛けた。 「いかにも見えすいている」  と杉本は呟いた。 「しかし、大須賀さんとしてはわるい気持ちじゃないでしょうな。好きな物は好きでしょうから」  唆《そそのか》す口ぶりだ。 「彼は受けますよ。あれで、なかなかのしたたか者ですからね。いずれ、成瀬は手玉に取られる。じっくり待っていればそういう場面も見物出来ます。とはいえ、わたしも年齢《とし》ですから、あまりのんびりしていたくない。そこで、同じ考えの勝田くんにも協力して貰って、少しばかり揺さぶりを掛けることにしたわけです」  と告げた。 「それはすばらしい」  と原沢は誉めた。 「いま一度確認したいんですが、成瀬さん憎しのお気持ちに変わりはありませんね」  とたしかめる。 「ありません」  杉本は即座に答えた。 「では、どうでしょう。わたくしにも、ぜひ手伝わせて下さい」  と原沢は頼んだ。 「協力し合うということですか?」  杉本は確認する。 「まさに、その通りです」  原沢は頷いた。 「杉本さんとわたくしが力を合わせれば出来ないことはありません。成瀬さんがどんな知恵を出そうと、大須賀さんがいかにしたたかであろうと、大丈夫でしょう。十分に太刀打ち出来ます」  と強調した。 「たしかに、そうかも知れません」  と杉本も認めた。 「だが、どうでしょう? この前は見事に失敗しました。あげくに、わたしは頭取の座まで失ってしまった」  いくらか恨みがましく言う。 「あの時は不運でした。ツキに見放されたと言ってもよいと言えます」 「そうかも知れませんが、わたしの読みが浅かったのもたしかです。第一、成瀬をもっと早く切るべきでした。部長、支店長クラスの反対者に対しても、早い時期に断固たる処置を取っておけばよかった」 「しかし、おかげでいろいろなことがわかりました」  原沢はゆっくり頷いた。 「たしかに」  杉本も同調する。 「あなたも、そして、わたくしもよい勉強になりました。もし、二人が協力し合えば、今度は成功するでしょう」  原沢は自信たっぷりに言った。 「そのためには、役割を分担した上で、周囲に気付かれずに潜れるだけ潜って、やがて浮上する。浮上した時はすべてが完成して終わった時です」  とつけ加えた。 「それが合併成功の鉄則ですな」  と杉本も応じた。  両者はどちらからともなく、右手を出した。しっかりと握手したのである。 [#改ページ]  錯綜《さくそう》する思惑《おもわく》      1  静岡から出てきた大須賀勇造は多忙をきわめた。  もともと、彼は特別の用件がなくても、月に四回は東京に出てくる。毎週一回の割になる。もちろん、五、六回になることもあった。そのため、東京支店には大須賀専用の頭取室まである。静岡本店ほど豪華ではないが、それはもう仕方なかろう。  この部屋にもさり気なく名画が三点架けてあった。大須賀はわざとここへ人を通して、何の説明もせず、それとなく鑑賞力を試すことがある。芸術作品への関心と理解度をテストするのだ。もちろん、同じような試みは静岡の本店でも実行している。  大須賀は好んで、近付いてきた人物を採点する。これは彼の、いささか陰気で人のわるい趣味でもあり、秘かな愉しみでもあった。きちんと点数を出すこともあるが、とりあえずはABCDEの五段階で大ざっぱな評価を下しておく。あとで訂正も可能だ。  彼は長谷部敏正にAを付けた。成瀬昌之はそれより下なのははっきりしているが、頭取室その他の絵を大須賀に選んでくれと申し出た事実を重視してプラスアルファを加える。目下のところ、Bを付けていた。  これに対して、美術品にさしたる関心を示さず、話題にもしなかった原沢一世と高川明夫はCないしはDと考えた。もし、成瀬の行為に触発されて同じような申し出をするようであれば、ランクを上げてやってもよいとは思っている。ただし、少しだけである。  長谷部のように、最初から強い関心を示した人物とは大いに違う。差をつけなければ不公平であろう。  東京に来た大須賀が俄《にわか》に多忙になったのには理由《わけ》がある。  通常の業務に加えて、三洋銀行と富桑銀行の接待を受けねばならない。とくに三洋銀行の場合は、本店に出掛けて頭取室や役員応接室を自分の眼で見なければならなかった。その上で、壁のどの部分へどういう絵画を配置するのがよいのか、じっくりと考える時間も欲しい。  それだけではない。懇意で融通のきく画商を呼んで、しかるべき名画入手の手配をしなければならなかった。気に入った作品が簡単に入手出来るかどうか? バブルがはじけたとはいえ、ほんとうに良い作品はそれほど値段が下がってはいない。  しかし、大須賀は上機嫌だ。もともと多忙には馴れている。自己顕示欲の強い積極人間の常で、彼の場合は忙しいほど気分が昂揚してくる。  おまけに、成瀬昌之や原沢一世の下心に気付いていた。接触を受けるや、すぐにおよその察しをつけた。大須賀はわずか数年、長くても十年位で交代してゆくサラリーマン経営者ではない。オーナーのトップだ。  柔軟で、用心深く、そのくせ、大胆で判断能力にたけ、したたかで狡猾でなければ、長期政権を保つのはむずかしい。  本拠地が静岡なのも、ある意味で都合がよかった。東京や大阪、名古屋などにくらべると風当たりが弱い。おかげで、一歩|退《さ》がってものが見られる。  東京や大阪の動向を見た上で動いても、けっして遅れは取らない。金融界は横並び意識が強いから、どこかの銀行がヒット商品を出すと、他行もすぐに追従する、それが自行の営業種目にマッチしているのかどうか、ろくに検討せずに、ただ出遅れまいとして後を追い掛ける。  太平銀行ではこうした愚は犯さない。犯さずにすむと言える。先行する他行の営業状況を見た上で、進むかやめるかを決めればよかった。  デパートではあるまいし、どんな商品でも並べればよいというものではなかろう。大須賀は常々そう言っている。役員たちも抜かりはなく、トップの意向を受けて慎重な検討をしてからでなければ取り組まない。  こういう姿勢が堅実な経営に結びつき、内部留保の厚い、収益率の高い銀行とのイメージを定着させた。銀行に限らず、どんな企業でもそうだが、不況が長引くと、含み資産の大小がものを言う。  太平銀行の場合は他行にくらべて不良債権が極端に少ない。半分というより三分の一程度であった。他行のように配当を減らしてまで償却を急ぐ必要もなく、株価の低迷に顔色を変えることもなかった。 「たしかに」  と大須賀は頷いた。 「わたしの太平銀行は合併相手としては、申し分のない銀行だな。さしずめ、誰もがうらやむ花嫁候補というところか?」  と悦に入った。  ノックの音が聞こえて、東京支店の秘書課員があらわれた。 「そろそろお出掛けのお時間でございます。お車の用意をいたしました」  と知らせる。 「わかった。矢島くんはどうしたんだね?」  と訊く。 「はい、一階出口でお待ちしているとのことでございます」 「よろしい。すぐ行く」  と大須賀は答えた。  今回は矢島隆也もいっしょに上京したのだ。三洋銀行の長谷部敏正や、富桑銀行の高川明夫にくらべるとスマートさに欠ける。顔付き、頭の回転、ものの言い方やしぐさ、服装等々まで含めて比較すると、田舎者めいた印象はぬぐえない。  大須賀は専用の洗面所に寄り、手を洗い、嗽をする。ついでに鏡を見た。血色の良い、年齢よりはずっと若々しい顔が映った。 「よし」  と呟いて、にやりと笑う。それからゆっくりとエレベーターホールへ向かった。      2  長谷部敏正は午前十時五十分になると、一階正面の受付まで行った。  十一時に太平銀行の大須賀勇造と矢島隆也があらわれる。秘書課員に任せず、自ら出迎えて頭取応接室まで案内するつもりだ。通常の訪問客の場合、取締役が一階まで行って出迎えることはまずない。長谷部の律儀さがこんなところにも顔を出した。  十時五十五分に大須賀は姿を見せた。さすがというべきか? 約束の五分前に着いた。時間厳守である。蛇足ながら、一流の大物ほど時間を守る。  大須賀は一階の受付脇に立っていた長谷部が進み出て、丁重に一礼するのを見て相好を崩した。 「これは恐れ入ります。わざわざお出迎え頂くとは」  恐縮してみせた。 「わたくしの方こそ、ご足労をお掛けしまして」  長谷部は丁寧に答えて、案内に立った。  受付嬢から秘書課へ連絡が入る。三人の乗ったエレベーターは直通になっていた。ドアが開くと、秘書課長と女性秘書が二名うやうやしく出迎えた。  大須賀は上機嫌で会釈する。  長谷部と秘書課長が先に立って頭取応接室へ案内した。  二人の来客が腰を下ろすのを見はからったように成瀬があらわれた。  大須賀と成瀬は財界その他のパーティーで出会ってはいるが、ほんの挨拶程度であまりよく知らない。親しく話したことはなく、初対面に近かった。  両者は向かい合って坐り、にこやかに話し始めた。二人共そつはなく、話術は巧みだ。頭取としては、大須賀の方がずっと長く経験豊富である。  成瀬は若手といってよいが、杉本が失脚したため上に会長がいない。急激にワンマン体質を身に付け、自信を持ち始めていた。  どちらも敵にまわせば厄介だが、味方となれば頼もしい。お互いに、その点はよく承知している。  雑談がひと区切りついた時、話題は絵画へと移った。 「とにかく、わたくしの部屋と、この応接室、それから役員会議室の三室の壁の絵を取り替えたいと思っております。ひとつよろしくご指導下さい」  と成瀬は頼み込んだ。 「承知しました。わたしも素人なのであまり期待して頂いても困りますが、出来るだけのことはさせて頂きます」  と大須賀も応じた。  成瀬の案内で、頭取室と役員会議室を見ることになった。  長谷部と矢島と秘書課長がこれに加わる。五人は豪華な分厚い絨毯の上をゆっくり移動して行く。 「ほう」  頭取室に入ると、大須賀は感嘆とも侮蔑とも取れる溜息をついた。感心したのか、呆れたのか、その点もよくわからない。受け取る側の思惑によってどちらの解釈も下せる。大須賀のしたたかさはこういうところにもあらわれている。 「さすがは三洋銀行さんですな。頭取室はわたくしの部屋より少し広い」  まず広さに言及する。  三方の壁に絵画が三点架けられていた。残る一方は窓であった。  二点が洋画で、残る一点が日本画である。日本画の脇には中国風の立派な書が並んでいる。 「以前、ここは杉本さんのお部屋でしたね」  と大須賀はたしかめた。 「そうです」  と成瀬は頷いた。 「バトンタッチされてから、何か変更されましたか?」  と訊く。 「いえ、まったく手を付けておりません。なにしろ、美術的な方面にうといものですから、下手にいじってバランスを崩してもと考えまして、そのままにしておきました」  と答える。 「それは賢明ですね。ご謙遜だが、芸術的な何かを感じておられるからこそ、手を付けられなかったんでしょう」  大須賀は上手に誉める。 「経営面での施策や、人事と組織の強化などの問題の方に、どうしても眼がいきまして、自分の部屋の居心地やまわりの環境は二の次でした」  成瀬は打ち明ける。 「当然ですね。就任するや、すぐに官邸の内装に手を付けた首相がおりましたが、税金の無駄遣いもいいところだ。その前にやるべきことがたくさんあった筈です。無責任きわまりないが、果たして短期政権でしたな」  と大須賀はしたり顔で言う。  取りようによっては、これも成瀬に対する誉め言葉の一つである。 「おかげさまで、ようやく軌道に乗ってきた感があります」 「そうでしょう。外から見ますと、実に堂々としておられる。もう何年も前から成瀬時代が来ているという気がしますよ」  大須賀はそつがない。おだてるのもなかなかうまかった。 「そこでぜひともお知恵を拝借して、少しは芸術的な雰囲気にひたりたいという気になりました」  と打ち明ける。 「余裕ですな」  言いつつ、大須賀は一人で室内をゆっくり移動する。  他の四人は、大須賀の邪魔をせぬよう入口付近にひとかたまりになって立っていた。  大須賀は、一周してくると、今度は逆に歩いた。さも入念に検討しているかのように見えるが、彼の気持ちはすでに決まっている。室内を見廻した瞬間に、直感でどういう絵を架ければよいかわかったのである。  ただ、相手は素人なので、いささかもったいぶって、大仰に振る舞う必要があった。そうしないと値打ちが下がる。一種のデモンストレーションだ。 「ついでに、役員会議室の方も見せて頂きましょう」  ややあって、大須賀は申し出た。  こちらは長方形の大部屋である。中央に細長い巨大な机があり、そのまわりにびっしりと立派な椅子が並べられている。三十名を越す役員全員が坐れるようになっていた。  大須賀は今度も室内を歩き廻ったが、一周まではせず、半分ほどでやめて引き返してきた。  それから昼食会になった。  賓客用の特別室で食事が出る。一流ホテルからマネージャーとボーイ、コック二名が出張してきて、フランス料理が用意された。大須賀と成瀬、矢島と長谷部が向かい合うかたちで坐った。 「実は、この部屋もお願いしたいんです。そこの壁にヨーロッパの名画を入れられればと考えております」  と成瀬は指さしながら頼んだ。 「承知しました。バブルがはじけてくれたおかげで、いまなら、相当の作品が信じられないほど安く手に入ります」  大須賀は満足気に応じた。      3  石倉克己は予定よりずっと早くニューヨークから帰ってきた。  飯沼社長から依頼された件を解決したわけではない。それよりも急激な円高対策の方が先であると考えて、引き上げたかたちになった。  それに、現地社長の町井はメキシコシティへ出張していた。偶然か、意図的か、その点もはっきりしない。ただ、飯沼が嫌うだけあって、したたかな人物であるのはたしかだ。  部外者が乗り込み、短期間でウイークポイントを探すのはむずかしい。目下のところ、経理面でのボロは出ていなかった。帳票類を改ざんしたような形跡も見当たらない。  町井が急いで逃げ出す理由も、必要もなかったと言える。  だが、何となくおかしい。石倉はかなり執拗に誘われた。メキシコシティまで来るようにしつこく勧められたのだ。  もっとも、単なる好意かも知れないが、同時に誘惑である可能性もある。  いずれにせよ、石倉は東京に向かった。何の被害も受けてはいないが、その代わり、得るところも少ない。  もっとも、ニューヨークの空気を吸い、ウォール街周辺の動きに接しただけでも心が躍る。ビジネスマンとしては参考になることが多い。ニューヨークに限らず、ロンドンのシティ、フランクフルトの金融街、パリの中心部など、時折りは訪れて微妙な風向きを察知すべきであろう。  したがって、石倉の場合も、収穫がなかったとは言えまい。町井正勝の正体を掴めなかったのはたしかだが、もともと短期間では無理な話だ。 「星野田機械・アメリカ」の業容や実態はほぼ掴んだし、経理内容もほぼ把握した。副社長兼部長の牧野令三とも親しくなった。彼は町井の懐ろ刀ではあるが、今度の訪問で石倉とのパイプも開通したことになる。  それに、神谷真知子に会えた。  これも、ある意味では大きい。彼女のニューヨークでの生活ぶりがよくわからなかっただけに、石倉はショックを感じた。  真知子をニューヨーク支店に栄転させたのはほかならぬ石倉だ。少なくとも、あの時点では最良の人事であった。いまでも彼はそう思っている。  ところが、真知子は石倉が予想したような道を進んではいなかった。彼女はニューヨーク生活をエンジョイ出来ず、ふさぎの虫に取りつかれた。東京でのように颯爽としていない。  むしろ、後ろ向きの印象さえ受ける。もともと、彼女は仕事熱心で勝気な方だ。エネルギッシュで溌剌としていて、ものごとを明るく前向きに受け止めるタイプである。  それなのにという思いが強い。本質的な問題はともかく、近頃、東京とニューヨークは大いに接近している。いまさらカルチャーショックでもなかろう。  神谷真知子はニューヨークで羽ばたいて、ひと廻りもふた廻りも大きくなる。おそらく、短期間で、せいぜい一、二年で相当魅力的な女性ビジネスマンに変身する。  石倉はひそかにそんな期待を抱いていた。それがあまりにも簡単に引っくり返った。むしろ、驚くより、唖然とした。  石倉は真知子の打明け話を聞いた。ニューヨーク暮らしになじめない苛立ちや恋人の存在、リオ・ディジャネイロでの破局等々を告白されて、何となく納得させられた。が、まだまだわからないこともあった。  とにかく、ひとまずはニューヨーク生活に終止符を打った方がよい。石倉はそういう結論を出したところだ。  東京に着くと、夕方になっている。石倉は会社に直行して、社長の飯沼に会った。  殆ど毎日のように電話でやり取りをした。ニューヨークでの動きは逐一報告済みだ。したがって、あまり時間は掛からない。 「町井の奴、うまく逃げおおせたな。あの狢《むじな》めが」  と飯沼は口惜しがった。 「まあいい、いずれとっちめてやる。それより円高対策の方が重要事項だ。きみの留守中も検討してきたが、これで心強い。早速、明日の九時から会議を持とう」  と提案する。 「承知しました。ニューヨーク市場の動向についても報告します」  と石倉は答えた。  自室に入ると、午後七時になっていた。  石倉は少し考えて、すぐ心を決めた。三洋銀行の長谷部の机上の直通番号をプッシュした。  ベルが鳴った。五回目で長谷部本人が出てきた。 「おっ」  と長谷部は驚きの声をあげた。 「電話が近い感じだが、いったい、何処にいるんだね。ウォール街か?」  と尋ねた。 「残念ながら、東京だよ」  石倉は落ち着き払って応じた。      4 「そうか、帰ってきたのか?」  長谷部は嬉しそうに言った。 「あと一週間、いや、二週間位は先になるのかなと思っていたところだ」  とつけ加える。 「予定はその通りなんだが、今度の急激な円高にはまいったね」  と石倉は答えた。 「なるほど」  長谷部は納得した。 「メーカーさんは大変だ。それで、急遽予定変更か?」 「その通り、なにしろ、努力の限界を大幅に越えてるからね」 「まったくだ。何と言っていいかわからない。挨拶のしようがないよ。取引銀行としては、何とかお手伝いしたいんだが」  と長谷部は申し出た。 「有難う。そう言ってくれるだけでもほっとするよ」  と石倉は応じた。 「しかし、おたくはまだいい方だろう。このところ、輸出比率をずっと減らしてきてるし、取引も円建《えんだ》てに切り替えつつある」  長谷部は指摘する。 「よく知ってるじゃないか? さすがは元融資部長だ」  とおだてた。 「冷やかすなよ」  とたしめなる。 「ところで、近く会いたいんだが」  と石倉は言う。 「こっちも同じだよ。なるべく早い方がいいね」  と長谷部も答えた。 「じゃあ、今夜はどうだ」  と誘った。 「いいのか? 帰ってきたばかりで」 「たぶん、明日になるとスケジュールが詰まってくる」 「では、一時間後、ホテルのバーで会おう。ちょっと一杯飲んでから、寿司屋へでも廻ろうか?」 「そうしよう」  話はまとまった。  それから約一時間後の八時十五分、二人は赤坂のホテルのバーラウンジにいた。 「まったく、忙しいね。成田空港から会社へ直行、その上」  と言ったところで、長谷部はさえぎられた。 「きみだって似たようなものだろう。今夜だって詰まっていた予定をやり繰りしてどうにか空けてくれたんだ。なあに、改めて聞かなくてもわかっているよ」  と言いつのる。  二人はウイスキーを選び、ダブルの水割りを頼んで乾杯した。 「きみと会うのは仕事じゃない。明らかに、息抜きだよ」  と石倉は打ち明けた。 「それならいいんだが」  長谷部は微笑んだ。 「実は、ぼくも同じだと言える」  とつけ加える。 「松岡はどうしてる? 元気でやってるのかな」  と訊く。 「博多暮らしが一年を越えたんで、かなり苛立っている」  と教えた。 「そうか、福岡支店長はけっしてわるいポストじゃないが、成瀬—松岡ラインの当事者としては面白からぬところだな」  と同調する。 「本人は長くても一年と踏んでいたらしい。頭取から何の声も掛からないので、相当頭にきているよ」 「理屈屋で、ふてぶてしいところもあるんだが、短気で気の弱い一面もあるからね」  石倉は同情的だ。  長谷部は先日の電話を思い出して厭な気持ちになった。が、現時点では、それを石倉に打ち明けるわけにはいかない。 「やはり、単身赴任がいけないのかな」  と言ってしまってから、石倉は気付いた。 「いや、すまん。うっかりしていた。きみも同じだった」  と言い添える。 「たしかに、単身赴任はよくないね。忙しさにかまけて家に帰る回数がどうしても減ってくる。健康の問題もあるが、精神的にも不安定になりやすい。ぼくなんか息子といっしょだからいくらかましだけどね」  と述懐する。 「どうも、よけいなことを言ってしまったようだ」 「なあに、いいんだよ」  長谷部は人の好さそうな笑いを浮かべた。 「ところで、今夜は頼みがあるんだ」  石倉は少し真剣な顔付きになった。 「実は、ぼくの方にも頼みがある」  長谷部は口許を歪めた。 「わかった。こっちが先に言おう」  石倉は前置きした。 「ほかでもない。ニューヨークにいる神谷真知子の件なんだ」  と始めた。  手短かにいきさつを語り、真知子に会った感想を述べた。彼女の恋愛事件については、個人的なことなので省いた。 「それでね。彼女を東京に呼び戻して貰いたい。これ以上、ニューヨークに置いておくのは、銀行にとっても、本人にとってもプラスにならない。とくに本人には、何となく残酷な仕打ちのような気もする」  と伝えた。 「きみの力で、ひとつ何とか人事部を動かしてくれ。頼むよ」  と頭を下げた。 「よくわかった。やってみよう」  と長谷部は約束した。 「有難う。ところで、そっちの頼みは何だね?」  と促す。 「きみの頼みと違ってかなり言いにくい。しかし、ざっくばらんに打ち明けた方が気が楽だよ」  長谷部はそう断わってから始めた。  例の成瀬からの命令である。石倉を使って、富桑銀行の情報を取れと頭取は言った。 「うーむ」  聞き終わると、石倉は唸った。 「きみもつらい立場だなあ」  と感想を述べる。 「それにしても、そうあっさりとぼくに真相を打ち明けてしまっていいのか? まずいんじゃないか?」  と問い返した。 「そんなことはない。ぼくはきみとの間で腹の探り合いはしたくなかった。だから打ち明けた。とはいえ、きみにも立場がある。言ってもかまわない範囲内で耳打ちしてくれればいいんだ」  と長谷部は説明する。 「相変わらずだなあ。きみは名古屋支店長の頃とちっとも変わっておらんよ」  石倉はやや呆れたように言った。 「きみだって同じようなものじゃないか? いまはもう関係がないのに、かつての部下の身の振り方まで心配している」  と指摘して、長谷部はわざとかどうか、少しばかり首を傾けた。      5  松岡紀一郎は博多にいる。福岡支店の支店長室にいた。  以前よりいくらか顔付きが柔和になり、部下たちの評判が良くなった。近頃は苛立って、いきなり叱りつけるようなことはない。  博多の街は広いようで狭い。すぐに噂が拡がる。しかも、面白いように尾ひれがつく。ちなみに、「茉理花」のママは松岡支店長の愛人であるとの噂も、いったん、誰かの口の端にのぼると、もういけない。抜群の伝染力で拡大する。  知らぬのは、当人の松岡だけである。東京と違って、地方ではしばしばこうした現象が起こる。情報量が少ないせいか、それだけのんびりしているのか、噂が噂を呼ぶ。  震源地は融資を強要した黒川弥八か、あるいはママの小森理花か、よくわからない。  黒川の言い分はきちんと聞いてやった。追加融資に応じたのだ。それに、まさか当のママがとの思いもあるが、噂の拡大によって既成事実がはっきりする。その結果、松岡の逃げ場をふさぎ、虜《とりこ》に出来るという利点が生じてくる以上、完全な白とは言いがたい。  もっとも、この二人以外にも松岡と理花の姿を見た者はいるだろう。近くの飲食店の者や、理花のマンションの管理人夫婦など、いちいち数えあげてゆけば、十本の指では足りなくなる。  いずれにせよ、知らぬのは当人のみで、周囲は彼がおおらかになった理由まで知り尽くしていて、そ知らぬふりをし、時折り、顔を見合わせてにんまり笑っている。  松岡が支店長室内によくこもるのは、理花からしばしば直通電話が掛かってくるからだ。営業室内の机上でこれを取り、にやにや笑いを浮かべるのはさすがに気が引けた。  電話機が鳴った。  松岡はにやりと笑って手を伸ばす。 「もし、もし」  言うや、表情が引き締まる。 「松岡くん、元気かね? わたしだよ」  と言ったのは勝田忠である。 「これは、どうも」  と答える。 「あまり歓迎しない声だね」  勝田は厭味を言う。 「そんなことはありません」  松岡は慌てて否定した。 「そうですか? それなら、けっこうですがね。今日はちょっと重要事項をお耳に入れておきましょう」  もったいぶった言い方をする。 「例の件、いよいよ動き出しましたよ。なにしろ、当事者の一方の大須賀頭取が杉本さんと親しいんですからね。成瀬側の情報も、原沢さんの方の動きもすべてわかります。どうです。わたしの言っておることが信じられませんか?」  勝田は自信たっぷりだ。 「もちろん、信じられます。これも杉本前頭取の実力でしょう」  と持ちあげた。 「その通り、きみは話がわかる」  と勝田は誉めた。 「そこでね。客観的に見た場合、富桑銀行側がリードしてますよ。原沢さんは五百億円の資金提供と、役員クラスを含む幹部行員三名の派遣を決めました」  と教えた。 「決めた? では、大須賀頭取が同意したんですか?」  とたしかめる。 「もちろんですよ。これに対して、三洋銀行側は何をしてると思いますか? 頭取室や役員会議室その他三つ四つの部屋の壁の絵を、大須賀さんに頼んで取り替えて貰おうとしている。それだけです。これじゃあ、子供騙しでしょう。勝負になりませんよ」  憤慨して見せた。 「驚きましたね。成瀬—長谷部ラインはそんな対応をしているんですか?」  松岡は少し呆れた。 「実は、大須賀さんは美術品に特別の造詣を持っておられる。したがって、その方面の相談をするのはわるくない。しかし、それはすることをした後での附録みたいなものですよ。げんに、原沢さんはこれから本部内の主要な個所の絵や彫刻類について、大須賀さんに相談を持ち掛けるらしい。まあ、これがまともな方法でしょうな」  勝田は滔々《とうとう》と述べた。 「なるほど」  松岡は受話器を耳に当てたままゆっくりと頷いた。 「これでは富桑銀行にしてやられる。だいたい、原沢さんと成瀬くんでは、能力、経験、人望、したたかさその他もろもろを含めて勝負にならんよ。きみも成瀬くんに早く見切りをつけた方がいい。今回の合併問題は相手行が優良銀行の太平銀行ですからね。さんざんアプローチをしたあげく、絵画の入れ替えを含む大金を使った上での失敗となると、間違いなく成瀬くんの汚点になる。そうは思わないかね?」  勝田は説得力のある口調で、結論を口にした。  松岡は受話器をもとに戻してから、しばらくじっと躰を固くしていた。表情も引き締まっている。  ややあって、また電話機のベルが鳴り始めた。  彼はベルが、五、六回鳴ったところで、面倒くさそうに左手を伸ばした。 「もし、もし、あたくし、わかる?」  小森理花のかなりわざとらしい甘え声が聞こえてきた。  松岡は何も言わず、いきなり受話器を置いてしまった。      6  その日、松岡は夕方から幹部行員を集めて会議を開いた。  予定外の不意の会議なので不満を漏らす者もいたが、松岡のひと睨みで縮みあがった。彼の顔からは温和さが消え、表情そのものが引き締まって厳しくなっている。  融資部門、預金部門、為替経理部門、営業部門、管理部門、総務、庶務部門等々、福岡支店の営業全部門にわたる総点検がおこなわれた。  夕食として、うな重が出たが、あとは番茶一杯で午後十時まで掛かった。  おかげで、ここしばらく弛緩していた支店内の空気が一変し、期せずして緊張感が甦った。 「いいかね。いま銀行は大変な時代を迎えている。かつて『銀行冬の時代』と言われたことがあったが、皆さんにも実感がある通り、現実はそんなものではない。強いて言えば、氷河期に突入したと言ってもよい」  と言い放って、部下行員たちを見廻す。視線が強いため、睨まれているかのような印象を受ける。 「銀行本体はもとより、系列ノンバンクの抱えている不良債権まで考慮に入れるとなると、何もかも凍りついてしまうと思った方がいいくらいだ。当然、これからは合併問題が起こってくる。かつては十三行あった都市銀行もいまは十一行になっているが、まだまだ減るだろう。八行ぐらいになるという説まである。われわれ三洋銀行は合併する側に廻るのはよいが、間違っても合併される側になってはいけない。そのためにはどうすればよいか? わたしたち支店の行員としては、努力を忘れず、毎日せいいっぱい仕事をする。これに尽きます。どうか、明日からもいままで以上に頑張って下さい」  最後に松岡はやや熱っぽい口調でそう挨拶し、長い会議を締めくくった。  彼は支店を出ると、久しぶりにまっすぐマンションの自室に帰った。  午後十時三十分になっている。三分過ぎないうちに電話が掛かってきたが、たぶん、理花であろうと見当をつけて受話器を取らなかった。  実は、勝田からの電話を受けて以来の迷いがまだふっきれない。心の中での格闘が続いている。そのために急に幹部行員たちを集めて会議を開いたりしたのかも知れなかった。  いずれにせよ、かなり性質《たち》のわるい逡巡はまだ続いていた。  十時四十五分になった。 「よし」  と彼は下腹に力を入れて呟いた。  とうとう決心した。ほかに方法はなかろう。そうなると、もう迷わない。受話器を取り上げ、成瀬頭取の自宅の番号をプッシュする。呼出し音が鳴り始めた。  おりよく、成瀬本人が電話に出た。 「福岡支店の松岡でございます。夜分、申し訳ありません」  一気に言った。 「うむ」  成瀬の声はあまり機嫌が良くない。  しかし、いまとなっては逡巡は禁物だ。松岡は成瀬の性格をよく知っている。前に進むほかはなかった。 「実は、急いでお耳に入れておきたいことがございまして、失礼を省みずお電話させて頂きました」  そう前置きするや、勝田からの情報を要約して語った。ついでに、杉本と勝田が博多を訪れた件にまで言及した。 「なるほど、有難う。よく教えてくれた」  成瀬の声が柔らかくなった。 「きみ、明日、こっちへ来られないか?」  と訊く。 「明日でございますか」  と念を押す。 「そうだ。午後一時頃までにわたしの所まで来てくれ。いろいろ頼みたいこともある。いっしょに昼食を取ろう」 「わかりました。何とかお昼頃までに着くようにいたします」  と松岡は答えた。 「それじゃ、明日」 「お休みなさいませ」  電話は終わった。  彼はすぐ空港の全日空《ぜんにつくう》カウンターへ連絡した。声が弾んだ。抑えるのに苦労する。まだ職員がいて、明朝一番の予約が取れた。これだと多少の遅れを見ても十一時頃には本店に着くことが出来る。  かなり迷いはしたものの、やはり、電話をしてよかった。ほっとして疲れが出てきた。が、爽快感がある。  松岡は目覚まし時計をセットしなおして、シャワーを浴び、早目に眠ることにした。  ほぼ同じ頃、杉本と勝田は電話で話し合っていた。 「お休み前に恐縮です」  と勝田は詫びた。 「なに、かまわんよ。まだ十一時過ぎじゃないか? あまり年寄り扱いしないでくれたまえ」  と杉本は抗議する。 「これは恐れ入りました。ところで、今日の夕方、松岡くんの所へ電話を入れて情報を流しておきましたが」  と伝えた。 「そうかね、松岡くんのことだ。もう一度、成瀬にすり寄るよ。そこで突っぱねられればこっちに付く」 「たしかに」 「もっとも、いまこっちに来て貰っても、さし当たり何もないからね。それより、われわれの都合の良い情報の伝達係を務めてくれた方が有難い」  と杉本は言う。 「相変わらず、人遣いが荒いですなあ」  勝田は感心して見せた。 「何を言うか」 「まあ、まあ」 「たぶん、成瀬は松岡くんを東京まで呼び付けるよ」  杉本は予想する。 「話がこみ入ってきますと、電話では少し苛立つでしょうね」  勝田は口裏を合わせる。 「そんなことじゃないんだよ。ワンマンになるとね、ささいな事柄でも人を呼び付けたくなるものさ」  と杉本はわが身を振り返る。 「そういうものでしょうか?」  勝田は口を尖らせた。 「そういうものさ」  杉本はあっさり結論を出した。 [#改ページ]  明日の仕事      1  松岡紀一郎の到着が予定より早かったので、会食は十二時三十分から始まった。  成瀬と松岡、賓客室に二人だけで向かい合っている。両者がいっしょに食事をするのは、実に、久しぶりだ。  今日はさすがにコックやボーイはいない。和食で、近くの料亭から取り寄せた朱塗りの箱詰めの弁当である。ビールも一本ついていた。 「わざわざ博多から来て貰ったのに、こんな弁当で申し訳ないね」  成瀬は愛想がいい。 「まあ、乾杯しよう」  と奨められてビールの杯を合わせた。  松岡は上気した頬を綻ばせている。 「さあ、遠慮なくやってくれたまえ」  今日の成瀬は上機嫌だ。  料亭のものだけあって、やはり並の弁当とは違う。二人はビールを飲みながら、咀嚼《そしやく》を始めた。 「美味しいですね」  松岡は誉めた。 「そうかね」  成瀬も満足気に頷く。 「きみも危なかったなあ」  ややあって、成瀬は感慨深そうに言う。 「は」  松岡は途惑った。意味を掴みかねたのである。 「きみが杉本、勝田の老人コンビに会って親しく食事をしたという情報はとっくにわたしの所に届いている。きみが二人を地元の料亭に招待してご馳走し、勘定は銀行の接待費で支払った。その時の領収書のコピーまで送られてきたから」  成瀬は静かな口調で教えた。 「………」  松岡は唖然とした顔付きになった。言葉が出てこない。 「きみの支店経営の方針や態度についても報告が来ている。たしかに数字は順調に上がりつつある。その点はさすがだ。文句のつけようがないよ」 「それはどうも」  と頭を下げる。 「最近、また面白い報告があった。『茉理花』とかいうバーの美人ママと男女の仲になっているそうじゃないか? その件で、黒川なにがしとかいう不動産屋につけこまれて追加融資をした。どういうわけでそうなったのか、経過はよく知らん。しかし、はっきりした事実だけはきちんと届けられる」  成瀬はさらりと言った。 「………」  松岡はまた黙り込んだ。  ビールの苦味も、食べ物の味もなくなった。味覚がどこかへ消え失せた。 「こういう状況がもう少し続いていたら、また、例の杉本等の老人コンビとの仲が緊密になるようなら、きみを諦めるところだった。少しばかり支店の数字を上げてくれても、とても取締役候補者というわけにはいかない。しばらく様子を見るために、わたしはあえてきみに会わんようにした。どうだね? いくらか事態が見えてきたかね?」  さり気なく訊く。 「よくわかりました。申し訳ありません。わたくしの不注意と不徳のいたすところです。深くお詫びいたします」  松岡は丁重に頭を下げた。 「なあに、わかればいいんだ。わたしの側に付くことさえはっきりすればよろしい」 「もちろん、頭取の側に付きます」  即座に松岡は言った。 「誓えるかね?」 「はい、神仏とわたしの良心に誓います」  きっぱりと伝える。 「よろしい。認めよう。老人コンビとは縁を切らんように。先方の動きを探れるようにしておきたい」 「承知しました」 「きみは単身赴任者だった。もっとも、条件は同じでも長谷部くんのような堅物もいる。バーのママなら仕方がない。大目に見よう。女子行員でなくてよかったよ。黒川不動産は要注意先として目を離さなければよい」  成瀬はてきぱきと言った。 「恐れ入ります」  松岡は身を縮めた。 「今夜は東京の留守宅に一泊して、明日、夕方までに帰りたまえ。一週間以内に辞令を出す。総務部長をやって貰う」  と言い渡した。 「はっ」  松岡は姿勢を正す。 「働きしだいで、役員への道も開いておく。頑張ってくれたまえ」  と激励された。 「せいいっぱいやらせて頂きます。今後共、よろしくご指導願い上げます」  深く一礼した。 「急ぎの用件はこれで終わった。すでに、きみの情報を生かして検討を始めている。もう一度、乾杯しよう」  成瀬は杯を上げた。  松岡もこれに合わせて、カチリとグラスの端を当てた。  不思議なことに、ビールの味も良くなり、食べ物の味ももとに戻った。      2  成瀬昌之はいったん頭取室に引っ込むと、すぐに長谷部を呼んだ。  このため、まず長谷部の部屋を目指した松岡は、廊下で当人とすれ違うことになった。 「おおっ」  長谷部の方が驚きの声をあげた。 「上だろう」  松岡は明るい表情で上のフロアーを指さした。頭取室という意味である。 「ああ」  と答える。 「ごゆっくりどうぞ。先に各部を廻って、後で寄りますよ」  松岡は笑顔で言う。 「じゃあ、後でゆっくり」  と言い残して、長谷部はエレベーターホールへ向かった。  不審な気持ちがこみあげてきた。あまりにもご機嫌である。急いで振り返ってみたが、もう松岡の姿はなかった。  頭取室内では、成瀬とソファーで向かい合った。 「きみの検討資料は午前中に眼を通したよ。よく出来ている」  と成瀬は誉めた。 「有難うございます。ただ、太平銀行への五百億円はかなりの低金利になるものと思われますので、収益面での影響がいくらかは出る筈です」  と長谷部は応じた。 「このところ、公定歩合は下がるばかりだし、優良企業だと何処へ貸しても赤字になる。まったく、莫迦莫迦しい話だ」 「おっしゃる通りです。そういう意味では太平銀行へ廻る分がそっくり優良企業分に加算されると考えて頂ければ」 「わかった。要するにあまり得にはならんが、用意は出来るということだね」  とたしかめる。 「はい」  短く答えた。 「人材の方はさして問題ないが、富桑銀行からも来るとなれば、見劣りするようだと困るからね」  と注意する。 「その点は人事部長とも相談しまして、十分に考慮いたします」 「よろしい、候補者を出して貰おう」 「承知しました」 「明日、きみが静岡へ行ってくれ。大須賀さんに会って、この件を早く申し入れた方がいいだろう」  と命じた。 「では、そうさせて頂きます」 「夕方、専務以上の役員を集めてある。結論はそこで出す。しかし、変更はない筈だ。きみは前向きに作業を進めてくれ」  成瀬は自信たっぷりだ。 「別の件ですが、一つご相談があります」  と前置きして、長谷部は神谷真知子の転勤について言及した。 「ほう、あの|MOF《モフ》担のお嬢さんか?」  成瀬は興味を持った。  長谷部は石倉から聞いた事柄をかいつまんで報告する。 「すると、石倉くんは彼女の転勤を条件に、きみに協力するというんだな」  と念を押す。 「いや、これは条件ではありません」  長谷部は断言した。 「まあいい、きみに任せよう。ただし、もう一度MOF担に戻すわけにはいかないよ」  とクギを刺す。 「けっこうです。外国部ではいかがでしょう。いま副部長が二人いますが、もう一人増やして欲しいとの要望が出ております。ディーラー部門を増強したいとの意向です」  と言い張る。 「わかった。きみに一任する。その代わり、石倉くんの方、連絡を密にして情報を取って貰いたい」  成瀬は条件を出した。 「そうさせて頂きます」  と長谷部は答えた。  彼は頭取室を出ると、ほっとした。  神谷真知子の転勤、即ち東京復帰が決まったからだ。外国部副部長なら、もちろん栄転だし、ニューヨーク帰りとして格好がつく。彼女のニューヨーク生活がどうであれ、キャリアに傷が付かずにすんだ。それだけはたしかである。      3  ほぼ同じ頃、杉本富士雄は一人で富桑銀行本店を訪れた。今日は勝田忠を連れてはいない。  一階受付で名前を告げると、すぐに頭取室に通された。あらかじめ来意を知らせておいたのだ。  原沢一世はにこやかな表情で出迎えた。 「先日はすっかりご馳走になりました」  杉本は頭を下げた。 「何をおっしゃいますか。久しぶりにのんびりさせて貰いました。わたしの方こそお礼を言わなければなりません」  と丁寧に言う。  二人はしばらく、丁重なやり取りを続けた。彼らは先日、築地の料亭で会食し、協力を誓い合ったばかりである。 「実は、先日のほんのお礼に、お知らせしたいことがあります。やはり、これは原沢さんのお耳に入れておいた方がよいと思いましてな」  と杉本は前置きする。 「それはまた恐縮です」  言いつつ、原沢は少し身を乗り出した。 「ご存じのように、わたくしは、目下のところは三洋銀行の経営にはまったくタッチしておりません。しかし、内部にそれ相応の手づるはあります」  と杉本はしたり顔で言う。 「ごもっともです。杉本さんのお人柄を慕っている部下の方々は大勢おられるでしょう。手づるどころか、太いパイプがあるのではありませんか?」  と原沢はおだてた。 「いや、それほどでもありません。なにしろ、きっぱりと引退してしまったんですから、侘しいものですよ」  と言いつつも、まんざらでもない顔付きをしている。 「まだまだお若くて、お丈夫だ。引退には惜しいお方だ。先日も日銀の理事に会いましたら、杉本さんのお噂が出ました。どうしておられるのか? もう一度返り咲いては? などと金融界ではいろいろ取り沙汰されているそうです」  と持ち上げる。 「ほう、そうでしたか? それはまた有難いお話です」  杉本は嬉しそうな顔をした。  無理もない。もし、三洋銀行と富桑銀行の合併が成立していたら、いかなる長期不況にも耐えられる巨大銀行が誕生し、杉本富士雄はその初代頭取に就任する筈であった。それはもう間違いのない事実だ。  その、すばらしい現実が幻《まぼろし》となった。しかも、あろうことか、一気に引退に追い込まれてしまったのだ。健康でも害すれば諦めもつく。が、杉本はいたって元気だ。権力志向も気力も野望も、いささかも衰えていない。  おかげで、恨みが深かった。失敗の原因の一端はいま眼の前にいる原沢一世にもある。もっとも大切な時期に、原沢の自宅に銃弾が撃ち込まれた。誰のしわざか、犯人はいまだ判明していないが、ダメージは大きかった。  富桑銀行の不良債権が公表されている数字の三倍近くあるとの噂も流れた。合併反対運動は一気に燃え上がり、杉本と原沢が一年以上の歳月を掛けて仕組んだ合併劇はたちまち立ち往生し、結果として、あえなく幕を下ろさざるを得なくなった。  それを思い起こすと、いまでも口惜しさで躰が小刻みに震えてくる。しかるに、原沢の方は依然として安泰で、相変わらず威勢が良く、ワンマン振りを発揮している。いかにも理不尽である。 「それで、どのようなお話でしょうか?」  原沢はもみ手をした。  早く聞きたくて苛立っている。  杉本はにっこり笑い、瞬間、右の眼を閉じた。なんと、眼配せしたのだ。よろしいですか、これは秘密なんですよ、と言わぬばかりのしぐさである。 「わかっております」  原沢は大きく頷いた。 「では、申し上げましょう」  と杉本は言った。あまりじらすと効果が薄れると思ったのだ。 「いまのところ、出所は内密です。申し上げられません」  と断わる。 「けっこうです」  原沢はまた頷き返す。 「お察しの通り、三洋銀行は合併相手として、太平銀行に狙いをつけております。成瀬くんが頭取室その他の絵画を、大須賀さんの意向通りに変更したいと申し入れました。が、これはまあ、ほんのお近付きのしるしと言いましょうか、はっきり言えば挨拶にすぎません。問題はその先です」  わざと言葉をきった。 「なるほど」  と感心して見せる。 「タテマエは別にしてホンネの部分へ入りましょう。メーンは五百億円の資金提供と、取りあえず三名程度の人材派遣です。これは理にかなっております。理由はあえて申し上げるまでもありませんが」  さらりと教えて、今度は杉本の方がやや大仰に頷いた。 「うーむ」  と原沢は唸った。 「これは失礼」  と慌てて詫びた。 「驚かれるのも無理はないと思います。俗に経営の三原則として、ヒト、カネ、モノと言いますが、さし当たり金融界ではモノは後まわしです。となりますと、ヒトとカネがものを言います。とくに、当節は困ったことにカネの力が大きい」  とつけ加える。 「たしかに、おっしゃる通りです。よく教えて下さいました。わたし共も遅れを取らないように頑張ります」  原沢は丁寧に頭を下げた。 「いまなら、まだ十分」  と杉本は言った。 「間に合うでしょうな」  笑顔で小刻みに顎を動かす。 「有難うございました。恩に着ます。この通りです」  原沢は再び叩頭する。  杉本はほんの瞬間だけ、冷ややかな眼付きをした。  合併が失敗に終わった時、原沢はこれほど丁重に頭を下げなかった。杉本はいまさらのように当時の光景を思い出した。      4  その日はちょうどウイークデーのまん中であった。水曜日である。  晴天で、空は青く澄みきっている。ひんやりした爽やかな微風が吹いていた。ゴルフ日和と言えよう。山と森の澄んだ空気が、肺や心臓や胃腸の機能を促進させてくれる。  ここは三島からも、沼津インターからも近い愛鷹山《あしたかやま》の中腹一帯にある「富士《ふじ》エースゴルフ場」だ。会員数を限定している高級ゴルフクラブの一つと言えよう。  周辺には数か所のゴルフ場が点在していたが、設備と雰囲気、気品、客層のレベル、マネージャー、キャディ、従業員たちのマナー等々どれを取っても、他のゴルフ場とは比較にならない。ここは抜群である。  午前九時二十分、二人の老人がフェアウェイへ出て行った。クラブもバッグも最高級品で、キャディは一人ずつ付いている。彼等が午前中にスタートする最後の組であった。  二人共、老人とはいえ血色も良く、足腰もしっかりしていた。背筋もきちんと伸びていて、活動的だ。土日、祭日をさけ、贅沢で余裕のあるゴルフを愉しみたいと思っているのであろう。  両者共、八時三十分頃到着して、カフェテリヤでコーヒーを飲み、前面のグリーンでパターの練習をしてからのスタートである。  大須賀勇造と杉本富士雄の二人組だ。お互いに銀行経営者として親しく付き合ってきた旧知の仲であった。年齢も近く、気の合う仲と言ってもよいだろう。 「これだけ緑が濃いと違いますなあ。やはり、空気が美味《うま》い」  大須賀は満足気に周囲を見廻す。 「たしかに」  と杉本も相槌を打つ。 「しかし、静岡はまだいい。東京にくらべれば天国だね」  とつけ加える。 「静岡も場所によりけりでね。製紙工場の集まっている所はダメだ。それに近頃はどこもかしこも環境破壊が進んでおる」  と大須賀は応じた。 「まったく、地方自治体の県や市の幹部や議員連中は何を考えてるのか? わたしの住んでいる横浜市の神奈川区でね、最近、愚にもつかぬスポーツセンターが出来た。利用者が殆どいなくて閑散としておる。せっかくの竹藪と大木を何十本も切り倒したあげくの暴挙だ」  と杉本は吐き出すように言う。 「そりゃあ、ひどいね。連中は県民や市民の税金を何と心得ているんだろう。これからは市の|発展のために尽くす《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なんて言う手合いを当選させちゃいかんね」  と大須賀も賛同する。 「その通りだ。この際、お役人さんにも早急に考えを改めてもらう必要がある」  言いつつ、二人はスタートのグリーンの上まできた。 「よろしい。これで不平不満はひとまず脇へ押しのけよう。そうしないと成績が落ちる。危ない、危ない。まんまときみの策略に引っ掛かるところだった」  大須賀は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。 「同感だね。環境問題なんか持ち出されるとつい口を尖らせたくなる。危ないのはわたしの方だよ」  杉本は言い返した。  いざ、スタートしてみると、二人共調子が良かった。そうなると口数が減り、プレーに集中するようになる。 「ナイスショット!」  両者共、相手の果敢な一振りを誉めるのを忘れなかった。  昼食時間になると、二人は豪華なクラブハウスのレストランの中の特別室に案内された。スタートが遅かったので、すでに半分以上が空席になっている。  つまみに刺身の盛り合わせを頼み、ビールをコップに二杯だけ飲むことにした。それ以上飲むと午後のプレーにさしさわりが出る。満腹状態になると困るので、あとは茶そばに決めた。  こういうところでも、二人の気持ちは不思議に一致した。どちらもまったく無理をしていない。やはり、気が合うのだろう。 「ところで、例の件だが、うまく運んでいるようだね」  と杉本が口をきいた。 「おかげさまで、今日のゴルフと同じだ。実に好調だよ」  と大須賀が答えた。 「魚は食らいついたな」 「その通り、きみと綿密に練った計画が当たったとしか言いようがない」  二人は満足気な笑いを浮かべ、残り少なくなったビールの杯をカチリと合わせた。 「どうです。もう一本だけ飲みますか」  と大須賀が提案する。 「仕方がない。飲みましょう」  と杉本も応じた。  新しいビールがくると、二人は改めて乾杯した。 「話はいささか飛躍しますが、次の世代の優秀な銀行経営者ということになると、どんなところでしょう」  大須賀が訊いた。 「わたしの見たところ、第一位は石倉克己くんでしょうな。長谷部敏正くんもなかなかいい。この二人が同率首位かな?」 「なるほど」 「高川明夫くんもわるくはない。松岡紀一郎くんにはちょっと癖がある。しかし、能力はあります。水を得れば役に立つ男ですよ。それに、おたくの矢島隆也くんも素朴でいいでしょう」  と言いつのる。 「うちの矢島は田舎者ですよ」  大須賀は即座に言った。 「田舎者、大いにけっこうじゃないですか? わたしだって地方出身者だ」 「これは失礼、そう言えば、わたしも地方の人間です」 「そうでしょう。田舎者を莫迦にしちゃいけない。地方人の地味で地道な努力と骨太さがこれからの世の中を救います」  と杉本は主張する。 「まさに」  大須賀は同意した。 「何といっても、まだ地方は空気も水もいい。食べ物も新鮮だ。老人が大事にされている。こういう環境できちんと育った人ほど底力がある。わたしはその底力に期待しているんです」  はっきりと言いきった。 「わかりました。おっしゃる通りです。矢島くんも喜ぶでしょう」  大須賀は杉本の剣幕に少し圧倒された。 「例の話し合い、いつ頃になりますか?」  杉本は話題を変える。 「およそ一か月後を予定しております。約三週間もあれば、いろいろな問題の結論があらかた出るでしょう。資金の導入も終わる筈です。そこで予備に一週間ほど取っておきたいと思いますが」  と答えた。 「なるほど、完璧ですな」  杉本は頷いた。 「近く、日時と場所を決めてお知らせいたします」  と大須賀は告げた。 「では、会合の場所の隣室にわたしを招いて下さい。勝田くんも同席させてやりたいのですが」  と杉本は頼んだ。 「けっこうです。会合の様子がはっきりわかるようにマイクその他の手配もしておきましょう」  と大須賀は約束した。      5  松岡紀一郎の単身赴任は終わった。約一年数か月になる博多暮らしは、成瀬頭取のひと声であっけなく終わりを告げた。  彼は福岡支店長から本店の総務部長へと栄転したのだ。しかも、成瀬の言葉をそのまま受け取れば、取締役昇格の道も開かれている。  松岡は張り切っていた。以前のように、やや斜にかまえてふてくされるような真似もしない。かつての松岡を知っている者たちも見直した。  総務部長のポストには行内外の情報が集まってくる。廊下や部のまわりをうろつく必要もなく、堂々と大きな机に向かっていればよかった。  そのへんも性格《しよう》に合っているのか、居心地はよさそうだ。 「水を得た魚だね」  長谷部が陳腐なたとえを口にすると、松岡は陽焼けした顔を綻ばせた。 「せっかく誉めるなら、滝を登る鯉と言って貰いたいね」  これまた古くさい言いまわしを使った。 「同じようなものじゃないか」 「いや、違う」  と松岡は主張する。 「魚は水を得れば喜ぶし、張り切る。だが、それだけだ。しかし、滝を登って行く鯉にはしっかりした目標がある」  はっきりと告げた。 「なるほど、たしかに道理だ。やはり、博多で苦労してきただけのことはあるな」  長谷部は感心した。 「よろしく頼みますよ。石倉くんがいないのは淋しいが、それはそれ、時折り、同期会でも開いて、頑張ろうよ。お互い、まだ五十の坂を越えたばかりだ」  と松岡は言った。 「たしかに、これからの十年が人生でも一番の働き盛りだね」  と長谷部も応じた。  二人は改めて握手した。 「いつか、電話でごちゃごちゃ言った件、内密にな」  と松岡は真顔で囁いた。 「もちろんだよ」  長谷部は約束した。 「水に流してくれるか」  とたしかめる。 「流そう」  と請け合った。 「恩にきるよ」 「古くさいことを言うな」  長谷部は声に力をこめた。  松岡は嬉しそうな笑顔を浮かべた。 「先に古くさいことを言い出したのは、きみの方だぞ」 「まったくだ」  二人は声を合わせて笑った。  三日後、石倉の都合がついた。  長谷部、松岡、石倉の三人が久しぶりに集まった。  青山通りに面した有名な割烹「佐阿徳《さあとく》」の予約が取れた。ここはうなぎ料理が専門だが、刺身、天ぷら、煮物、鍋物と何を食べても美味い。材料が新鮮で料理人の腕も抜群である。  地下二階の小部屋が用意されていた。十人位は入れるのに、三人なので実に広々としている。  彼等はビールでかたち通りの乾杯をすると、すぐ酒にした。その方が次々と出てくる料理に合っていた。 「やはり、日本料理が出たら、日本酒を飲まなくちゃ」  と松岡が言う。 「この店は料理もいいが、酒も美味いね」  長谷部が首をひねった。 「今回は長谷部に世話になった。どうも有難う」  石倉は長谷部の方を向いて頭を下げた。 「改まって、何だい」  と長谷部はとぼけた。 「おい、おい、また二人で何かこそこそやってるのか?」  と松岡がたしなめた。 「神谷真知子の件だよ」  と石倉は言った。 「あ、あれね」  と長谷部は照れた。 「神谷真知子がどうした? 彼女、颯爽としているからな。若くて美女だし、英語もうまいときている。ちくしょう。ニューヨークじゃ、さぞかし外国人の男共にもててるだろうな」  松岡はうらやましそうな顔をした。 「それが、案外でね」  と石倉が口をきった。 「われわれの想像とは逆なんだよ」  と教える。 「逆? 何が逆だ」 「どうも、神谷くんはニューヨークでの生活にあまりとけ込んでいない。ちょっと不思議な気もするが、現実は厳しくてね。うまく順応出来なかったんだな」  石倉の説明口調にもあまり説得力はなかった。 「ふうーん、そうかね」  松岡は腑におちぬ顔付きだ。 「そこで、長谷部に頼んだ。東京に戻して貰った方がいいと思った。彼女をニューヨークへ出したのはぼくだからね。正直なところ、向こうで会ってみて責任を感じたよ」 「なるほどなあ、相変わらずきみは責任感が強い。見習わなくちゃいかん」  松岡は感心してみせた。 「ぜひとも、大いに見習って下さい」  と長谷部が口を挟んだ。 「おい、おい」  松岡は口を尖らせる。 「ところで、来週の金曜日に彼女はニューヨークから帰ってくる。フライトの手配も済んでいる。たしか、夕方の四時半位に着く筈だよ」  と長谷部は教えた。 「そうか、それじゃあ出迎えに行くか」  と石倉が言った。 「どうして、きみ一人が行くんだ。ぼくも行くぞ」  と松岡が詰る。 「じゃあ、三人で成田空港へ行こうか」  長谷部が提案した。 「車は総務部長に手配して貰おう」  とつけ加えた。 「わかりましたよ」  と松岡は応じた。      6  大須賀勇造が指定した静岡への招待日が近付くにつれて、成瀬は苛立ちを覚えた。  理由はわからない。  成瀬としては打つべき手は打った。五百億円も送金済みだし、人員も三名送り込んだ。取りあえず、役員一名、支店長クラス二名を出向させた。  絵画の入れ替えもすべて終わった。結局、大須賀が指定した十二点の絵を購入し、画商との折衝もすんだ。しめて十八億円の支出になった。 「安い買い物でしたね。四、五年前だったら、合わせて七十億円は出たでしょう」  大須賀は恩着せがましく囁いた。  成瀬としてはさんざん美術談義を聞かされたあげく、丁重にお礼を言うほかはなく、絵画の値段が妥当なものなのかどうかをチェックするすべもなかった。  とはいえ、実感として高い買い物をしたような気がしてならない。 「まあいい、太平銀行との合併が成功すれば安い経費だ」  と彼は呟いた。  招待日の当日、昼食会の席上で大須賀は重大な決意を告げると予告されていた。こちらは先方の要求をすべて呑んでいる。たぶん、色良い返事が聞けるであろう。そうは思ったものの、不安もあった。  一方、原沢の許にも同じ招待状が届いていた。  日時もまったく変わらぬ昼食会である。  原沢は役員と部長クラス二名、合計三名を派遣し、六百億円を送金した。三洋銀行の融資額にあえて百億円上乗せしたのだ。  その代わり、絵画は五点しか買わず、支払い金額は五億円であった。  原沢も不安を覚えていた。手ごたえは感じられた。杉本からの情報も何度か入った結果、合併相手が三洋銀行になるとは思っていない。その点は大丈夫だとの確信はある。  選ぶなら、富桑銀行を選ぶ。そんな気がする。  しかし、不安は不安だ。珍しく苛立ち、部下の役員たちや秘書課員たちに丁寧な言葉を遣うのはやめてしまった。  ともあれ、招待日は近付いてきた。  成瀬にも、原沢にも、ほぼ同じと言ってよい共通項があった。  野心家で、なかなかのやり手だ。太平銀行を格好の合併相手と考えて、これを呑み込んでしまおうと思っている。  もちろん、対等合併をうたうが、それはあくまでもタテマエである。ホンネは吸収合併にほかならない。  両者共、今回は爪を隠した。大須賀のご機嫌を取り、何でも言う通りになった。  資金提供も、人材派遣も大須賀の要求である。ただ、絵画の購入については、大須賀の意向を汲むかたちになった。  こうして並べてゆくと、不思議なくらい似ている。共通項が重なってしまうのだ。  まだある。  成瀬も、原沢も、今度の招待日には自分たちだけが招かれていると信じ込んでいた。  それぞれの宛先へ別送された招待状には成瀬と長谷部、原沢と高川の名が墨で記されている。  両者共、まさか同じものが別の場所へも送られたとは思っていない。  場所は静岡県下の「焼津グランドホテル」である。時間は正午で、特別室にてと書かれていた。  当日になった。  成瀬と長谷部は新幹線のグリーン車で、原沢は車で行くことになり、高川が頭取専用車の運転席の隣りに乗り込んだ。  出発前に、両銀行共にひと波瀾あった。  三洋銀行には何者かに狙撃された横浜支店長の死が伝えられた。  北野支店長は被弾して病院に運ばれて以来、一度も蘇生せず、そのまま心臓が停止せず呼吸を続けたとはいえ、完全に植物状態になっていた。  そして、とうとうこの日の早朝、力尽きたのである。  成瀬は知らせを受けると、思わず舌打ちした。 「選りに選って、こんな日に」  と呟いて、下唇を噛んだ。  とはいえ、頭取の静岡出張はいささかも変更されず、午前九時四十分になると、長谷部をともなって出発した。  同じ日の八時三十分、富桑銀行総務課長に緊急の電話が入った。以前、頭取宅に銃弾を撃ち込んだ男が逮捕されたとの知らせが届いたのだ。犯人は総会屋グループの一人であった。  もちろん、こちらも頭取の予定に変更はない。 「朗報だな。悪い奴はそれ相応の報いを受ける」  原沢はそう言い残して、八時四十分には頭取専用車に乗り込んだ。 「焼津グランドホテル」の三階特別室に四人の男たちが集まった。  午前十一時、彼等はここで顔を合わせて挨拶し、早速、コーヒーを愉しんだ。  大須賀と矢島、それに杉本と勝田である。  特別室では正午から昼食会が始まることになっていた。  賓客は原沢と高川、加えて成瀬と長谷部だ。これを大須賀と矢島が迎える。  勝負は、原沢、成瀬、大須賀の間でおこなわれる。当然、三つ巴になるだろう。あるいは二対一ということもあり得る。  いずれにせよ、相当な見ものだ。隣室で杉本と勝田が招待客と同じフランス料理を愉しみつつ、逐一会話を聞くことになる。マイクのテストはすでに済んでおり、感度は良好であった。  十一時三十分になると、杉本と勝田は隣室へ引っ込んだ。  成瀬と長谷部は十一時五十分に特別室にあらわれた。  続いて、五十五分に原沢と高川が姿を見せた。  成瀬と原沢ははっしと顔を見合わせた。火花は散らない。両者共、すぐに眼をそらして大須賀の方を見た。  大須賀はそ知らぬふりして、窓の外を見ていた。わざとタイミングをずらしたのだ。 「さあ、さあ、どうぞ」  と椅子を奨める。 「遠い所までご足労頂いて、大いに恐縮しております」  したり顔で言った。 「実は、わたくしとしましては重大な決心をしましたので、ぜひとも、三洋と富桑銀行のトップにお出で頂きたかった。別々にお招きしては、どちらかが先になります。それでは不公平になると考えたわけです」  と挨拶する。 「なるほど」  と成瀬が応じた。 「ごもっともです」  と原沢も答えた。  まず白ワインで乾杯し、すぐに赤ワインも出た。前菜が出て、正式なフランス料理の食事が始まった。  長谷部と高川は予想外の成りゆきに途惑いを覚えたが、成瀬も原沢も平然としている。 「大須賀さんに感謝しないといけませんな。実に、良い機会を作って頂いた。と申しますのも、近くにいながら成瀬さんにお目に掛かる機会がなかなかありませんのでね」  原沢はしゃあしゃあと言う。 「同感ですなあ」  と成瀬もすかさず言い返す。 「そう言って頂けて光栄です。お招きした甲斐がありました」  大須賀も負けていない。  スープ、魚料理、肉料理と続いて出てくる間は、こういう調子で世間話から経済情勢まで話題は多岐にわたった。いずれも負けん気の持ち主で口達者である。  長谷部、高川、矢島は共に圧倒された。このクラスはひと言も口を挟めなかった。もし、口を出せばひと睨みされて引っ込むはめになる。  デザートが出た。果物とアイスクリームとケーキが一皿に盛られている。やがて、コーヒーが運ばれてきた。  あらかじめ言いつけられていたのか、それをしおに、黒服のマネージャーも二人のボーイたちも姿を消してしまった。 「お待たせしました。どうやら、機も熟したようです」  大須賀が始めた。  周囲は静まり返った。成瀬も原沢も口を噤んでいる。 「約一か月前にわたくしは重大決心をしました。以後、二週間が経過しても、気持ちは変わりません。そこで、あえてご案内を出したようなわけです」  まず心境を語った。 「前置きは以上にいたします」  言って、あらためて成瀬と原沢の顔を見くらべた。 「わたくしが申し上げようとしているのは合併問題です。それ以外のことは今日の議題から外します」  と告げた。 「けっこうです」  と原沢が応じた。 「そうして下さい」  と成瀬も言った。 「では、わたくしの重大決心を申し上げます。合併の条件です。この条件以外なら、合併案はご破算になります」  大須賀はまた一同を見廻す。 「その前に、順序として、三洋銀行、富桑銀行、そしてわたくし共の太平銀行の三行対等合併を提案します」  と言いきった。 「三行?」  と原沢は漏らし、成瀬は渋面を作った。 「うーん」  続いて原沢は唸り声をあげた。 「いままでは二行のケースしか考えなかった。さすがに大須賀さんだ。三行とはねえ」  首をかしげながらも、興味を抱いた様子である。 「困りますなあ。富桑さんとうちは合併話がこわれて一年と数か月しか過ぎておりません。状況は当時とさして変わっておらず、まず拒否反応が生じます」  と成瀬は答えた。 「あの合併話を潰したのはあなただ。拒否反応はあなた自身の中にある」  と原沢が指摘する。 「まあ、まあ、それより、わたくしの条件を聞いて下さい」  大須賀が険悪になった成瀬と原沢を制した。 「もし、三行合併が成立すると、不沈戦艦のような巨大銀行が生まれます。これこそ二十一世紀にふさわしい大銀行だ。そうお思いになりませんか?」  大須賀は大きく頷いて見せた。  成瀬も原沢もつられた。 「せっかくの巨大銀行なんですから、すべてを新しくする必要があります。この際、成瀬、原沢両頭取とわたくし大須賀は辞任しましょう。それで、新銀行の経営スタッフですが、石倉くん、長谷部くん、高川くん、松岡くん、そして矢島くんの五名を推薦します。五人の中から会長、頭取、副頭取の三役を選出すればよろしい。わたしたち三人は口を出さず、揃って顧問か相談役になる。どうです? すばらしいプランでしょう。これがわたくしの三行合併に関する条件です」  大須賀はそう言い放って、成瀬と原沢の眼を交互に見据えた。  二人共、眼をそらした。  まず、成瀬が立ち上がる。続いて、原沢も立った。  両者は会釈もせず、出口へ向かう。前後して、何も言わずに部屋を出て行った。慌てて長谷部と高川が従う。  後ろ姿が視界から消え、ドアが閉まると、大須賀は笑い始めた。いったん笑い出すとなかなか止まらず、声は次第に大きくなった。 [#改ページ]  あ と が き  最近の世の中の移り変わりは実に早い。とりわけ、バブル経済の猖獗《しようけつ》と破裂。これに続いた余熱と不況時代の到来、さらには出口の見えないデフレ不安の高まり等々をわたしたちはわずか六、七年の間にすべて体験することになった。  こういう一連の流れの中で、不動産価格の下落に始まり、銀行を中心にした金融機関の不良債権の異常な膨《ふく》らみが明るみに出た。消費の低迷に加え、住専問題、農協、生保、証券、ゼネコン等々の危機が次々と明白になる一方で、大型倒産も続出する。  これに総会屋の脅迫や企業と広域暴力団のつながり、加えて、銀行の|MOF《モフ》担を通じての大蔵省、日銀等とのこれまた度を越した癒着《ゆちやく》ぶりが白日《はくじつ》の下《もと》にさらけ出された。  通常の料亭や一流レストランでの飲食、ゴルフや銀座のバーでの接待などは、常識として誰もが知っている。ところが、新宿のノーパンしゃぶしゃぶとか、銀座の秘密クラブ、向島の料亭での桃色接待等々、一般庶民の聞き馴れぬ過剰接待の実情が次々と露呈されてしまった。監督官庁のたかりの実態が明白になったのだ。  国民の血税から出される三十兆円も、本当にこの資金を必要としている中小金融機関にはまったくゆき渡らず、必要のない大手銀行だけが山分けするかたちになった。これも接待漬けの大蔵省の役人が決めたことである。  こんなありさまでは、目下、中小企業の倒産の引き金になっている銀行の貸し渋り問題が解決するわけもない。中小企業に資金の大半を貸しているのは、地銀、第二地銀、信用金庫、信用組合等の中小金融機関なのだ。それを忘れて、いや、無視しての三十兆円の導入である。  しかも、この三十兆円をスムーズに導入するために、国民の危機感をあおる必要が生じて、山一証券、三洋証券、北海道拓殖銀行等々が次々と破綻に追い込まれた。この破綻が一種の陰謀であった事実まで、今では知る人ぞ知るである。  あげくに、すでに始まっているビッグバンによって、日本国民の千二百兆円もの貯蓄が狙われている。外国の証券会社や銀行がこれを根こそぎ奪って国外へ持ち去ってしまう。今や、多額な国債を無理やり買わされたアメリカとの経済戦争の完璧な敗戦が明らかになりつつある。実はこれも大蔵省の指導による政策失敗と言えよう。  リストラの嵐が吹き、解雇時代を迎え、失業者と凶悪犯罪が急激に増える。人々の心は荒廃し、日本はきわめて住みにくい国になる。  こうした中で、経済のいわば血液の役割を果たしているのが銀行である。その銀行も変わる。変わらざるをえない状況に置かれているとも言えよう。  だが、変わらないものもある。銀行の内部でさまざまな状況と闘いなから、ややおおげさに言えば、日本の経済を支え、具体的には取引先の顧客を守り、大切に育成し、不正と闘い、誠実におのれの職務を全うして日夜努力しているこの作品の主人公たち、長谷部敏正、石倉克己、松岡紀一郎、それに、キャリアウーマンの神谷真知子等々の存在である。  こういう人たちがいる限り、わたしたちは希望を持ってもよいのではなかろうか?  確かに、今のわたしたちは清流だけでは生きられない。濁流に呑まれそうになることもしばしばある。しかし、そうは言っても、安易に汚辱《おじよく》に染まってはいけない。ビジネスの世界で生きる以上、失敗を恐れず、常に前進できるタフネスでありたい。  これからのわたしたちにとって、避けては通れぬ一番大切な問題を、果敢な主人公たちの生き方を通して読者の方々といっしょに考えてみたい。それが本書執筆の動機である。   一九九八年三月  初出誌 本書は一九九八年四月、光文社より刊行されました 〈底 本〉文春文庫 平成十三年四月十日刊